77 『おかえり』
星史の東京帰還は、驚くほど円滑に事が運んだ。
朝丘家への説明。東京に残っている両親への連絡。以上の二項目に、反対と説得がワンセットで最大の障害になると覚悟していたのに、全然そんなことなかったのだ。
実際のところ大方は察していた。
円滑の裏にあったのが、イヨさんの介入か、もしくは、僕という人間が訪れた時点で、朝丘側にも予感や覚悟があったか、だ。もしかすると両方かもしれない。
中一日を使って帰還の意図を告げ、荷物をまとめ、その他手配に、夜にはまた送別会という名の賑やかな団欒が開催された。
三人で乗ってきたセダンに、星史を加えて発つことになったのは、僕がこの地を訪れてから二日後だった。
「星ちゃん。また、いつでも……いらっしゃいね。」
出迎えてくれたあの明け方から、一貫して明るく振舞い場を和ませてくれていた千寿さんが、笑顔とは不釣合いの湿っぽい声を震わせたのは、このときが初めてだった。
「やだあママ。なに? 星史死ぬの? ウケんだけど!」
横から笑いながら、千意子さんが千寿さんの肩を叩く。そこで堪えきれなくなったのか、千寿さんは顔を覆った。千意子さんは「あーあ」と言いながらも、そのまま母親の肩を摩った。
「で、あんたもまた来んでしょ?」
摩りながら僕に問う。突然の質問にどぎまぎした。
「え……と、また来ても、いいんですか?」
「は? むしろ次が無かったら超謎なんだけど。」
間髪入れずに、声にどすを利かせる。
「脅してどうするのよ。来てくれるものも来てくれなくなるじゃない。」
「もお冗談に決まってるじゃん! 依世ちゃーん、ほんとに帰っちゃうの? 超さーみーしーいー。」
「………。……伯父さま、本当にお騒がせ致しました。」
「いいや。顔が見られて良かった。先方にも宜しく伝えてくれ。」
元希さんとイヨさんが律儀な別れを告げあう。その流れで、元希さんは佐喜彦さんとも談笑を含んだ別れの挨拶を交わした。
「……星史、」
一通りが済んだところで星史を呼ぶ。堅物な視線が、まっすぐ彼に向いた。
「毎日、楽しくすごしなさい。」
お説教のように、穏やかに言い聞かせる。
星史はまばたきを二回ほど挟み、目を細めてにっと歯をみせた。
「もち。」
手をひらひらさせて後部座席に乗り込む。
僕も隣に乗り込もうとしたところ、元希さんが続けて「皆口くん、」と、呼びかけてきた。慌てて乗るのを中断し、振り返る。
「本当に、ありがとう。」
元希さんは深々と頭をさげていた。
僕も、負けないくらい深々とさげた。充分すぎるくらい時間をかけて、ゆっくりと頭をあげたところ、気づけば道臣くんが隣にやってきていた。小さな両手で僕の手をとり、か弱く握って、小首を傾げる。
「あさひさん、また、ね。」
最後の最後まで骨抜きにかかってきた天使の頭を撫でて、今度こそ後部座席に乗り込んだ。
セダンが軽やかな動きで走り出す。
あっという間に、『せきと』の暖簾が小さくなっていった。
往路はほとんど夢の中だったせいか、帰りは新潟から東京という長距離をいやに実感できた。距離にして300キロと少し、近いようで遠い。
「新幹線なら二時間ちょっとなんだけどね。でもおれ嫌いじゃないよ。高速道路って。」
星史は疲れも見せずにずっと喋っていた。高速道路の山だらけな辺りでも、もの凄く長いトンネルでも。
星史のお喋りは雑談以外の何物でもなかった。
テレビの話、スポーツの話、僕らが訪れるまでに起きた朝丘家の出来事、一昨日のゲーム大会の話題。それらから各々、更に派生させてゆく雑談……
よくもまあ話題が尽きないものだ。僕はもう慣れたものだし、佐喜彦さんは聞き上手だし、イヨさんに関してはがっつり身内だし、彼が喋りやすい環境といえば納得もできるのだけれど。
ただ、僕にはなんとなく違和感が生じていた。
星史にじゃない。イヨさんだ。
もともと、口数が多い人ではないけれど、今日の彼女はどことなく無口だ。それは機嫌が悪いとか、元気が無いとかじゃなくて、しいていえば傍観に徹しているような……
「佐喜彦さん、コーヒー飲みたい。」
傍観者のような彼女を観察していると、突然口を開くものなので驚いた。本日のイチノセイヨの中で、一番声が張っていたような気もする。
「はいはい。了解。」
佐喜彦さんはその一言のみで、次に通りかかったサービスエリアに立ち寄った。
「私たちコーヒー買ってくるから、ここで待ってなさい。」
駐車するなり、シートベルトを外しながらイヨさんが言う。「私たち」というところ、同じく降りる支度をしている佐喜彦さんを、同行させるつもりなのだろう。
「混んでるみたいだね。ちょっと、時間掛かるかも。」
相変わらず、二人は口調もしぐさに表情も対照的だ。棘のある口ぶりのイヨさんに比べ、佐喜彦さんは柔軟に、「待っててね」と添えた。
「星史、」
だからこそ、その呼びかけにはいつも以上の棘を感じた。
「彼のこと、当たり前に思うんじゃないわよ。」
叱りつけるような口調と、忠告のような言葉。
虚を衝かれて黙ってしまった星史を残し、イヨさんは一人、さっさと降りて行ってしまった。
サービスエリアに向かって足早に歩いてゆくイヨさんを眺めたのち、浅い溜め息を挟んで、佐喜彦さんは視線を星史に移した。
「今のを直訳するとね、「お礼は言ったの?」、だよ。」
既に彼女には届かないだろうに、声を潜める。
そのまま品の良い微笑を溢し残して、彼も行ってしまった。
きょとんとしていた星史が一転、ふて腐れた顔になる。シートの背もたれに、どかっと踏ん反り返った。
「なんだよ偉そうに。俺に説教垂れる前に、自分こそ早く相手みつけろっての。」
聞かれていないのをいいことに、大きな愚痴をこぼす。その様子があまりにも子供じみていて、不覚にも微笑ましかった。
「そうだな。」
笑い混じりに一応同調する。
「やだねー。性格きつい女は。」
「そうだな。」
「だから佐喜彦以外友だちいないんだよ、あの人。」
「はは。友だちなんだ。」
「友だちっていうか、友だちみたいな家族、的な……まあ、家族寄りの、ともだち。」
「はは。こじれてんのな。」
幼い子供と調子を合わせるような会話を繋げるうちに、気づく。
「……でもさ、なんかそれって、」
そういや、来るときにも言われたな。
「近いな、俺たちと。」
会話がそこで途切れた。
僕は星史を見るでもなく、背を向けるでもなく、フロントガラスの向こう側に広がるサービスエリアを、ぼんやり眺める。
視界の片隅で、踏ん反り返っていた星史が背もたれから背中を離した。
座席の上で体育座りをしている。……あーあ。上質そうなシートに靴のまんまで……指摘したかったけれど、やめた。
「……。
コーヒー、買ってくるって、おれたちのも、コーヒー……かな。」
やがてぽつりと、新しい会話を始めた。
「どうだろ。」
「……おれ……カフェオレが、いいな。」
またもや不覚にも笑ってしまった。
「そうだな。おまえ、寿司でもカフェオレで大丈夫な奴だもんな。」
今度は結構遠慮なく、吹きだすように笑う。
星史はまた、すこし、黙った。
「…………あさひくん、」
おう。
あえて素っ気なく僕は返事をする。
「……その、……むかえ、きてくれて………ありがと。」
おう。
あえて、星史を見ないようにする。
なのに、やはり視界の片隅には、どうしたって彼が映る。
高級そうなシートの上で、靴のまんま遠慮なく膝を抱えて、見間違いじゃなければ、ふるえている。空耳じゃなければ、洟をすすっている。
隣から、ぐしぐし、きこえてくる。
「……たっ……たらい……まぁ……っ……」
ただいま、のつもりなのかな。
子供じみていた十七歳が、ただのこどもになる。車の中が涙の音でいっぱいになる。
「おう。おかえり。」
僕だけは大人ぶって、素っ気なくを貫いた。




