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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第十三章】 新潟へ
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74  『平穏』




 日々の生活において、連想する「朝ごはん」はどうしてもパンだった。六枚切りの食パンを、軽くトーストしたもの。

 それと並ぶ動物性たんぱく質は、卵かベーコンかウインナー。野菜類はだいたいがサラダで、ごくたまに野菜のスープ。飲み物は牛乳かコーヒー。

 マーガリンやジャム類は誰の席からも平等に届くよう、テーブルの中心に置かれていた。僕はたいていマーガリンのみか、気が向いたときにピーナッツバターを選んでいた。


 妹は、いつも苺ジャムだった。


 トーストにマーガリンを薄く塗って、その上から山のようにぼってりとジャムを落としていた。妹がジャムを使うと、瓶のなかみは一度に半分くらい減っていた。

 案の定、口のはたや指先は、すぐ苺色に汚れていた。


「ほら、また。」

 僕はいつもお決まりのように、箱ごとティッシュを差し出していた。

「ん。」

 難なく受け取る妹の指先は、べとべとだったけれど、爪はきれいに切り揃えられていた。


 耳には一つの穴もあいていなかった。

 髪も、真っ黒だった。



 僕たちは、けっこう、似ていた。





 ………。



 ……ちがう。

 記憶が脱線した。今はそんなことを思い出していたんじゃない。

 単純に、自分の連想する「朝ごはん」を、なんとなく思い浮かべていただけだったんだ。



 今の、この状況と比較したいがために。





「ママー、しょうゆー。」

「それ味付いてるの。依世(いよ)ちゃんのお手製。」

「マジか!」

道臣(みちおみ)、お茶に氷、いれる?」

「ううん。」

「……千意子(ちいこ)、道臣まで休ませたのか?」

「もち。だって幼稚園なんて義務じゃないじゃん。」

「うっわ。やっぱ元ヤンは言うこと違うねー。」

「は? 関係ねーだろ。」

「こわーい。助けてイヨさーん。」

「なんで私にふるのよ……」

「依世ちゃーん。星史がいじめるー。」

「……皆口くん、ごめん、七味とって。」



「あっ……はい。」



「せいちゃん、せいちゃん、」

「ん? どした? 道臣(ミチオ)。」

「おれ、幼稚園休んで、わるい子?」

「ううん。全然。ミチオはいい子、天使。悪い子はそこの母親。」

「おいコラ中退小僧。」

「なあにー? 中卒さん? あはー。」

「あァ? 同じじゃねーか!」

「もう、やめなさい二人とも! 依世ちゃん、筑前煮すごくいい味よ。」

「先代の味が生きてるな。」

「恐縮です。」

「あらあら、皆口くん、おかわりは?」



「あっ……いえ、大丈夫です。」



「遠慮しないでいっぱい食べてね。」

「あっ、はい。……ありがとうございます。」



 いつから喋る前の「あっ」が口癖になってしまったんだ、僕は。

 新潟に来てからか? いいや、今朝からだ。この賑やかな朝食スタート時からだ。


 これが俗にいうカルチャーショックというものなのか。


 畳に座布団を敷いた座敷席。白飯、味噌汁、焼き魚、煮物、漬物、出汁巻き卵、おひたし……所狭しと並ぶ和食。飲み物は、冷たい麦茶か急須で淹れた番茶。

 休むことなく声が飛び交う、大人数で囲む食卓。

 こんなのサザエさんくらいでしか見たこと無い。


 サザエさんは大げさだが、少なくとも我が家……皆口家では絶対ありえなかった食事風景だ。

 自分の常識と余所の日常との差に、僕は完全に畏縮してしまっていた。


「おやや? 借りてきた猫じゃん。」

 そんな僕を、星史はずいぶんと悪い顔で覗き込む。愉快さを隠し切れない声と表情に、投げつけたい不服が脳内で渋滞みたいに並んだ。


 ていうかおまえ、おまえだよ、星史。

 なんで普通に元気なんだよ。いや元気でいいんだけど。安心したけど。限度ってもんがあるだろ。めちゃくちゃ楽しそうじゃねえか。いや楽しそうで何よりなんだけど。

 つかさっき、ふつうに「中退」ネタにされてたよな? ありなのかそれ? ふつう、気、遣わない? いくら親戚とはいえ……え? 俺がおかしいの? ……まあ、おかしいかもな。今、ここにいるって状況だけで、充分。


「旭くん、魚食べるの上手だねー。」

 こっちの胸中などつゆ知らず、今度は手元を覗きこんできた。僕の食べ終わった焼き魚の皿を指している。たしかに魚をほぐすのは得意っちゃ得意だけど……


「おれのもやって~。」

 お前……!

 ごく自然でしかない無邪気な言動に、つっこみ所が渋滞を超えて詰まった。


「星史、そのくらい自分でやれ。」

 元希(もとき)さんが口を挟んでくれた。厳格なお説教に対し、星史は例によってわざとらしく唇を尖らせ、ふざける。


「でも元希おじさん、ミチオのはやってあげてるじゃん。孫には甘いなあ。」

「そーだよパパー。ついでにあたしのもやってよー。」

「……あなたそれでも一児の母?」

「ん? なあに? 依世ちゃんも一緒にミチオのママになってくれる?」

「なんでそんな話になるのよ。」

「いよちゃん、いよちゃん、」

「なに? ミチオ。」

「いよちゃん、おれのお母さん、なる?」

「いいえ。お母さんにはならないけど、あなたは本当に可愛いわ。天使。」

「あたしはあたしは!?」

「今日休みなら、(みせ)手伝いなさいよ。」

「なんでそんな話になるのー。」


 少し油断するとこれだ。また朝丘家の空気に呑まれる。

 途切れず飛び交う彼らの声をBGMにしているうちに、舗の奥から佐喜彦(さきひこ)さんが現れた。


「おはようございます。」


 寝起きの気だるさと、たぶん昨夜の疲れが少なからず残る彼は、光度がじゃっかん弱まっているものの、やはり異様な存在感を放っていた。寝癖もついているのに不思議だ。


「あらまあ佐喜彦くん。まだ休んでていいのに。お疲れでしょう?」

 千寿(ちず)さんが労いつつ、彼の朝食の支度を始める。佐喜彦さんは爽やかな「お構いなく」を告げた後、その場で姿勢のいい正座をした。

「おかげさまでよく休ませてもらいましたよ。……お義兄さん、お久しぶりです。こんな恰好ですみません。」

「いや、遠路遥々だったな。よく来てくれた。」

 元希さんが、僕を迎えてくれたときと同じ、穏やかでちょっぴり不器用な表情をした。


「佐喜彦じゃん!」

「佐喜彦も来たの!?」

 大人たちの遣り取りも束の間、星史と千意子(ちいこ)さんが賑やかな声をあげた。


「「さん」を付けようねー、おガキ様方。」

「ねー佐喜彦、あとでゲームしよ。ボコボコにしてやるよ。」

「あたしもー。佐喜彦世代のクソ古いやつやりたい。」

「おや? 話、聞いてくれないのかな?」


 ……なんかすごいな。ここまで違うものなのか、家庭って。

 彼の登場によりいっそう、余所の家庭という別世界に直面した僕は、騒がしくも和やかで、遠慮の無い団欒に圧倒された。


「さきひこさん、おはようございます。」

「ミチオ~、きみだけは本当天使。」

 みんな、この天使こと道臣(みちおみ)くんを、ミチオって呼ぶんだな……

 慣れない別世界の中、現実逃避状態で、僕は今さらな朝丘家の謎ルールに一人突っ込む。


「おにいさん、おにいさん、」

 まさかのタイミングでミチオ少年が声をかけてきた。僕の隣に座り、服の袖をか弱く引っぱる。曇りの無い眼差しが、じっと僕に向いた。



「うるさいの、ごめんね?」



 あ。天使だ。






 盛大にもてなされた朝食後、朝丘家の面々はそれぞれの一日に就いた。盆でも正月でもない平日なのだから当然だ。

 元希さんは自営の商店に戻り、千寿さんは『せきと』を開店する。イヨさんと佐喜彦さん、それと半強制的に千意子さんは、『せきと』の手伝いにまわった。

 『せきと』は本日、支店の人手不足により、本来働いてくれるはずの従業員が総じて出払ってしまっていたため、急遽な()()は、正直なところ助かったのだという。

 しかし、せっかく人員確保できたというのに、千寿さんは本日の営業を午後までにしようと提案してきた。

 どうやら、夜に改めて歓迎会を開催するつもりらしい。


「依世ちゃんに佐喜彦くん、それに皆口くんが来てくれたんだもん。」


 夜まで働いてなんていられない、と、千寿さんは意気込む。そして誰一人としてそれを反対しない。

 朝だけで充分すぎたのですが……なんて、この場でその意見は逆に無礼というものだろう。礼を言って痛み入るしかなかった。


「おれも昼のピークは手伝いに出るからさ、その間はミチオとテレビでも観ててよ。」


 舗の奥の広間で寛ぎながら星史はのんきに言った。こいつだけ完全に盆か正月状態だ。

 とはいえ、実際新潟(ここ)にくると、いつもこんな感じらしい。

 基本は『せきと』のお手伝い。配膳だったり片づけだったり慣れたもので、常連さんからすると星史の存在自体が風物詩扱いなのだと、千寿さんは楽しそうに教えてくれた。


 手伝い以外の時間は、気ままにテレビをみたりゲームをしたり、道臣くんのおもり係を任されたり……。まさしく今日、人手が足りていてピーク時間外の今こそ、その気ままな時間なのだ。


「ここさー、まじ遊ぶとこ無いんだよねー。あ、駅前に映画館とイオンならあるけど。行く?」

 僕に尋ねてすぐ、道臣くんにも「おにいちゃんたちとイオン行くかー?」なんて聞いてる。道臣くんは至って冷静に、「せいちゃんが行きたいならいいよ」と返していた。

 彼がさほど乗り気でないのを確認したうえで、僕は提案した。



「迷惑じゃなければさ、俺も手伝えないかな、お店。」



 星史の顔が一瞬だけ、真顔になる。

 すぐさま子どもみたいにほころんで、思い立ったように(みせ)へと慌しく走って行った。「千寿さーん! 人手もう一人追加ー!」……こっちが恥かしくなるくらい、はしゃいだ声が聞こえてくる。

 置き去りにされた道臣くんと目が合って、僕は正座をし直し、きちんと彼と向き合った。

「ごめんな。わがまま言って。」

 道臣くんが首を振る。

「ううん。せいちゃん、よろこんでる。」

 言うなり彼はテレビのリモコンを両手で握って、僕の隣に座った。僕を真似るようにちょこんと正座をして、首を傾げる。


「おひるまで、テレビ、いっしょに見よ?」


 いたいけな天使の提案で、十数年ぶりに視聴するアンパンマンには、知らないキャラが増えすぎていて少々困惑した。

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