06 『罅』
普段どおりの朝を歩いた。
二回目の天気予報が始まる前に家を出て、この季節ならではの陽射しと風を浴びて、自転車通学の生徒に追い抜かれ、喋りながら登校する生徒を追い越し、運動部の朝練を遠目で眺め、校門をくぐる。玄関あたりから顔見知りが増え、挨拶をしたり声をかけられたりしながら教室へ向かう。
途中廊下で、他クラスの生徒が、まあまあ大所帯のグループを作って屯していた。通行の妨げにならない程度の空間をあけ、男女関係なく和気藹々と雑談している。
僕はできるだけ気配を潜めて、彼らを横切ろうとした。
「皆口くん、」
でも、みつかってしまった。
「おはよ。」
グループの中心から仲村星史は声をかけてきた。
僕の知らない顔に囲まれながら、爽やかに人懐こい笑顔を向けてくる。僕は声が返せなくて、会釈とも無視ともとれる曖昧な瞬きを一つ挟み、その場をあとにした。
「誰? 知り合い?」通り過ぎた後から、彼らの会話が耳に飛び込む。
「うん。友だち。」
背中を突き刺す仲村の声に、吐き気を催した。
────日常に、罅が入る。
家族に不満があっても、この身を削られても、自分が不甲斐なくても、それが僕なりの毎日で、小さな疵を塗り潰し、時には目を瞑りながら、ごくまっとうな日常を保ってきたのに。
この罅は直せそうにない。
見過ごせそうにもない。放っておけばたぶん壊れる。
壊したのは誰か、だなんて、原因も犯人も突き止め始めたらきりがない。
唯一わかるのは、昨夜の一件が、間違いなく日常の上で起きてしまったという現実だけだ。────────
「俺を騙すんだ? いい度胸じゃん、ゴミクズ女。」
雨宮の腕を踏み躙りながら仲村は言い捨てた。
「騙す……だなんて。……あたしと、皆口旭は、なんの関係も……」
とぎれとぎれに苦痛を帯びた声から、僕の名があがる。
何の話だ? 状況が飲み込めず、硬直したまま二人を窺った。
「図に乗んな。口ごたえまでする気?」
仲村の語調はあくまで淡々としていて、激昂するより不気味な威圧感を生む。その姿には、昼休み笑い合った人懐こさも、学年中から慕われる人格者の片鱗も無い。
彼は雨宮から足を退けると、今度は頭ごと髪を鷲掴みにして無理やり顔を上げさせた。
「皆口くんは幼馴染だって言ってたんだけどなあ?」
「……あ、あいつとは、すこし、話した、だけで……情報は、漏れておりま……────」
「今はそんな話じゃないだろ。ウジでも湧いてんの? おまえの頭。」
頭を掴まれ、揺さぶられる雨宮を目にした瞬間、吐き気がした。
吐き気がした、から……かもしれない。
息を殺し続けていたら、吐いてしまいそうだったんだ。
どうしていつもみたいに、安全地帯で蹲らなかったのか、事なかれ主義に徹しなかったのか。答えはそれ以外、思いつかない。
「────ッ……雨宮の言うことは本当だっ……!」
これは断じて正義感なんかじゃない。気づいた時には、僕は声をあげて二人の前に姿を現していた。
予想だにしない本人の有り得ない登場に、雨宮だけが目を見開く。対する仲村の反応はずいぶん薄いものだった。振り向いて僕を見る、ただそれだけ。その淡白さがかえって圧となり、僕の唇は震えた。
「き、金曜の……駅のこと、だろ? 雨宮と話したあと、偶然、幼馴染にも会ったんだ。……俺、仲村が言ってたの、そいつのほうだって、勘違いしてて………同じクラスに桂木……桂木百香って奴がいる。そいつが証人になってくれる、から。……だからさ、その、」
簡潔に釈明しようとしたが推測を交える分、そうはいかなかった。
仲村は僕のたどたどしい説明を聞き終えると納得したのか、ふうんと頷く。
「そっかー。勘違いだったんだ。」
鳥肌が立った。仲村が僕に向けたのはいつもの彼そのものだった。
しかし、みたび雨宮に視線を向ければまた、
「用は済んだから。帰れば。」
なんて辛辣に言い放つ。謝罪すら無いその態度に、ついかっとなった。
「…………おい、」
ここまで首を突っ込んでしまっては、今さらあとには引けない。
「それだけかよ、」
「? なにが?」
「雨宮に、言うことあるだろ、」
仲村の足元では、髪を乱した雨宮が無気力に座り込んでいた。俯いていて表情が読めないが、怯えているに違いない。
すごむ僕に仲村は、わざとなのか本気なのか小首を傾げるしぐさを見せ、人差し指で頬を掻きながら、「あるとしたら皆口くんにかな、」と、口角を上げた。
「このことは内緒にしてね。」
いつもの人懐こい笑顔で言う。
ふざけるな。何なんだよこいつ。
「事情は……わからないけど、こんなの、明らかに暴力じゃないか、」
「だからあ、内緒にしてってば。内申響いちゃうからさ。あはー。」
ふざけるな。今度は声が出た。
彼と、彼により繰り広げられた光景は正気の沙汰じゃない。この狂気に加担するまいと断固として拒絶した。
「しょうがないなあ。」
仲村は大げさなため息をついたあと、すっと表情を落として視線を足元に向けた。
そしておもむろに雨宮のシャツに手をかけ、躊躇うことなく釦を引き千切った。
「雨宮、仕事だ。」
「────はい。」
何が起きたのか理解できなかった。ほんの一瞬だった。
仲村と雨宮の短いやりとりの直後、僕は押し倒され、真上には胸元を露わにした雨宮が覆いかぶさっていた。
「このまま大声出されたいのかしら?」
雨宮からは怯えているようすどころか、救済の請いさえ微塵も感じられなくて、眼鏡の奥では真っ黒な眸が、まるで人形みたいに見据えていた。
絡みつくように跨る太股の体温、密着する胸の感触、そして彼女の脅し文句に事の重大さを察し、身がこわばる。
次の瞬間、かしゃりと鳴る機械音とフラッシュを浴びた。
「せっかく友だちになれたんだからさ、問題は起こしたくないじゃん? お互い。あはー。」
重なり合う僕らが映った画面をみせつけながら、仲村は見おろす。
ふざけんな、なにが友達だ。
手も足も出ない僕の睨みに威勢なんか無い。仲村は頬を緩めたまま立ち上がり、手のひらをかざす。
「じゃあ、またね。」
昼休みに見た、気さくな優等生の笑顔を残し、仲村はその場から立ち去った。
彼の足音がいつまでも耳に響く気がした。
「………あんた、」
静寂を取り戻したあたりで、雨宮の声が呼吸と一緒に耳へ触れた。
「あのとき……みた?」
問いながら上体を起こす。馬乗り状態で、乱れきった三つ編みと丸見えの胸元が妙に艶かしくて、息を飲んだ。
「見た……って?」
直視しないように質問を返す。
「と……とぼけんじゃないわよ!」
雨宮は声を荒げると、両手で僕の顔を挟んで無理やり視線を合わせさせた。
「何の話だよ!? 本当にわかんねえよ!!」
色々とむちゃくちゃだ。仲村もこいつも。積り積った困惑と衝撃に声を荒げ返した。
雨宮は疑り深く僕を捕らえ続けたけど、ようやく警戒しながらも身体を退けた。
ネクタイとブレザーを調節して、釦の外れた箇所を隠す。乱れた髪は編み直そうとしていたが、踏みつけられた腕が痛むのか断念し、簡単に一つに束ねていた。
「……せっかく取れたのにな、包帯。」
聞きたいこと、言いたいことは他にあった。でも、困憊しきって整理がつかない。今の彼女と僕とでは、近づける距離が限られすぎている。
いったい何が起きていて、何に足を踏み入れたのか。
どうして、目の前で雨宮がぼろぼろになっているのか。
「また、俺のせい……だよな、」
それが精一杯だった。気にかけるくらいしか、できない。
「つけあがるんじゃないわよ。」
背を向けたまま雨宮は言い捨てて、僕は一人視聴覚室に残された。
彼女の足音はすうっと静寂に馴染んで、耳鳴りへと変わった。