75 『敬意』
最初に足を踏み入れた明け方の印象が強かったせいか、ピーク時の『せきと』の繁盛振りには驚かされた。これは人手が歓迎されるわけだ。
常連ばかりの地域密着型の店かと思いきや、観光客らしき客層も多く見受けられたのだ。聞くところ、昔はこじんまりとした舗だったが、当時そこそこの視聴率を誇っていたテレビ番組に取り上げられ、その際訪れたのが当時の人気俳優だった影響もあり、客足が潤い事業が拡大したのだという。
「パパとママが結婚する前の話でしょ?」
「じゃあ、依世が小学生くらいのとき?」
「あはーまじで大昔じゃん。」
「ぶっ飛ばすわよ。」
営業終了後の午後三時。後片付けの終えた店内には、例の騒がしく和やかな団欒が再燃していた。みんなそこそこ疲れているのに元気だなと感じる反面、先程までの店内を思い返せば、納得のいく節もあった。
一言で表すなら、楽しそう、だったのだ。
厨房で腕をふるうイヨさんと千寿さんも、客席を任された佐喜彦さんも、半ば強制的に手伝わされていたはずの千意子さんも、そして誰より、星史も。
顔見知りであろう客から声を掛けられたり、時には席で呼び止められていたり、観光客からは例の大昔の人気俳優について話を振られたり……。親世代、下手をすれば祖父母世代の客相手にも星史は気さくに対応し、場を和ませていた。
それが仲村星史だから。……とは、一概に言えなかった。
違ったのだ。
僕が学校で見ていた人気者「仲村星史」と、『せきと』で働く「仲村星史」は、全くもって別人だった。
なのに、違和感が無かった。
違和感が無いという違和感が確信に変わったのは、予定通り開催された、夜の歓迎会でだった。
「皆口くん。今日は頑張ってくれたようだね。」
元希さんが労ってジュースを注いでくれる。
「い、いえ。そんな。ご迷惑ばかりおかけして……」
「そんなことないないっ。すっごく助かっちゃった!」
僕の謙遜を千寿さんは明るく否定して、讃えてくれた。
「そうそう。星史より使えんじゃん?」
「ひっど。むしろ千意姉より使えたし!」
「……あなたたち二人よりよっぽど要領良いわよ、彼は。」
「厨房任せても飲み込み早そうだよね。」
「じゃあさ、じゃあさ、おれと旭くんで新しい支店作っちゃう?」
「なんでそんな話になるんだよ。」
やはりまた、途切れることのない声達の後から、笑いが起きる。
騒がしくも和やかな団欒に包まれる。嘘偽りない、まっとうな家庭の一部に、ちゃんと彼がいる。
無邪気に笑う星史がいる。
団欒に馴染み楽しむ傍らで、確信した。
僕は、もうずっと前から、この星史を知っている。
愛してくれるひとたちに囲まれる彼を、愛される子でいる彼を、いつの間にか知っていたんだ。
あのひとが
愛され過ぎてるくらい、
愛されてることだけは
……あんたよりも知ってる
あんたよりも 知ってるんだから
……彼女ほどじゃ、ないけれど。
意識が薄れる直前で、視界に映りこんだ彼に目を奪われた。
隣で眠る星史はこの上なくすこやかで、これまでの騒動が嘘みたいに安らいでいる。静かな寝息と無垢な寝顔を前に、彼が受けた迫害の日々が脳裏を巡り、心臓が潰されそうになった。
星史は否定したけれど、騒動の責任が僕に一片も無いとは言い切れない。
僕が、母子手帳をもっと厳重に保管していれば。
無理にでも、ひのでに被害届を出させておけば。
百香が疑われた時点で、名乗り出ていれば。
星史が『信者』の襲撃を受けた日、彼を連れ出していなければ。
僕らが、出逢わなければ。
数え切れない仮定を、過去を、悔む。どこかで修整できなかったのかと、歯車を直せなかったのかと、悩む。無駄に考える。
就寝前までの星史を思い出す。
歓迎会の途中から、朝の約束どおりゲームをした。テレビ画面と二つのコントローラーを用いる、古めのゲーム。
大いに盛り上がった。星史のゲームの腕は相変わらず雑魚同然で、それ以上に佐喜彦さんが群を抜いて下手っぴで、気づけば朝丘の面々に混じって、僕も本気で笑っていた。
元希さんたちが住居に戻り、まだしばらく、星史を含めた来客組で遊んでいたけれど、おいおい御開きにして、星史は僕の泊まる部屋に布団を敷いた。
ようやく二人きりになれて、積る話もあるだろうと夜更かしを覚悟していたのに、拍子抜けもいいところ星史は早々爆睡した。
おかげでこっちはすっかり目が冴えてしまった。
布団の中で仰向けのまま、部屋中を見渡す。外観と同じく和風の造りをしているけれど、所々近代的なデザインも見られ、おそらくリフォームされているのが判った。
睡魔を待ちながら何気なく障子戸のほうを見ると、向こう側が微かにぼんやり明るいことに気づいた。
障子戸を開くと、縁側を挟んで庭が広がっていた。生垣が不自然な位置で、壁のようにそびえている。
灯かりは、生垣の奥で点っていた。飛び石の並ぶ道を渡れば向こうに辿りつけそうだ。
星史を起こさぬよう布団を抜け出し、忍び足で玄関から靴を運んだ。
縁側から庭へ出る。
まるで灯かりに誘われるように、飛び石を歩いた。
「あら。眠れないの?」
庭の奥に隠されていたのは、もう一つの庭だった。四方を生垣に囲まれ、外灯が設置されている、用途不明の庭。
そんな不思議な空間でイヨさんはひとり、佇んでいた。
「なんですか、ここ。」
ぶしつけに僕は変な質問をした。彼女とのやりとりが馴染んできた証拠なのかもしれない。
「ここね、むかし、兎を飼っていた跡地なの。」
やはりイヨさんも、あっさり答えてくれた。
「うさぎ、ですか。」
「ええ、うさぎ。」
「小屋、あったんですか、」
「ええ。柵もあったわ。」
時刻は午前一時前。双方とも、寝床から出てきましたといわんばかりの寝巻き姿。そして、兎小屋の跡地だという庭。
奇妙な集合を果たした僕らは、不相応で淡白な会話を繋げる。
「もともと、この庭も舗も、養母の持ちものだったの。」
今度はイヨさんが唐突に言った。
「イヨさんの……おかあさん?」
反射的に言葉を返す。
頷いたのか、瞼を伏せたのか、イヨさんは曖昧なしぐさのあと、
「……皆口くん、」
まっすぐ、僕を見据えた。
「血なんて、くだらないと思わない?」
血が、くだらない。
雑な言い回しだなと思った。おそらく血縁を意味しているのは、すぐ理解できたけれど。
しかしこの雑さが、却ってイチノセイヨらしいとも思えた。
「……朝丘の人間たちは、みんな、星史の出生も素性も知った上で、あの子を受け容れているわ。差別も特別も無い、家族として接している。血の繋がらない、あの子を。」
証拠に、彼女の声は本来の説得力以上に、僕へ刺さる。
「ここでは誰もあの子を迫害しない。……ここにいれば、あの子はまだ、仲村星史として生きていけるの。」
刺さるなんてもんじゃない。
ぶっ刺してくる。貫通する勢いで、内臓ごと吹き飛ばすみたいに。
「あなたに、あの子を連れ戻せる?」
狙いを定めるように言い放った。
瞬時に、気づく。
彼女は最初から、僕に手を差し伸べてなんかいない。
「東京を発つ前に、私、言ったわよね。あの子があなたの足枷になるって。」
協力者なんかじゃない。
「それは、星史からしても同じ。」
逆だ。
思い知らせようと、したんだ。
「あなたの行動次第では、あなた自身が星史の足枷になるかもしれない。あなたのしようとしていることは、あの子を不幸にする結果を、招くかもしれない。」
この場所で生きる彼を、尽きることのない笑顔を、暖かな周囲を、平穏な団欒を、幸せな星史を、見せ付けるために、
「名塚という血だけのために。」
名塚旭を、連れて来たんだ。
『僕らが、出逢わなければ』
僕が僕に言う。
先ほどの、すこやかに眠る星史を脳裏に映し出して、囁く。
僕らが、出逢わなければ……今なら、出逢わなかったことにできると、囁く。
修整がきくのだと、歯車を直せるのだと、教えてくれる。
イヨさんの視線と一緒に。
………。
“他に、”
“何もいらないんだ。”
“お金も、学校も、友達も、家族も、”
“……なまえも。”
………。
“セージさまを……おねがい。”
………、
……今さら、何を迷うってんだ。
「────連れて帰ります。」
イチノセイヨ、
あなたの主張なんて、知ったことか。
「星史が、俺を選んだんです。」
だからこそ、心から思うよ、
「血じゃないんです。俺たちは。」
星史の家族になってくれたのが、あなたたちで、……あなたで、よかった。
「俺は、あいつが選んだ俺を、優先したい。」
最大の敬意を、払わせてくれ。
そして、願わせてくれ。
「全部……担わせてください。責任も、あなたたちも、全部。」
俺に、俺たちに、あなたを担わせてくれ。
「俺も、星史を選びます。不幸になんてさせない。」
俺と、
彼女は、
何よりも星史を優先するから。
それが、俺たちだけのかたちだから。
イヨさんが視線を伏せる。浅い、音の無い溜め息を、しぐさだけで見せる。
手の震えを隠しながら、まばたきを我慢しながら、僕は次の彼女を待った。
罵倒されたら土下座しよう。殴りかかられたら素直に殴られよう。通報は……さすがにないと思うけれど……。
なんて矛盾な自分だろう。ある程度色々諦めて、覚悟して、我を貫いた。
そのくせ、かなりびびっていた。イヨさんが耳に髪をかき上げただけで、びくっと身じろぐ。
「本当にくだらないわね。血なんて。」
血がくだらない。先程と同じ台詞が違う音で耳ににじんだ。敬意を払って、その意味を考える。僕にとっての血を、家族を、思い出す。
「くだらない……かは判らないけど、俺には、もどかしくて……時々、わずらわしい、です。」
母と妹……一番身近な家族を思い浮かべた。
「もどかしくて煩わしい、か……」
イヨさんはその感想を、噛み締めるように小さく復唱した。
「……そうね。」
やがて、納得した顔をあげる。
「くだらなくて、もどかしくて、煩わしい。そんなもの、無視しちゃえばよかったのよね。」
どこか吹っ切れた彼女からは、薄れかけていた好感度がまた感じ取れて、僕の震えもいつの間にか治まっていた。
「イヨさん……意地悪じゃないですか。独占して、ふんだくってやれって、言ったくせに。」
あの、あっさりとしたやりとりを期待する。
「それとこれとは話が別よ。」
有り難いことに、彼女は期待に応えてくれた。
「そういうところですよ。」
だから僕は、彼女を心から敬愛する。
「あなたはほんとうに、下衆で、意地悪で、すてきです。」
ふふっ、と、今まで見たことのないイチノセイヨが、笑った。
「あなたも、あと三十年早く生まれていれば、もっと素敵だったはずよ。」
妖艶で、あどけなく、どことなく母性的に、たぶん、讃えてくれている。
「それじゃ、イヨさんよりずっとオジサンになりますよ?」
「だから素敵なのよ。」
話し合いはこれにて成立。どちらともなくそれを納得とする合図のように、ふと夜空を見上げた。
新潟は、やたらに星が多い。




