70 『曲者』
同日二度目、しかも夜更けの訪問にも、イヨさんはあっさりと応じてドアを開けてくれた。玄関先の、赤スプレーででかでかと汚された『死ね』の文字にはまだ心臓が落ち着かないけれど、現家主であるイヨさんが平然としているのなら、気丈にならねば、と、妙な使命感が襲った。
ここに戻ってきたのは、使命感なんかじゃないのだけれど。
「今日は、和服じゃないんですね。」
初めて目にするニット姿のイヨさんに向けて言った。非常識な時間帯の、異常事態な訪問には、些か不自然な世間話ではあったかもしれない。
「たまには、ガス抜きも必要だもの。」
不自然もなんのその、イヨさんはいたって普通に会話を繋げてくれた。それどころか、こんな非常識な高校生に、温かいカフェオレをふるまってくれる。
ガス抜きって……いつも無理して着てるんですか? 言おうと思ったけれど、やめた。多少の非常識に目を瞑ってもらえているとはいえ、そこまで不真面目になるのは、違う。
「少し、意外です。」
カフェオレを受け取りながら、褒め言葉とも素直な感想とも取れそうな返答を選んだ。
「私も意外だったわ。あなたが、名塚の人間だったなんて。」
唐突に切り込まれた話題に、凍る。
取り繕えず凝視する僕に気づいたイヨさんは、申し訳なさそうに少し慌てた。
「ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないの。星史から聞くまで、名塚にあの子と同じ年頃の子がいただなんて、知らなかったから。」
星史から……ということは、此度の騒動は隅々まで把握済みということか。僕の素性も見知った上で、こうも友好的な接し方をしてくれているあたり、星史からの口添えも窺える。
……そうなると、逆に困るな。
少々怯みつつも、意を決して口を開いた。
「星史の居場所を教えてください。」
単刀直入に訪問の目的を告げる。思ったとおりイヨさんの目つきが、まばたきを挟んで別の色になる。
「知ってどうするの?」
「迎えに行きます。」
意図して食い気味に、声をかぶせた。
「一人で?」
「はい。」
同じようにもう一度、かぶせる。
正直なところ、結構無理していた。かなり強がっていた。
イヨさんはいいひとだ。彼女からの好感度も決して悪くないと、自負している。しかし、なにぶん読めないのだ、このひとは。
星史が彼女に只ならぬ親近感をいだいていたように、この、イチノセイヨという人間も、たぶん、なかなかの曲者だ。
「おかしな話ね、」
おかしな話ね。怒っているようにも、バカにしているようにも、呆れているようにも感じ取れない不思議な音で、彼女は謎の疑問を口にする。
「なに……がですか?」
情けないことに、気丈な僕は早々に退場してしまった。おずおずと彼女をさぐる。
威圧感など皆無。あくまで自然体にカフェオレを啜るイチノセイヨは、ほんとうに全く見透かせなくて、まるで、喜怒哀楽の薄い仲村星史だ。固唾を呑んで彼女の返答を待った。
「兄から聞いていた名塚の人間に、お世辞にも褒められる所なんて、一つも無かったの。」
鋭利な言葉が、穏やかな語調で、マイペースに返される。言葉か語調かしぐさか、どれに反応していいのか判らず、僕は口を噤んだ。
……いやいや。そもそも、なんの話だ?
口を噤みながら冷静に整理した。おかしな話? からの、褒められない名塚? なんの話だ?
僕を無言にする理由が増えてゆく。
そんな僕を尻目に、イヨさんはというとやはり至ってマイペースに、そこから、名塚家の『褒められない話』とやらを淡々と語った。
一度は星史を引き取ったくせに、まるで気まぐれのごとく手放したこと。
引き取りたい、と名乗り出た仲村夫妻に、礼の一つも無かったこと。
それどころか高圧的な態度で、『金輪際、星史を名塚に近づけないでほしい』だの、『完全に縁を切ってほしい』だのと、契約を強いてきたこと。
星史への未練なんて、これっぽっちも感じられなかったこと。
どれもこれも実に非人道極まりない話である。
そしてこれらすべては、僕の親族(しかも憶測するに父だろう。)の所業である。吐きたい溜め息を飲み込み、抑えたい眉間をまばたきで我慢して、黙って話を聞き続けた。
僕の無言を、イヨさんがどう捉えているかはわからない。そもそも彼女が、僕を……皆口旭を、『甥の同級生』として扱っているのか、『名塚の人間』として見ているのか。
所在不明の彼女の本心は僕を怯えさせ、彼女の口から語られる名塚の所業は、失望させるに充分だった。
「────だけど、」
話の途中であると忘れていた。尚も淡々と届くイヨさんの声に、はっとする。
「あの子の話では、名塚……いいえ、皆口陽だけは、違ったみたい。」
前ぶれもなく途端に、話の風向きが変わる。
「“陽さんは、おれを愛してくれていた”、って、念を押すように言ってたわ。あの子。」
纏わり付いていた失望の靄が、晴れてゆく。
十七年間、呪いだったはずの疎ましい愛に救われる。不覚にも、それはもう悔しいことに。
「あの子が言うものだから、どうも嘘くさくてね。話半分に聞いていたんだけど、あの子、0歳の記憶があるんですって。」
風向きが変わる一方で、イヨさんの口調や話の運びはマイペースなままで、僕は手放しで喜べず混乱した。
「あの……それが、今、どういう……?」
遠慮がちにようやく口を開けた僕に、イヨさんは小首を傾げた。
「どうしてお母さまに助けを求めないの?」
「……。」
……切り込むときは本当に切り込んでくるな、このひとは。
やはり曲者だと確信する。
「星史の話が事実なら、あなたにも少なからず心当たりがあるのなら、その皆口陽って女は、一番の協力者になるんじゃないのかしら? それなのにおかしな話ね。あなたの目的って、星史とは別にあるみたい。」
言葉の端々が容赦なく核心に迫る。悪意も無く的確に刺さってくる。
あいつに言われたときは、ここまで痛くなかったのに。
「…………以前友人にも、同じこと、言われました。」
退路を立たれた僕は、まるで観念したみたいに、雨宮との思い出を自白し始めた。
「俺以上に、星史のこと、考えてる奴に……母が味方に……助けてくれるんじゃないか、って。」
懺悔のつもりだったのかもしれない。もしくは、恰好悪いただの開き直り。
きっと雨宮に、母について言及された時点で、気づいていたんだと思う。
「たぶん、俺は……星史を守りたいわけではないんです。」
気づかないふりをしていた。見て見ぬ振りをしていた。意地でも、母と星史を、結び付けたくなかった。
「きっと、母が今回の騒動を知ったら、……十七歳の、名塚星史の存在に気づいたら、迷わず彼を匿うと思います。できる限りの援助も惜しまないと思います。」
皆口陽に、仲村星史を近づけたくなかった。
知られたくなかった。
たとえ、星史が傷ついても。
雨宮に怨まれても。
「俺は……嫌だったんです。」
母がどんなに、星史を愛していたとしても。
愛していたからこそ。
「俺は母から、星史を奪いたいのかもしれません。」
それが僕の本音だった。
彼を助けたいのも、取り戻したいのも、ぜんぶ自己満足。
母に負けたくない。知らない星史を引き摺り出したい。雨宮を泣かせたくない。
全部、自分のためだ。
「これからの、俺の、ためにも。」
自白は続いた。
どういうわけか、僕はそこからイヨさん相手に、身の上話を始めていた。
十七年間の母からの依存。偽り続けてきた自分。演じ続けてきた理想の息子。食べたくもなかったジャムサンド。はしゃぎたくもなかった動物園。受験するつもりもなかった進学先。義務だけで続けてきた団欒。
そして、母の再婚という形で、拍子抜けするほどあっけなくやんだ、依存の末路。
母からの過剰な愛と、翻弄され続けた自分を語るうちに、自らに対する疑問が生じた。
考えたくもないほど、どす黒い本心への疑問。
……まさか、僕は、
「俺は……母から星史を奪うことで……復讐の、つもり、なんでしょうか、」
自問が声を詰まらせる。
わかっている。全部自分のためなんだ。それだけは間違いないんだ。でも、そこにはちゃんと星史や雨宮の存在があって、僕のまっとうしたい欲望は、これから先の未来に向けて、真白く、大袈裟にいうのなら輝いていたつもりだったのに……根底には、こんなにも下衆な思惑が潜んでいたなんて。
自分がろくな人間じゃないなんて百も承知だ。なのに、今ばかりは容認を躊躇う。
下衆すぎる。
母に対しても、星史に対しても、雨宮に対しても。
「いいじゃない。それならそれで。」
顔を上げると、イヨさんが頬杖をついていた。
「我慢してたんでしょう? 十七年間。それなら、元を取りなさいよ。」
正気かこのひとは、
と、言わんばかりに見据える僕を、「何言ってんだこいつ」みたいな目で眺めてくる。
対抗するわけじゃないけれど、改めて思わせてもらおう、
正気か? このひとは。
「元……って?」
敬語さえ放棄して聞く。
「十七年間の我慢料よ。星史を独占して済むなら、好きなだけ独占して、ふんだくってやればいいわ。」
イヨさんの目が、「何言ってんだこいつ」から、「決まってんだろ」に変わる。
はあ、
やっぱりそういう意味か。さようでございますか。確認できたところで表情筋がほぐれてきた。ついでにいうと、いつの間にか喉がすっと軽くなっている。
下衆な自分を肯定なんてできそうにないのに、躊躇いが薄れている。
目の前にいる、このひとのせいだろうか。
「イヨさんって、その、」
「なに?」
もしくは、このひとのおかげだろうか。
「案外、下衆です?」
だとしたら、正気だ。このひとは。
「褒めて頂けてるのかしら?」
正気か、僕は。今度の自問は心地良かった。
「えっと……、すてきだと思います。」
自答はもっと、心地良かった。
光栄だわ。微笑を溢し、イヨさんはカップを指して手を差し伸べる。先ほどまで湯気をたてていたはずのカフェオレからはすっかり温度がひいていて、彼女は、「淹れ直すわ」と気遣ってくれた。
「大丈夫です。猫舌なんで。」
僕も習って気を遣ってみた。
流し目でもう一度微笑んだイヨさんが、一人分のカップを持って席を立つ。対面式のシンクから水音がしたのと同時に、彼女は口を開いた。
「私が、一つだけ、気懸りにしてるとしたら、」
まだ『会話』は続いているらしい。それはそうだ。なんてったって、本来の目的である星史の居場所はまだ聞き出していない。
「あなたの言う、「これから」が今後の人生を意味するなら、あの子は間違いなく、あなたの足枷になるってことくらいかしら。」
また切り込んできた。むしろぶっこんできた。
ある種の油断に浸っていた分、打ちのめされる。そして不安もよぎる。イヨさんは僕と星史を会わせる気なんて、更々無いのではないだろうか。
「今までどおりでは、いられなくなるわよ?」
不安を増させるような、ネガティブな助言が続く。
そのうえイヨさんの言うことは正論であり、皮肉な現実だ。
日常を取り戻すために連れ戻そうとしている星史の存在そのものが、僕のこれからの日常を、破滅へと向かわせるという、現実。残念ながら否定は出来ない。
いつの間にか水音がやんでいる。対面式キッチンを挟んでイヨさんはまた、読めない、見透かせない表情で、威圧の無い視線を送ってくる。
見極めているんだ。瞬時に察した。
次の一言……いいや、一手で決まる。
彼女が僕の、壁となるか、協力者となるか。
見極めればいい。見極めてくれりゃいい。
「……それでも、」
返事は決まっていた。
腹はとっくに括っている。
「俺は────」
ガチャン
「依世ー、いるんでしょう? お邪魔するよ。」
張り詰めていた空気が突如として砕けた。
玄関の方から届く無遠慮な開錠と、聞き覚えのない声。
誰か来た。
知らない誰かが、イヨさんの名を呼ぶ。
「張り紙、またやられてるよ。いい加減引き払いなよ、ここ。」
知らない声と一緒に、知らない人が現れた。背の高い男の人だ。
「え?」
僕の存在に気づくなり、男の人はごくまっとうな反応をする。たぶん彼側から見ても、僕の反応はありきたりだったはずだ。ごくまっとうに驚く。無理もない。
突如として現れた見知らぬ彼は、あまりに存在感がありすぎた。
決して若くはないのだけれど、いやにきらきらしている。ばかみたいな喩えだが、それ以外表現が見つからない。くっきりした目元と通った鼻すじに、日本人離れした頭身。
ハーフか、それ以前に一般人なのかを疑ってしまうくらい、きらきらした、年齢不詳の男性だ。
「あ。ちょうど良かったわ、」
イヨさんは然も自然に、僕との空間に彼を混ぜる。彼女が一番まっとうじゃない。
しかし謎の彼もまた、至って平然と現状に溶けこみ、手にしていた中傷の張り紙をひらひらと振った。
「ちょうど良かったって何さ。それより張り紙。仲村くんも心配してるから────」
「佐喜彦さん、車出して。」
「おや? 話、聞いてくれないのかな?」
「話なら道中聞くわ。どうせ暇でしょ、」
「まあ暇だね。」
なんなんだこの二人は。お世辞にも仲睦まじいふうではないのに、やりとりがいやにこなれている。
彼に対し心なしか棘のある態度のイヨさんと、そんな彼女に対し、品のある笑顔で柔軟に接する彼。対照的なのに妙な調和を保つ二人を、間抜け面で眺めた。
「で、どちらまで?」
二人の会話の内容が、すぐには入ってこなかったのは、そのせいだ。
「新潟よ。朝丘家。」
「朝丘家? ずいぶん急だね。」
イヨさんが僕に視線を配る。
「星史を迎えに行くわ。」
そこでやっと理解した。
理解したときには、驚きと、嬉しさと、戸惑いとがこんがらがって、きっともっと間抜けな顔になっていた。おかげで何の言葉も出てこない。
「ふうん。何やら訳ありのご様子で。」
只ならぬ状況を察しつつも、男の人は余裕たっぷりに、相変わらずきらきらと品良く口角を上げる。
「まあいいや。ところでさ、」
そして頃合いを見計らうように、僕へと視線を流した。
「そろそろ紹介してくれないかな? そちらの、若い彼氏。」
しぐさも表情も雰囲気も、浮世離れしすぎている。いざまともに向けられると眩しくて直視できない。なんてきらきらした男なんだ。
「ばか言わないで。星史の友だちよ。」
次の瞬間、彼の首から上が大げさにぐるっとイヨさんのほうに向いた。
「あの子友だちいたの!?」
あっけなく消えたきらきらと、頷くしかない星史の評価に、噴き出したい気持ちを抑えて無表情を貫いた。




