71 『関係』
呼出コールが長々と続く。
既に日付を跨いでいるのだから、もう寝てしまっていても無理はない。けれど、出発前に一言、告げておきたかった。
「……なに?」
「あっ、ごめん。……寝てた?」
「……ええ。」
「ごめん。」
それに、声も聞いておきたかった。
「平気よ。どうしたの、」
寝起きの気だるさのせいか、雨宮の声は不思議とやわらかく耳にふれた。
「百香は?」
「……寝てるわ。さっきまで、起きてたけど。」
「はは。夜更かしするって意気込んで、先に寝たんだろ?」
「ええ。」
真夜中の野外に配慮して、僕はもう一度小さく笑い声をあげた。
「今から、星史を迎えに行ってくるから。」
その延長で告げた。
雨宮からは、声が戻ってこない。
「待っててくれよな。」
お構いなしに言い切った。彼女を真似た、出来るだけやわらかい声で。
「ええ。……まってる。」
予想外な素直さに、変な笑いが意地悪く出てしまう。
「なんだよー。ついてく! くらいあると思ったのに。」
「同行したいのは山々よ。……でも、」
雨宮も、配慮するように声を潜めた。
「悔しいけど、あんたじゃなきゃなのよ。あの人は。」
なんだよそれ。
からかうか、真剣に返すか、選ぶよりも先に、
「セージさまを……おねがい。」
雨宮の声が、やわらかく切なく、しみこんだ。
「雨宮、あのさ……」
僕のこの声も、彼女にしみこんでくれればいい。
気取られないよう、密かに願った。
「ぜんぶ済んだらさ、デートしてよ。」
彼女の評す、ボンクラで、たわけで、グズな僕でいられるよう、祈った。
「済んでから言いなさいよ、無能。」
そっか。無能もあったか。
真夜中の野外、配慮していたはずの声が結構な音量で、笑った。
「恋人へのお別れは済んだかな?」
車に戻るなり佐喜彦さんが目を細めた。どうにもやらしい視線も厄介なのだけど、発言自体こそ返答を悩ませる。
「えっ、あっ……はい。」
「へえ、恋人なんだ。」
つい頷いてしまった肯定に、佐喜彦さんは更に目を細めて、いっそうやらしくからかってくる。
「無視していいわよ。星史の倍、めんどくさいから。このひと。」
「あんまりだね。依世にだけは言われたくないんだけどな。」
イヨさんからの辛辣な指摘にも一切動じず、むしろ笑顔で対抗しながら彼はエンジンをかけた。軽やかなハンドルさばきで真夜中を走り出す。
普段中古の原付二種ばかりの僕には、乗りなれないセダンの動きがいやに上等に感じられた。まあ、ずいぶんと心地いい錯覚ではあるのだけど。少なくともシートは正真正銘、上質なんだろうし。
つまり乗り心地も、正真正銘、良いはずなのだ。
「渋滞は無いと思うけど、四時間はかかるよ?」
「新幹線待つよりは早いじゃない。」
「到着は真夜中寄りの明け方かあ……。義姉さん、かわいそ。」
「問題ないわよ。伯母さまはこういう異常事態、楽しむ性分だから。」
なのに、なぜだろう…………おちつかない。
「それに、あなたも嫌いじゃないでしょ? こういうの。」
「まあ、大好きだね。」
原因は大方わかっている。
「そんなことよりさっきの話。仲村くん、名義渡したのずいぶん後悔してるよ。兄孝行のつもりで、引き払ってあげたら?」
「嫌よ。あのマンション、立地が私にとって完璧なんだもの。勝手も分かるし。」
「でも毎日「死ね」は心病まない?」
「全然。私、仲村の籍抜けてるし。」
「そういう問題じゃないよ。」
「いざとなったら名誉棄損で出るとこ出てやるわよ。」
「何歳になっても可愛げが出てこないね、きみは。」
「あなたに言われたくないわ。」
前部座席にて、するすると会話を交わすこの二人のせいだ。
「うちの社宅で立地も使い勝手も保障する室、用意するからさ。」
「なおさら御免よ。」
口ぶりも表情も意見も相反しているのに、なぜこうも会話が途切れないのだろう。内容の割に殺伐としていないし、自然であるのが却って不自然なくらいだ。
不自然なくらいに自然体な二人を黙ってみつめていると、佐喜彦さんがミラーを介して僕に気づいた。
「ああ、ごめんね。好き勝手に喋っちゃってて。」
気を配って、まずは置き去りにしてしまった短時間を謝る。
「僕は藤代佐喜彦。あらためまして、道中、よろしくね。」
続けて、忘れていた自己紹介を簡潔にしてくれた。イヨさんが呼んでいたものだから、勝手に脳内で「佐喜彦さん」と呼ばせてもらっていたけれど、そうか、藤代っていうのか。
……なんて呼ぼう。きらきらして年齢不詳ではあるけど、結構年上っぽいし……
「苗字でも名前でも、好きに呼んでくれて構わないよ。」
エスパーかよ。このキラキラ人は。
「皆口くん、だったっけ?」
佐喜彦さんは話相手を完全に僕へと切り替えて、滑らかな会話を臨んでくる。
人懐こい年上、という目新しい生き物に、安堵と恐縮の入り混じった妙な心持ちで、僕は挑んだ。
「は、はい、」
「下のなまえは?」
……なんか、デジャヴだな。
「旭、です。」
この流れだと、次は確か……
「旭くんの恋人って、どんな子?」
ほら。やっぱりこういう話題になるんだ。
僕はミラー越しの視線をイヨさんに移し、無言で助けを求めた。
「育ちの良さそうなお嬢さんよ。かなり個性的な身なりだったけど。」
さすが曲者。イチノセイヨ。いとも容易く裏切ってくれる。
彼女の発言と彼の言動がもたらす車内の雰囲気に、この道中が実に和やかで、めんどうくさい旅になるであろうと察した。
「へえ。僕はまた、星史がきみの恋人だと思ってたよ。」
「あなたは……またそういう、」
「だって、あの子に友だちだよ? まだ恋人のほうが現実味あるじゃないか。」
ねーよ。いや、ねーよ。
内心では即答したものの、ぐっと堪えた。
「いや、その、電話の相手は、違うんです……」
とりあえず雨宮の存在にだけ触れることで、不名誉な疑惑を回避する。
「電話のお相手、さっきの眼鏡の子じゃないの?」
からかい混じりの佐喜彦さんに比べ、イヨさんは幾分真面目なトーンで聞いてくる。彼女の態度は僕の対応までも、いくぶん真面目にさせた。
「えっと、いえ……そいつではあるんですけど、別に、恋人とかでは……」
恋人の可能性を否定しつつ、頭の中までまじめに、半強制的に考え込む。
ミラー越しに真顔で返答を待つイヨさんと、好奇心を隠そうともしない佐喜彦さんの視線に、身じろいだ。
恋人だなんて滅相もない。恋人とかの域でさえない。
いや……そもそも、何なのだろう。
久しく、自分の悪い癖を実感した。
無駄に考えてしまう。答えの見当たらない疑問を膨らませる。
真面目と化した僕は、膨れ上がった疑問に追い込まれてゆく。
「何なん……ですかね、」
逃げ場を失って、つい、言葉を吐いてしまった。
「あいつら二人って、俺にとって、なんなのか……正直、わかってなくて、自分でも。」
和やかだった車内が僅かに澱んだ。すみません、と、その場しのぎの謝罪を挟む。
今更になって何を悩んでいるのだろう。考え込むばかりで、明確な答えを出せない自分に嫌気がさした。
数えるほどしか会ったことのない人の協力を得て、初対面の人が運転する車に乗って、平日の真夜中に、知らない土地を目指している。
勢いとはいえここまでしておいて、その目的である星史と、きっかけとなった雨宮が、自分の何であるのか胸を張って説明できない。
あげく、関係を尋ねられた相手に、その答えを求めている。
どうしようもない。
「実際、友だちですら、ないかもしれないし……星史、おれたちに、……東京離れるってのも、教えてくれなかった、から。」
すみません。ばかみたいに、もう一度謝罪を挟んだ。
「そ、それより、」
僕の答えが出る出ないなんてこの際どうでもいい。とにかく、今はこの場の空気を浄化しなければ。
「お二人こそ、その、どういった……ご関係で?」
澱ませてしまった責任感から、話の方向転換を試みようと質問し返した。
「親族。」
イヨさんが即答する。
「あはは。おおまかー。」
佐喜彦さんが破顔する。
しかしせっかく上がった笑い声は、車内を浄化なんてしてくれなかった。
イヨさんが発した「親族」の一言には、明らかに触れてはいけない棘が、無数に生えていたのだ。
愉しそうにする佐喜彦さんとは正反対に……だなんて、今さらすぎる対照的な二人だけれど、そこを差し引いたとしても、今の彼女は冷淡すぎる。
「一番適切なのは、叔父と姪、かな?」
「親族。」
佐喜彦さんが曖昧な詳細を添えると、イヨさんの棘が更に増えた。
「し」「ん」「ぞ」「く」の音がそれぞれ有刺鉄線みたいに、「親族」以外の関係性を許さない。当然、僕はそれ以上の詮索を慎んだ。
浄化に失敗した車内で、佐喜彦さんだけがくすくす笑う。
「旭くん、」
後部座席で身を小さくしていると、彼は穏やかに口を開いてきた。
「ちょっとこじれた人たちって、結構いるものなんだよ。家族内でも、他人同士でもね。」
ミラー越しに合った視線は、薄闇のなかでも、やっぱりきらきらだ。
「きみと、星史と、彼女だって、例外じゃないさ。」
……錯覚してしまうな。
声も、ことばも、きらきらしているように、感じる。うまくは言えないけれど、直視を躊躇わせる彼には、そんな魔力があるように思えた。
「きみたちの関係が、きみたちだけのかたちで、不満がることなんてないよ。」
「ほんとう、きもち悪いのよね、このひと。」
そっぽを向いて窓淵に肘をついていたイヨさんが、棘の無い声で言う。
なるほど、きもちわるい……か。
きもち悪いのか、このキラキラ人は。
佐喜彦さんには申し訳ないけれど、即納得した事実がばれないよう、お辞儀のふりをして視線を伏せた。
「容赦ないよね、依世は。」
事も無げに佐喜彦さんは笑う。
尚もきらきらする、このきもち悪い彼が、正直嫌いじゃない。というのが、僕の素直な感想だった。
気づけば空気は澄んでいた。
安定した運転の、上質なシートの上で、睡魔が限界に達した僕の意識は、高速にのって間もなく、しずかに飛んだ。




