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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第十章】 星をうしなう
67/92

66  『愛憎』




『予定日、いよいよ来月だね。』

『ええ。でも、初産は遅れるって言うし……』

『やっぱり怖い? 緊張する?』

『そうね。ちょっと、こわい、かな。』



『そっちはどう? つわり。』

『山は越えたって感じかなー。もともと軽かったし。……あ、でも歯磨き粉とか、まだ気持ち悪くて。』

『わかる。』

『あと、食欲もすごくて。』

『わかるわかるっ。』



 ────────、



『男の子だったよー!』

『ほんと!?』

『うんっ。仲良くしてね。』

『そうね。お友だちになれるわね。』

『友だち、っていうか、いとこなんだけどね。』

『ふふ。そうだったわね。』



 ────────、



『なまえ、決めたの?』

『ええ。』

『聞いても、いい?』



(あさひ)。』



『あさひ、くん……うんっ、すてきな名前だね。』


『ありがとう。』

『お義兄さんと一緒に考えたの?』

『もちろん。』

『早く会いたいなあ。あさひくん。』

『あたしも、早くその子に会いたいわ。なまえ、決めてるの?』

『まだだよー。わたしも、(さとる)くんと一緒に考えるんだあ。』



 ────────。



『この子は、暁くんに、似てくれるかな、』

『? なあに、突然、』



『あまり、わたしに、似ないでほしい、な。』



『……。おかしなこと言うのね。あなた似で産まれたら、きっと、すごいイケメンくんになると思うわよ?』


(あきら)ちゃん、』





『わたしね、』




(さとる)くんのこと、大好きなの。』







 だいすき なの ────────












 咄嗟に摑んだ雨宮の袖は、たいぶ湿っていて、同時に僕自身も、ずいぶんと濡れていることに気づいた。雨粒は容赦なく降り注ぎ身体を重くする。

 雨宮は無気力に、ぼう然と立ち尽くしていた。それなのに、僕は彼女の腕を離せずにいた。


「────……って……」

「……え?」


 無気力のまま、雨宮は声をふるわせる。


「……あのひとのところに、つれてって。」


 輪郭を伝うのが、涙なのか雨なのか判らない。震えた声が、命令なのか懇願なのかも判らない。目的も、彼への想いも、僕には彼女が、何もわからない。

 わからない彼女に従って、頷いた。


「ごめんな。今日、バイクじゃないんだ。」


 袖を放して手へ握りなおす。片手で傘を開いて、空から彼女を隠した。

 そのまま駅に向かって、どちらともなく歩き始めた。傘も、雨宮の手も、離せなかった。放すわけにはいかなかった。





「セージさまのこと、教えて。」


 無言でいた雨宮が突然口を開いたのは、王子(おうじ)駅の改札を抜けて、すぐだった。視線をほんの少し降ろした真隣で、まじめな顔をして僕を見ている。ようやく滴らなくなった髪が、まだまばらに額や頬に貼りついている。

 こちらも、まだ湿り気のある制服の袖で、ほとんど無意味に彼女の額をぬぐった。

「それ、俺に聞く?」

 おまえのほうが詳しいじゃん。軽く笑ってやると、雨宮は首を振った。


「あたしは、あの人がここに住んでるなんて、知らなかった。」

 南口に広がる街並みを、眺めながら言う。


 僕は少し考えてから、街並みの一部である、緑の多い坂を指差した。

「この公園抜けた先のさ、でかいマンションに住んでるんだ、あいつ。」

 彼女に説明を始める。

「この上、公園なの?」

「うん。近道だから、通ってこ。」


 同じ傘の下で坂をのぼった。まもなく夜が近づく区立公園には、人っ子一人いない。天候も天候だから、なおさらだ。


「全部桜の木なんだって、これ。春になると上から花見ができるって、自慢してた。あいつんち八階だから。」

「それは、贅沢ね。」

「なー。春になったら押しかけてやろうな。そうそう、あいつんち犬飼ってんだよ。」

「犬……」

「うん。けっこう年取ってる黒い雑種。名前がさ、渋いんだこれが。文遠(ぶんえん)って言ってさ、」

「文遠……張遼の(あざな)ね。」

「チョウリョウ? あざな?」

「……本を読め、本を。」



 雨のなか、僕らは喋り続けた。



「父親が主夫やってて、母親は結構忙しい人みたいなんだ。よく海外出張とかしててさ、」

「ふうん……」

「で、すげーラブラブらしくて、母親の帰国する日は、空港に迎え行った足でそのまま夫婦水入らずデートするんだって。なんかいいよな、そういうの。」

「そうね。」

「で、親が家空けるとき、叔母さんが家の事やりに来てくれるんだ。」

「セージさまの、おばさま?」

「父親の妹って言ってたかな。料理うまくてさ、ちょっと変わってるけど、いい人なんだ。」



 星史(せいじ)のことを、話し続けた。



「泊まり行くといつもゲームすんだけど、あいつ足引っぱりまくるんだよ。そのくせ諦めないから、まー、たちが悪い。」

「そう。」

「結局徹夜になるんだよなー。」

「そう。」

「ゲーム、リビングですんだけど、これがまたすごいんだ。あいつんちのリビング、写真だらけで。」

「写真?」

「あいつの写真とか、家族写真。」

「……そう。」

「ちょっとした記念館なんだよな。七五三とか、入学式や卒業式や……もう仲村星史の年代記って感じでさ。」



 僕の知る、仲村(なかむら)星史(せいじ)の、話を。



「あいつさ、めちゃくちゃ愛されてんだよ。」



「……しってる。」



 公園を抜ける手前で雨宮の声調が変わった。

 同じ傘の下。肩がかすれ合う距離。見える角度が限定される彼女の表情は、やっぱり、わからなかった。


「……あの人の、家とか、親の仕事とか、飼ってる犬とか、手伝いに来てくれる人とか、ゲームの腕とか、ぜんぶ、全然、知らなかったけど……」


 拗ねているのか、怒っているのか、勝ち誇っているのか、悔んでいるのか、いつもどおり、素っ気ないのか。憶測をたてながら歩き続けた。


「あのひとが、愛され過ぎてるくらい、愛されてるってことだけは……あんたよりも知ってる。」


 雨宮糸子の知る、仲村星史の話を聞きながら、歩みを止めなかった。




「あんたよりも……知ってるんだから。」




 スロープを降る先に、道路が見えてきた。

 もうすぐ、彼の家だ。








 エントランスのインターホンに(へや)番号を入力すると、すぐに反応があった。


「はい。」

 星史ではなかった。聞き慣れた女の人の声。イヨさんだ。


「あの、俺です。皆口(みなぐち)です。」

 少しばかり前のめりに、早口で僕は言った。

「あら。どうぞ。」

 あっさりとしたやりとりで、すんなり自動ドアが開く。ここまでの道のりが、物理的にも心理的にも長旅のようだったから、僕も、たぶん雨宮も、拍子抜けしてしまった。


 もうすぐ星史に会える。


 エレベーター内での短い一時(ひととき)を、僕らは無言で過ごした。

 彼女は、彼に何を話すのだろう。僕は、彼に何を言ってやろう。彼は、どんな顔で僕らを迎え入れるのだろう。

 沈黙のなか、雨宮を観察しながらそんなことばかり考えていると、あっという間に八階に到着した。


 もうすぐ、星史に、会える。

 僕らの足どりは間違いなく()いていた。

 早く会いたいんだ。

 雨宮に会わせてやりたいんだ。言ってやりたいこともたくさんあるんだ。あの、むかつく顔に一泡吹かせてやりたいんだ。困らせてもやりたい。ざまあみろって、今日だけは僕が、笑ってやりたい。


 あいつが僕らに、むかつけばいい────




「……!」



 (いえ)の前に辿り着いた僕らは、息をとめた。



 『出ていけ』

 『人殺し一家』

 『犯罪者』

 『疫病神』

 『くたばれ』

 『死』 『死』 『死』



 目に飛び込んできたのは、罵詈雑言の文字の、数々。


 紙に書かれた物が貼り付けられていたり、直にスプレーで書かれていたり……仲村家を示す番号の(いえ)が、数多の悪意で埋め尽くされている。


 言葉を失う僕らの前に、中傷まみれのドアが内側から開いてイヨさんが出てきた。ハンドタオルを持っている。


「いらっしゃい。……あら、またやられてる、」

 イヨさんは驚く様子もなく、慣れた手つきで中傷の紙を剥がし始めた。その光景を不穏な目で見つめる僕らに気づいたのか、薄い笑顔を見せた。


「ちょっと油断するとやられるのよ。ごめんなさいね、驚かせて。でも直接的には何もされないから、案外無害なの。」


 だから心配しないで、と言わんばかりに平然と振舞いながら、手にしていたタオルを僕らに渡してくる。

 渡されるがままに受け取りながら、僕はぼう然と、たずねた。


「あの……星史、は、」


「あの子なら、いないわよ。」


 まるで質問を予測していたような答えを、躊躇いがちに告げる。


「いない、って……」


「新潟の親戚のところでお世話になるの。この(いえ)も、兄から私名義になったわ。」


 答えが何を意味するのか瞬時に把握した。

 絶句する僕ら二人を目にしたイヨさんも、何かを把握したらしく、更に気まずそうに告げてきた。


「さっき発ったわ。……六時半の新幹線、乗るの。」


 おそるおそる開いたスマホ画面が映す時間は、『18:21』────




 僕の背後で、雨宮の気配が衝動みたいに駆けだしていた。



「……雨宮っ!」


 僕も駆けだした。余地無く彼女を追った。






 八階から階段を駆け下りる。何度も踏み外しそうになりながら、慌しく揺れる三つ編みを眼下に、走る。

 距離が縮まらない。

 マンションを飛び出し、来た道を戻る。時間を巻き戻すみたいに走りながら駆け戻る。彼女を追いながら道路を渡り、スロープをあがり、公園まで辿り着く。距離が少しずつ縮まってゆく。

 湿った砂利道。頭上に生い茂る木々。公園内を進めば進むほどに(あた)りは薄闇に包まれてゆく。

 ずぶ濡れの貧相な後姿が、雨で霞む。

 あと少し、あと少しだ。



 闇に消えてしまいそうな彼女へ手を伸ばした。



「雨宮ッ!!!」



 振り絞った声で呼ぶ。振り絞った力で背後から彼女を抱え込む。



「……離してッ、離して!」


 捕らえられた雨宮が暴れて抵抗する。


「まだっ、間に合う……間に合うから! 離して! ……離せ! 離せ!!!」


「おちつけ……! 雨宮っ……」


 もがく彼女を抱きしめながら宥めた。


 おちつけ、おちついてくれ、雨宮、

 雨宮……雨宮……あめみや……


 何度も、何度も彼女のなまえを呼んだ。



 抵抗する力が抜けてゆく。叫び声が薄れてゆく。すすり泣く声に変わってゆく。雨音が、存在を増してゆく。


 膝から崩れ落ちる雨宮と共に、僕も地へ座り込んだ。身震いがどっちのものか判らない。雨にうたれて、薄闇にまみれて、絶望する。



 もう間に合わない

 間に合うわけ、ない


 彼に 会えない




 僕の腕の中で、弱々しく雨宮は振り向いた。レンズ越しの真っ黒な瞳に、僕がいる。ずぶぬれで、ぐちゃぐちゃで、なさけなく、映っていやがる。

 雨宮だってぐちゃぐちゃだ。髪は乱れて息もあがって、体温もほとんど感じられなくて。僕らはふたりして闇のなか、雨にうたれて惨めに情けなく、ぐちゃぐちゃだった。



 ぐちゃぐちゃな彼女を見据えて、僕は首を振った。


 (しか)と、振った。




「────あああああああああッ!!!!」




 絶叫と同時に首を掴まれた。


 雨宮が声をあげながら僕を押し倒す。形相を変え、組み敷く。

 (ふところ)から何かを取り出す。


 ボールペンだ。


 僕の喉元へ、突きたてる。



「…………あんたは……毒みたいな男ね……」



 ありったけの殺意と凍てつく眼光が、雨と共に降り注ぐ。

 ふるえるペン先が、喉に触れる。

 後頭部に、背に、圧しつける砂利が冷たい。痛い。息が、苦しい。


 レンズ越しの真っ黒な瞳に、僕がいる。



「なんで……あんたなのよ……」



 彼女の中に、いる。




「あたしの中から……出ていけ……!」




 殺意、喪失、悲痛、絶望。

 すべてをこめて、雨宮は吐き出した。





「……それはこっちの台詞だ。」



 喉に突きたてられたまま、威嚇した。




 頬をかすめる乱れた三つ編み、馬乗りに圧し掛かる人間の重み、近距離から見おろす形相、凶器と化した白銀のボールペン、とめどない、やりきれない、制御の効かない、激情。


 おまえだけと思うな。


 瞳に映る僕が、雨宮と同じ顔をする。形相を変えて睨んでくる。

 僕の喪失が、悲痛が、絶望が、殺意に変わってゆく。




 ……俺の中に入り込んできたのは、おまえたちじゃないか




「俺の日常を……ぶち壊して、ぶち侵して、狂わせやがって……」



 感覚のない腕をあげ、震える両手で雨宮の首を掴み、引き寄せる。

 その細い首を絞めると、雨宮は表情を歪めながらボールペンを喉に食い込ませてきた。走る嗚咽に、僕の表情も歪む。距離のない顔同士から、苦痛と呼吸が生温かくせめぎあう。

 雨宮も僕も一歩たりとも譲らない。互いに首を捕らえ、睨み合う。すべてをぶつけ合う。

 譲るわけにはいかない。




 ……あの夜、轢き殺しておけばよかったよ

 奪い損ねた命に、こんなにも囚われるなんて



 もう、だめなんだ

 俺は、もう、



 おまえたち無しで、生きていけない





「俺の中から出ていくのは……おまえたちのほうだ。」





 毒は おまえたちだ






 猛毒だ


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