73 『再逢』
佐喜彦さんは「真夜中寄りの明け方」だと想定していたけれど、実際は完全に明け方の到着だった。時刻は午前五時半前。店舗風の民家の前で車を停める。どうやらここが目的地らしい。
車が停まるのを見計らったように民家に灯かりが点った。引き戸から出てきたのは、中年の女性だった。エプロン姿にゆるめのサイドヘア、見るからに明るい印象を与えるその女の人は、出迎えるように車内へ笑顔を向け、手を振ってくる。
会釈するイヨさんと佐喜彦さんに倣って、僕も頭を下げた。
「あらまあ、依世ちゃんに佐喜彦くんまで! いらっしゃい。」
窓が開いてすぐ、女の人は二人よりも先に明るい声をあげた。イヨさんは改めてお辞儀をし、佐喜彦さんは手をかざす。
「こんな時間に恐れ入りますわ、伯母さま。」
「千寿義姉さん、お久しぶりです。」
二人の来訪がよほど嬉しいのか、女の人は後部座席の僕に気づかぬまま、両手を口元に当ててくすくす笑った。
「いいのいいの。この時間に起きてるの、珍しくないし。お昼の仕込みも出来るしね。それより長旅疲れたでしょ。舗の奥、使ってちょうだい。お布団敷いておいたから。あ、お風呂は使う?」
そしててきぱきと指示やら質問をしてくる。
「依世ちゃんから『布団は三組』って聞いたから、あたしてっきり、君依くんとりたちゃんが来ると思ってたの~。まさか佐喜彦くんとフミが来るなんて……あらっ?」
ここでようやく後部座席の僕に気づいた女の人は、視線が合うなり目を丸くした。
イヨさんと佐喜彦さんが、目配せをする。
「星史の友だちです。」
そして声を合わせて紹介をする。
簡潔な紹介を聞くやいなや、女の人の目が更に丸くなり、身を乗り出して僕の顔を覗き込んできた。
「あらまあ! 星ちゃんの……お友だち!? まあまあまあ!」
感激と驚愕しか伝わらないたいそうな歓迎と、既視感満載の展開に、僕は愛想笑いに寄せた苦笑を溢すしかなかった。
「朝丘千寿です。一応、星ちゃんの大伯母ね。」
千寿さんが明るく掌をひらひらさせる。
『大伯母』という法事くらいでしか聞かない単語に、詳しい相関図が欲しいところだったが、時間帯も時間帯だったので仕方ない。
自己紹介も手短に、民家へ通された。
店舗風に見えていた民家は実際店舗であるらしく、引き戸の先にはカウンター席、テーブル席、座敷席が広がっていた。カウンター席を挟んだ所に、接客場を兼ねた厨房も見える。
営業時間外のため明らかではないが、おそらく小料理屋と定食屋の中間といった舗だ。
出入口付近には、営業中は掛かっているであろう和風暖簾が立て掛けてあり、白布に臙脂の文字で、『せきと』と染め上げられていた。
舗の奥は住居となっているが、話によれば現在此処には誰も住んでおらず、一軒丸々を客室として扱っているのだという。
稀に店主である千寿さんが寝泊りしたり、帰る足を無くした客に宿として提供するらしいが、本当にごく稀らしい。
つまり、
「星史は朝食で舗に呼ぶから、今夜は少しでも休んでおきなさい。」
そう。星史はここにいないということだ。
そして到着してからの僕の動向は、完全にイヨさんに委ねられつつある。
今夜は……って、もう朝ですが? ていうか結構寝てたんですが、自分。……そんな意見、言えるはずがない。ここまで世話になったのだ。従うしかない。
従うがままに渡された寝巻きに袖を通し、用意された部屋で布団に潜った。
至れり尽くせりの命令に眠れるわけがない。
そもそも東京から新潟への移動中、ほぼ寝ていたのだ。そして今寝そべっているのは、完全に余所の家だ。眠れるものか。
それでも厚意を無駄にするわけには……と、律儀に目を瞑ったり寝る姿勢を変えてみたりと努力したけれど、やはり睡魔はやってこない。障子の向こうが、短時間でどんどん明るくなってゆく。
そのうち、微かに生活音が聞こえだした。
蛇口から流れる水の音。何かを刻む軽快な包丁の音。食器同士が重なる音。コンロの上で何かが焼かれている音……と一緒に漂う、いいにおい。
話し声も聞こえる。たぶん二人。両方女の声だ……イヨさんと千寿さんだな。
イヨさんは料理得意だし、手伝っているのだろう。……ていうか、彼女こそ寝たのかな、ちゃんと。
確実に徹夜の佐喜彦さんは、完全に就寝中みたいだけど。
スマホが照らす時刻は午前7時半前。なんだ、到着から二時間しか経っていないじゃないか。
途切れることのない、ぎりぎり聞き取れない話し声に誘われるように、僕はいそいそと着替えて、部屋を出た。
「おはようございます。」
形ばかりの朝の挨拶に、千寿さんはやはり「あらまあ」と添えてから、にっこりして「おはよう」と返してくれた。
「いや、寝てないでしょ絶対。」
対してイチノセイヨはこれだ。
「はい。車でがっつり寝たもので。」
僕も正直になっておいた。
「何かお手伝いさせてもらえませんか、」
そのほうが、こういった申し出にも彼女たちを煩わせないだろうと考えたからだ。
「そうね。じゃあ、箸とお小皿、並べてもらおうかしら。」
思惑どおり、イヨさんはあっさりと指示をくれた。曲者ではあるが彼女とのやりとりは案外早い段階で、馴染んできているような気がする。
「伯母さま。テーブルと座敷、どちら使います?」
「そおねえ……千意子が道臣連れてくるから、座敷のほうがいいかな~。」
「………千意子、来るんですか?」
「もちろん。あの子ってば、依世ちゃんが来るって伝えた瞬間、休み取ってたんだから。」
「………。……皆口くん、座敷にこれ並べて。適当でいいから。」
イヨさんが差し出してきたお盆には、重なった小皿数枚と、八膳の箸……うち一膳は子供用の短い物が置かれていた。
指示通り座敷席で配膳作業をしていると、背後で引き戸がガラガラと鳴り、心臓が波打った。
こんなことで思い出す……そうだった。今朝は星史と再会するんだった。
あまりにも平和すぎて忘れかけていた。
そんな、心の準備も無しに……と、恐る恐る振り向いたところ、入口に立っていたのは星史ではなかった。
見るからに堅物そうな男性だ。
年は六十くらい。しかし年齢の割にしっかりとした体つきをしており、重量感のある茶色い袋を軽々肩で背負っている。
見た目どおり、男性は寡黙な表情で厨房に視線を流し、ゆっくり口を開いた。
「久しいな、依世。」
呼ばれて、イヨさんがきれいなお辞儀を返す。
「ご無沙汰しております、元希伯父さま。」
「佐喜彦くんも一緒だと聞いたが、」
「はい。まだお休みですわ。夜通し働かせてしまいましたから。」
二人が醸す堅苦しい雰囲気に固唾を呑んだその刹那、
「お父さんっ、この子、この子! 噂の星ちゃんのお友だち!」
空気をぶち壊すように千寿さんが割り込んだ。
顔を輝かせ、手招きのしぐさで僕を指す。
男性の厳格な眼差しに一瞬たじろぎそうになりながらも、僕は姿勢を正して深々と頭を下げた。
「……始めまして、みなぐ────」
「皆口旭くんっ! 星ちゃんの同級生ですって!」
やはり千寿さんが割り込んで代わりに紹介を受け持つ。
上げ損ねた頭をゆっくり戻すと、眼差しはまだ、ちゃんと僕に向けられていた。
「いらっしゃい。よく来てくれたね。」
今さっきまでの堅物感が嘘のように、穏やかなものに変わっている。口角も、不器用さを潜めつつも薄っすら上を向いていた。
「大伯父の朝丘元希だ。こんな恰好ですまないな。」
いえ、そんな……。緊張が抜けず小刻みに首を振る僕の正面席に、元希さんと名乗る『大伯父』さんは腰を降ろした。
すぐさま、急須を手にした千寿さんが彼の傍によってくる。渋い色味の湯飲みに熱い茶を注いだ。
「配達ご苦労さま。星ちゃんたちはまだお家?」
「……道臣のおもり係に、千意子の化粧待ちだ。」
「そっか~。依世ちゃんに会えるから気合入れてるのね、あの子。」
「………。……伯母さま、おみおつけ、温めておきますか?」
「あ。そうね。そろそろお願いね。」
見知らぬ土地に到着して三時間弱。ほぼ初対面の人たちに囲まれ、知らない名前が飛び交う。
こんなの、僕でなくともなかなかの苦行だ。
ある程度見知った仲のイヨさん。
場を和ませてくれる千寿さん。
おそらく好意的であろう元希さん。
確実な、手厚い歓迎。
……贅沢を言うようだが、それら全部を考慮したとしても、やはり、どうにも、肩身が狭い。
しかしきっとこれ以上は無い。あとは星史が来るのを待つだけでいいはずだ。あと少し、あと少しの辛抱だ。
あいつがどんな顔をして、どんなリアクションを起こすか想像しながら、やりすごせばいい。
これ以上は、きっと無い。
「いっよちゃああああん!!!!」
あった。
まだあった。
勢いよくスライドした引き戸から賑やかに現れたのは、やはり知らない、おそろしく派手な若い女の人だった。
短いホットパンツから大胆にのびた脚で、脇目も振らず厨房のイヨさんへ駆け寄る。
「超会いたかったあ。なになになに? やっぱあたしを貰ってくれる気になった系? それとも貰われてくれる系? 全然カンゲーだから! どっちでもマジ、アリ寄りのアリ!」
「……日本語喋りなさいよ。」
「相変わらずつーれーなーいー。でもそんなとこがかーわーいーいー。」
「火使ってるから離れて。」
げんなりとするイヨさんとの温度差が凄まじい。
外見だけならひのでと同系統の女だけど、なかみは180度違うな。一気に騒がしくなった店内……というより、たった一人の女性に圧倒され、僕は配膳の手を止めてしまった。
「千意子、お客様の前だ。」
見かねた元希さんが溜め息まじりに彼女を叱る。
「えっ、客? ……は? 何? これ依世ちゃん新カレ? え、若くない? 若くない?」
僕に気づくなり接近してきた彼女は、まじまじと顔を眺め眉間に皺を寄せた。心なしか、声にどすを利かせているような気が……。
「星ちゃんのお友だちっ。千意子! お客さん指ささない! 「これ」とか言わない!」
今度は千寿さんが、カウンター越しに声をあげて叱りつけた。
「ともだち? ウケる。あいつ友だちいんの? 超ウケんだけど。」
「千意子!」
あっけに取られている僕の傍に、イヨさんが焼き魚のお盆を運びながら、逃げるように寄ってきた。
「……伯父さまと伯母さまの娘の千意子。……私の従妹よ。」
「すまないね……いくつになっても、落ち着きのない子で。」
堅物組の二人が、嘆きに近い口ぶりで彼女を語る。また一方では、賑やか組の母娘が、おそらく僕の話題で大いに盛り上がっている。
なんだこれ。なんだこの状況。
僕はここで何をしているんだ? 見知らぬ土地の、余所の家族に囲まれて、箸を並べているんだ? 情報の過多さと自らが置かれた立ち位置に、理解が追いつかない。
雰囲気は決して悪くない。むしろ、まるでコメディ調のホームドラマみたいに平和だ。
しかし思い出せ。
そもそも、僕がここに来たのは……
「もー、千意姉、育児放棄すんなよー。」
開きっぱなしの引き戸から声がした。
聞きなれた、透きとおった、声。
その先に佇む、透明色の、彼。
……そうだ。こいつに、会いにきたんだ。
迎えにきたんだ。
……なんで前髪 とめてんだよ
てか 誰だよ その子供
つか 賑やか過ぎなんだよ おまえの親戚
順応性も高すぎだろ
あとおまえ どんだけ友だちいないと思われてんだよ
ありえないくらい歓迎されたんだぞ 俺
なあ 星史
「それにエンジンかけっぱ……────」
俺が来るなんて想像もしなかっただろ?
視線が合うなり、澄んだ眼差しが止まる。
時間ごと一緒に停止するみたいに、僕らは見据えあう。
なんだよその顔
この大嘘つきめ
迎えに来てやったからな ざまあみろ
「なんでいんの!?」
第一声がそれかよ。
「第一声がそれかよ。」
心の中で留めておくつもりの声が表に出た。
店内中に笑い声があふれる。
千寿さんと千意子さんが爆笑している。イヨさんと元希さんは笑いを堪えている。
星史と手を繋いでいた小さな男の子だけが、不思議そうな顔できょとんとしていた。




