72 『夢挟間』
────……、
たぶん眠っていた。
これは、夢だ。たぶん。
いつぶりだろう、この感覚。
いつもならここで聞こえるはずなんだ。
目の奥で鳴り響く、母の声。もしくは、感触の無い抱擁。
どちらにしたってうるさい、母の愛。
だけど、無いんだ。
見渡しても見渡しても、目を見開いても凝らしても、耳をすませても神経を研ぎ澄ましても、どこにも母が居ない。
音の無い世界で、色の無いどこかで、僕は立ち竦んでいた。
「『あさひくん』、」
女の人の声がした。甘ったるい無邪気な声だ。
「……あんたは…………」
振り向いた先で微笑む、透明感。
澄んだ瞳と透きとおった肌が、眩むほどに美しい。
この女が、なぜ僕の前に……僕の夢に現れる?
こいつが……この女が……、
「やっぱり。あさひくん、なんだね。」
────名塚月乃……
こわばる僕を前に、彼女は目尻を下げて朗らかに笑う。
「ふふ。すごい。陽ちゃんの面影、あるんだもん。」
無邪気なしぐさに戦慄が走った。
白くて白くて、見えなくなるほどの透明感に絶望する。思い知らされる。
この女が、星史を産んだのだと。
「……ごめんね、あさひくん。」
名塚月乃は唐突に表情を鎮めて、身に覚えのない謝罪をしてきた。
僕はこわばったまま、口を結んだ。
「あなたにも、陽ちゃんにも、迷惑、いっぱいかけたよね。」
嘘偽りのかけらもない罪悪感を携えて、母と僕を呼ぶ。慈愛で満ちた瞳に僕を映す。
はてしなく透明色の彼女が暗闇に燈る。
一歩、一歩、僕へ歩み寄る。
白くたおやかな腕を、僕へ差し伸べる。
「……ごめんなさい。」
…………ちがう
違う……だろうが
このゴミクズ女が
触れてしまう直前で、僕は彼女の手を撥ね退けた。
ありったけの敵意をこめて睨みつける。
おまえが謝る相手は、僕でも、皆口陽でもないだろうが
「……どうして愛してくれなかったんだ、」
何も無い世界で叫んだ。
はちきれんばかりの憎しみをぶちまけた。
どうして星史を捨てた?
どうして夫を殺した?
どうして死に逃げた?
産んだんだろ? 自分で選んだんだろ?
だったら責任とれよ
母親が父親を殺して 産み捨てられて
遺された末がどんな未来かくらい わかっていたはずだろう?
星史の……子どもの未来を どうして考えなかったんだ
おまえにとって星史はなんだったんだ
どうして星史は生まれてきたんだ
どうして母であるおまえが 星史を愛さなかった
どうして愛してくれなかったんだ
夢なんて舞台は無常だ。
叫び声は撥ね返らず響きもしない。ただ闇に吸収されるだけ。
怒りも叱咤も、あっけなく静寂に溶けた。
「愛してたよ?」
鎮まった世界で名塚月乃は呟く。
「優先順位が、違っただけ。」
甘ったるい声は、僕の叱咤と同じ威力で爪痕を残し、同じ速度で静寂に溶ける。
名塚月乃という存在に打ちのめされる。
彼女はおもむろに下腹部に手を置き、胎を撫でた。
「あなたの言うとおりだよ。わたしは、選んだの。」
しぐさに相反した、母性の見当たらない声が、甘くやわらかく僕に圧し掛かる。
わたしね 世界で一番 誰よりも
暁くんが大好きなの
認めさせたかったの
誰にもわたしたちを 引き裂けないって
「それが、『わたしと暁くん』、だったから。」
やめろ
やめてくれ
その貌で 声で
そんなことを言うな
認めるものか。認められるものか。
おまえの主張も理想も美学も人生も選択も、存在そのものも。
認めるものか。受け容れるものか。
否定してやる。
名塚月乃なんて存在しない。
名塚星史なんて存在しない。
俺の、この世で限りなく近いあいつは、
仲村星史だけだ…………
「それでいいの。」
胎を撫でていた手が、振り子のようにおりる。
「わたしなんていない。どこにもいない。それでいいの。」
闇のなかで、ゴミクズが燈りやがる。
「『旭と星史』の中に、わたしなんていないの。」
透明色に笑いやがる。
「……それなら、とっとと消えやがれ。……消えてくれ。」
怒りよりも、望んだ。叱咤が懇願に変わりゆく。
手厳しいなあ、と、名塚月乃は甘ったるい笑顔を溢した。
「じゃあさいごに、ひとつだけ身内面させて。」
なんだよ身内ヅラって。朗らかに首を傾げるゴミクズに、僕は眉をひそめた。
「わたしにしか出来ない、最初で最後の、忠告。」
反吐が出るのもいいところだったけれど、応じた。どうせ夢の中だ。これ以上虫唾を走らせるようなら、強制的に目を覚ましてしまえばいい。僕の夢なのだから、そのくらい造作もないだろう。……たぶん。
腑に落ちない表情で黙って忠告とやらを待つ僕に、名塚月乃は瞼を伏せ、再び視線を上げると同時に、口を開いた。
「あなたがわたしを否定するなら、悪と見るなら、望まないのなら、……わたしが近くに居るって、気づいて。」
……名塚月乃が? 近く……に?
名塚月乃が、しずかに、確と頷く。
あの子はわたしになる
わたしに なろうとしている
これまでの誰よりも わたしに近づいている
「気づいて。第二のわたしが、生まれようとしている。」
……────
「────……くん……旭くん、」
佐喜彦さんの声で現実に気づいた。
ついでに、車が公道を走っていることにも。眠りにおちる直前には高速だったわけだから、つまり……
「そろそろ着くわよ。」
やはりそうか。イヨさんからの呼びかけと、明け方の白んだ景色に納得する。
絶対に東京じゃないと察した。田舎、と呼ぶには失礼な程度に建物や民家が並んでいるが、それ以上に田んぼの存在感が大きい。遠くのほうには薄っすら雪化粧をした山々が連なっている。すれ違う車が、極端に少ない。
ついたんだな、新潟に。
星史のいる町に。
……ってことは、僕は推定四時間以上、ぶっ通しで寝ていたわけか。僕のために協力してくれた二人を差し置いて。
「はい、これ。冷めちゃってるけど、よかったら飲んで。」
差し出された缶コーヒーは熱くも冷たくもなくて、時間の経過を物語っていた。
常温のコーヒーを喉に通しながら、彼女との夢の世界を思い出す。
……クソ、あの女め。
夢見の悪さと自分の不甲斐なさをごちゃ混ぜに、対峙していた彼女へ毒つく。
強制的に目覚めてやろうと思ったのに、強制的に覚まされるとは。
頭が鮮明になればなるほどに、記憶が薄れてゆく。夢なんてそんなものだ。もとより、考えたくもないし、あんな奴のことなんざ。
……何か言われたのだけは、確かなんだけど。
名塚月乃との一連を思い出せないまま、車は知らない町を走り続けた。
案外、海って見えないんだな。それに、想像してたより寒くない。初上陸の新潟にのんきな感想を浮かべながら、田園風景を見渡した。
(こういう地方、星史には似合わないな……)
重大イベント前にして、のんきにしかなれなかった。




