68 『庇護欲』 旭と糸子
「あたしのセージさまを……かえして……」
かすれた声が絞り出されるのと同時に、喉元を捕らえていた鋭利な感触が消えた。視界外のどこかで、ボールペンが転がり落ちる。
温い水滴が頬にしたたり落ちてきたのを合図に、僕の手からは力が抜けてしまう。
激情が薄れてゆく。殺意が、やんでゆく。
目が醒めた、なんてドラマチックなものじゃない。僕も雨宮も、きっと充電切れのごとく互いに捕らえていた首を解放した。
「……返して…………かえしてよぉ……」
殺意から一転、雨宮は憔悴の声を震わせた。眼鏡で塞き止められないほどの涙が、ぽたりぽたりと僕の頬を濡らす。押し倒したまま距離のない真正面で、子どもみたいに泣いている。
涙まみれで用途をなしていない眼鏡を、僕は彼女から奪うように外した。抵抗どころか抗議さえする余裕も無いのか、雨宮は泣き続ける。
僕だって、それなりに余裕なんてない。
なのに、なんでおまえばっか好き勝手に爆発してんだよ。
取り戻した冷静が主張をめぐらせたけれど、結局は泣いた者勝ち、なのか、もしくは、涙は女の武器、なのか。僕は雨宮を突き放せないでいた。固くて冷たい砂利の上、仰向けに押し倒されたまま、馬乗りにされたまま、彼女を泣きじゃくらせた。
結構すごい状況なんだけどな、今。
客観的に捉えられる余裕も出てきた。
めっちゃ喧嘩っぽくもなってたんだけどな、さっき。数分前の殺伐が、自分のなかで既に黒歴史として昇華し始めもした。
雨宮からすれば殺伐も喧嘩も、まだ続行中かもしれないけれど。それ以上に、今はただ泣きたくてどうしようもないのだろうけど。
いやだな、それは。
潤んだ瞳に映る自分が、形相から一転、心底困った顔をしていた。
なんだよ……その表情。解りきっている真意に文句をたれる。なんだよ、ちくしょう。
悔しさからか、恥かしさからか、気まずさからか、もしかしたらほんの少しの、庇護欲、からか、
「……。」
雨宮を抱き寄せて胸にしずめた。
雨宮は無抵抗に、僕に密着した。泣きじゃくりがすすり泣きに変わる。すすり泣くたびに、振動が伝わる。振動のたびに、僕は彼女の後頭部を撫でた。
こいつに怒られるのも、嫌われるのも、睨まれるのも、素っ気なくされるのも、豊富な悪口を投げつけられるのも、まあ、不本意ながら、慣れたもんなんだけど、
いや、事実これまで何度も、「嫌い」だとは、言われてるんだけど、
毒って、出ていけとまで、言われてんだけど、
こいつに泣かれんのは、いやだな。
湿っぽい髪を撫でる。
水っぽい泣き声が心臓に響く。
背面に砂利道の固さと冷たさ、正面に雨宮糸子の体温と重量を感じながら、挟まれたまま、少しだけ意気込んだ。
撫でるのをやめて、だきしめた。
「……すっげブスなんだけど、顔。」
ほら、また、こうやって、
意地の悪い僕は、
こんな状況下でさえ空気ガン無視で、ふざけてしまうけど、
嫌われる要因、満載なんだけど、
「…………、」
やっぱり僕は、
「…………あんたに、だけは……」
こんな彼女が、
「……言われたく……ないわよ。……くそド低脳。」
けっこう好きだ。
「って、言いそうだよなー、星史なら。」
おとなしく、そして辛辣になった雨宮へ、軽薄に笑った。
「……知ったような口、利くんじゃないわよ。」
素っ気ない口ぶりが反撃してくる。
「ああ、知らね。」
素っ気なさに、軽薄で反撃をかわした。
「全然知らねーわ、おまえの星史とか。結局おまえらのことも、わかんね。全然わかんね。」
かわすだけで済ますものか。軽薄で応戦もしてやった。胸に沈んだまま、腕に納まったまま、雨宮が無抵抗なのもいいことに、さっきの仕返しもこめて、一人で勝手に笑ってやった。逃げ出さないのをいいことに、抱きしめ続けてやった。
「だから、無理やりにでも引き摺り出す。」
笑ってやった。抱きしめてやった。
どんな怒られても、嫌われても、睨まれても、毒だと、怨まれようと、既に、とっくに、お互いさまだ。
「星史を取り戻す。」
ぶち壊されても、ぶち侵されても、
囚われても狂わされても、
それこそ、蝕まれていようと、
僕はこの、面倒くさい彼女がけっこう好きだ。
「おまえの星史は、俺が取り戻す。」
むかつくくらい、とっくに、好きだった。




