66 『愛憎』
『予定日、いよいよ来月だね。』
『ええ。でも、初産は遅れるって言うし……』
『やっぱり怖い? 緊張する?』
『そうね。ちょっと、こわい、かな。』
『そっちはどう? つわり。』
『山は越えたって感じかなー。もともと軽かったし。……あ、でも歯磨き粉とか、まだ気持ち悪くて。』
『わかる。』
『あと、食欲もすごくて。』
『わかるわかるっ。』
────────、
『男の子だったよー!』
『ほんと!?』
『うんっ。仲良くしてね。』
『そうね。お友だちになれるわね。』
『友だち、っていうか、いとこなんだけどね。』
『ふふ。そうだったわね。』
────────、
『なまえ、決めたの?』
『ええ。』
『聞いても、いい?』
『旭。』
『あさひ、くん……うんっ、すてきな名前だね。』
『ありがとう。』
『お義兄さんと一緒に考えたの?』
『もちろん。』
『早く会いたいなあ。あさひくん。』
『あたしも、早くその子に会いたいわ。なまえ、決めてるの?』
『まだだよー。わたしも、暁くんと一緒に考えるんだあ。』
────────。
『この子は、暁くんに、似てくれるかな、』
『? なあに、突然、』
『あまり、わたしに、似ないでほしい、な。』
『……。おかしなこと言うのね。あなた似で産まれたら、きっと、すごいイケメンくんになると思うわよ?』
『陽ちゃん、』
『わたしね、』
『暁くんのこと、大好きなの。』
だいすき なの ────────
咄嗟に摑んだ雨宮の袖は、たいぶ湿っていて、同時に僕自身も、ずいぶんと濡れていることに気づいた。雨粒は容赦なく降り注ぎ身体を重くする。
雨宮は無気力に、ぼう然と立ち尽くしていた。それなのに、僕は彼女の腕を離せずにいた。
「────……って……」
「……え?」
無気力のまま、雨宮は声をふるわせる。
「……あのひとのところに、つれてって。」
輪郭を伝うのが、涙なのか雨なのか判らない。震えた声が、命令なのか懇願なのかも判らない。目的も、彼への想いも、僕には彼女が、何もわからない。
わからない彼女に従って、頷いた。
「ごめんな。今日、バイクじゃないんだ。」
袖を放して手へ握りなおす。片手で傘を開いて、空から彼女を隠した。
そのまま駅に向かって、どちらともなく歩き始めた。傘も、雨宮の手も、離せなかった。放すわけにはいかなかった。
「セージさまのこと、教えて。」
無言でいた雨宮が突然口を開いたのは、王子駅の改札を抜けて、すぐだった。視線をほんの少し降ろした真隣で、まじめな顔をして僕を見ている。ようやく滴らなくなった髪が、まだまばらに額や頬に貼りついている。
こちらも、まだ湿り気のある制服の袖で、ほとんど無意味に彼女の額をぬぐった。
「それ、俺に聞く?」
おまえのほうが詳しいじゃん。軽く笑ってやると、雨宮は首を振った。
「あたしは、あの人がここに住んでるなんて、知らなかった。」
南口に広がる街並みを、眺めながら言う。
僕は少し考えてから、街並みの一部である、緑の多い坂を指差した。
「この公園抜けた先のさ、でかいマンションに住んでるんだ、あいつ。」
彼女に説明を始める。
「この上、公園なの?」
「うん。近道だから、通ってこ。」
同じ傘の下で坂をのぼった。まもなく夜が近づく区立公園には、人っ子一人いない。天候も天候だから、なおさらだ。
「全部桜の木なんだって、これ。春になると上から花見ができるって、自慢してた。あいつんち八階だから。」
「それは、贅沢ね。」
「なー。春になったら押しかけてやろうな。そうそう、あいつんち犬飼ってんだよ。」
「犬……」
「うん。けっこう年取ってる黒い雑種。名前がさ、渋いんだこれが。文遠って言ってさ、」
「文遠……張遼の字ね。」
「チョウリョウ? あざな?」
「……本を読め、本を。」
雨のなか、僕らは喋り続けた。
「父親が主夫やってて、母親は結構忙しい人みたいなんだ。よく海外出張とかしててさ、」
「ふうん……」
「で、すげーラブラブらしくて、母親の帰国する日は、空港に迎え行った足でそのまま夫婦水入らずデートするんだって。なんかいいよな、そういうの。」
「そうね。」
「で、親が家空けるとき、叔母さんが家の事やりに来てくれるんだ。」
「セージさまの、おばさま?」
「父親の妹って言ってたかな。料理うまくてさ、ちょっと変わってるけど、いい人なんだ。」
星史のことを、話し続けた。
「泊まり行くといつもゲームすんだけど、あいつ足引っぱりまくるんだよ。そのくせ諦めないから、まー、たちが悪い。」
「そう。」
「結局徹夜になるんだよなー。」
「そう。」
「ゲーム、リビングですんだけど、これがまたすごいんだ。あいつんちのリビング、写真だらけで。」
「写真?」
「あいつの写真とか、家族写真。」
「……そう。」
「ちょっとした記念館なんだよな。七五三とか、入学式や卒業式や……もう仲村星史の年代記って感じでさ。」
僕の知る、仲村星史の、話を。
「あいつさ、めちゃくちゃ愛されてんだよ。」
「……しってる。」
公園を抜ける手前で雨宮の声調が変わった。
同じ傘の下。肩がかすれ合う距離。見える角度が限定される彼女の表情は、やっぱり、わからなかった。
「……あの人の、家とか、親の仕事とか、飼ってる犬とか、手伝いに来てくれる人とか、ゲームの腕とか、ぜんぶ、全然、知らなかったけど……」
拗ねているのか、怒っているのか、勝ち誇っているのか、悔んでいるのか、いつもどおり、素っ気ないのか。憶測をたてながら歩き続けた。
「あのひとが、愛され過ぎてるくらい、愛されてるってことだけは……あんたよりも知ってる。」
雨宮糸子の知る、仲村星史の話を聞きながら、歩みを止めなかった。
「あんたよりも……知ってるんだから。」
スロープを降る先に、道路が見えてきた。
もうすぐ、彼の家だ。
エントランスのインターホンに室番号を入力すると、すぐに反応があった。
「はい。」
星史ではなかった。聞き慣れた女の人の声。イヨさんだ。
「あの、俺です。皆口です。」
少しばかり前のめりに、早口で僕は言った。
「あら。どうぞ。」
あっさりとしたやりとりで、すんなり自動ドアが開く。ここまでの道のりが、物理的にも心理的にも長旅のようだったから、僕も、たぶん雨宮も、拍子抜けしてしまった。
もうすぐ星史に会える。
エレベーター内での短い一時を、僕らは無言で過ごした。
彼女は、彼に何を話すのだろう。僕は、彼に何を言ってやろう。彼は、どんな顔で僕らを迎え入れるのだろう。
沈黙のなか、雨宮を観察しながらそんなことばかり考えていると、あっという間に八階に到着した。
もうすぐ、星史に、会える。
僕らの足どりは間違いなく急いていた。
早く会いたいんだ。
雨宮に会わせてやりたいんだ。言ってやりたいこともたくさんあるんだ。あの、むかつく顔に一泡吹かせてやりたいんだ。困らせてもやりたい。ざまあみろって、今日だけは僕が、笑ってやりたい。
あいつが僕らに、むかつけばいい────
「……!」
室の前に辿り着いた僕らは、息をとめた。
『出ていけ』
『人殺し一家』
『犯罪者』
『疫病神』
『くたばれ』
『死』 『死』 『死』
目に飛び込んできたのは、罵詈雑言の文字の、数々。
紙に書かれた物が貼り付けられていたり、直にスプレーで書かれていたり……仲村家を示す番号の室が、数多の悪意で埋め尽くされている。
言葉を失う僕らの前に、中傷まみれのドアが内側から開いてイヨさんが出てきた。ハンドタオルを持っている。
「いらっしゃい。……あら、またやられてる、」
イヨさんは驚く様子もなく、慣れた手つきで中傷の紙を剥がし始めた。その光景を不穏な目で見つめる僕らに気づいたのか、薄い笑顔を見せた。
「ちょっと油断するとやられるのよ。ごめんなさいね、驚かせて。でも直接的には何もされないから、案外無害なの。」
だから心配しないで、と言わんばかりに平然と振舞いながら、手にしていたタオルを僕らに渡してくる。
渡されるがままに受け取りながら、僕はぼう然と、たずねた。
「あの……星史、は、」
「あの子なら、いないわよ。」
まるで質問を予測していたような答えを、躊躇いがちに告げる。
「いない、って……」
「新潟の親戚のところでお世話になるの。この室も、兄から私名義になったわ。」
答えが何を意味するのか瞬時に把握した。
絶句する僕ら二人を目にしたイヨさんも、何かを把握したらしく、更に気まずそうに告げてきた。
「さっき発ったわ。……六時半の新幹線、乗るの。」
おそるおそる開いたスマホ画面が映す時間は、『18:21』────
僕の背後で、雨宮の気配が衝動みたいに駆けだしていた。
「……雨宮っ!」
僕も駆けだした。余地無く彼女を追った。
八階から階段を駆け下りる。何度も踏み外しそうになりながら、慌しく揺れる三つ編みを眼下に、走る。
距離が縮まらない。
マンションを飛び出し、来た道を戻る。時間を巻き戻すみたいに走りながら駆け戻る。彼女を追いながら道路を渡り、スロープをあがり、公園まで辿り着く。距離が少しずつ縮まってゆく。
湿った砂利道。頭上に生い茂る木々。公園内を進めば進むほどに辺りは薄闇に包まれてゆく。
ずぶ濡れの貧相な後姿が、雨で霞む。
あと少し、あと少しだ。
闇に消えてしまいそうな彼女へ手を伸ばした。
「雨宮ッ!!!」
振り絞った声で呼ぶ。振り絞った力で背後から彼女を抱え込む。
「……離してッ、離して!」
捕らえられた雨宮が暴れて抵抗する。
「まだっ、間に合う……間に合うから! 離して! ……離せ! 離せ!!!」
「おちつけ……! 雨宮っ……」
もがく彼女を抱きしめながら宥めた。
おちつけ、おちついてくれ、雨宮、
雨宮……雨宮……あめみや……
何度も、何度も彼女のなまえを呼んだ。
抵抗する力が抜けてゆく。叫び声が薄れてゆく。すすり泣く声に変わってゆく。雨音が、存在を増してゆく。
膝から崩れ落ちる雨宮と共に、僕も地へ座り込んだ。身震いがどっちのものか判らない。雨にうたれて、薄闇にまみれて、絶望する。
もう間に合わない
間に合うわけ、ない
彼に 会えない
僕の腕の中で、弱々しく雨宮は振り向いた。レンズ越しの真っ黒な瞳に、僕がいる。ずぶぬれで、ぐちゃぐちゃで、なさけなく、映っていやがる。
雨宮だってぐちゃぐちゃだ。髪は乱れて息もあがって、体温もほとんど感じられなくて。僕らはふたりして闇のなか、雨にうたれて惨めに情けなく、ぐちゃぐちゃだった。
ぐちゃぐちゃな彼女を見据えて、僕は首を振った。
確と、振った。
「────あああああああああッ!!!!」
絶叫と同時に首を掴まれた。
雨宮が声をあげながら僕を押し倒す。形相を変え、組み敷く。
懐から何かを取り出す。
ボールペンだ。
僕の喉元へ、突きたてる。
「…………あんたは……毒みたいな男ね……」
ありったけの殺意と凍てつく眼光が、雨と共に降り注ぐ。
ふるえるペン先が、喉に触れる。
後頭部に、背に、圧しつける砂利が冷たい。痛い。息が、苦しい。
レンズ越しの真っ黒な瞳に、僕がいる。
「なんで……あんたなのよ……」
彼女の中に、いる。
「あたしの中から……出ていけ……!」
殺意、喪失、悲痛、絶望。
すべてをこめて、雨宮は吐き出した。
「……それはこっちの台詞だ。」
喉に突きたてられたまま、威嚇した。
頬をかすめる乱れた三つ編み、馬乗りに圧し掛かる人間の重み、近距離から見おろす形相、凶器と化した白銀のボールペン、とめどない、やりきれない、制御の効かない、激情。
おまえだけと思うな。
瞳に映る僕が、雨宮と同じ顔をする。形相を変えて睨んでくる。
僕の喪失が、悲痛が、絶望が、殺意に変わってゆく。
……俺の中に入り込んできたのは、おまえたちじゃないか
「俺の日常を……ぶち壊して、ぶち侵して、狂わせやがって……」
感覚のない腕をあげ、震える両手で雨宮の首を掴み、引き寄せる。
その細い首を絞めると、雨宮は表情を歪めながらボールペンを喉に食い込ませてきた。走る嗚咽に、僕の表情も歪む。距離のない顔同士から、苦痛と呼吸が生温かくせめぎあう。
雨宮も僕も一歩たりとも譲らない。互いに首を捕らえ、睨み合う。すべてをぶつけ合う。
譲るわけにはいかない。
……あの夜、轢き殺しておけばよかったよ
奪い損ねた命に、こんなにも囚われるなんて
もう、だめなんだ
俺は、もう、
おまえたち無しで、生きていけない
「俺の中から出ていくのは……おまえたちのほうだ。」
毒は おまえたちだ
猛毒だ




