65 『彼ら』
「やっぱり退学するっぽいよ、仲村星史。」
百香に情報を持ってきたのは、クラスメイトの女子だった。『仲村星史』という悪意のあるフルネーム呼びにも眉を歪ませたくなったが、肝心なのはそこじゃない。
退学。
その噂だけでもあらぬ事だというのに、どういうことなんだ。
「やっぱり退学」……やっぱり、って。
いじめによる自主退学を意味するのか?
……いいや、そんなはずはない。そんな、いじめ加害者の生徒が「やっぱり」だなんて、まるでいじめ行為を認めるような台詞を、堂々と口にするはず無い。
だとしたら、考えられる理由は、ただ一つ。
「圧力、あったのか?」
繋がるまで何度も何度も掛け続けた発信に、ようやく折れて出た星史へ、単刀直入に聞いた。
僕の憶測はおそらく当たっている。
学校側が退学を促したんだ。きっと、問題にならない程度に、遠回しに。
「んー。まあ、たぶん旭くんの想像より、十倍は遠回しだよ。」
星史はあっさりと、圧力のあった事実を認めた。
「なッ────」
「はーい。怒るのストップ。怒ったら切るからね、電話。」
声を荒げようとした僕を制止するように、釘を刺す。「ほら、深呼吸深呼吸」と、ふざけた口調で宥めてきたけれど、本当に通話を切られるのも困るので、従った。
深呼吸を確認してすぐ、星史はまた軽い口調で、話し始めた。
「だって普通に困るでしょ。毎日毎日報道陣の対応、授業だって進まないし、悪評ばかり付いちゃうし。現に、俺が原因で傷害事件、多発しちゃったわけだしね。他の生徒にも悪影響ってやつでしょ。」
学校側を擁護しているかのような説明は、おそらく、彼自身が遠回しに言われた内容の数々なのだろう。想像するだけで、はらわたが煮えくり返ってきた。
「うちの親もさ、今の旭くんみたいに、そうとう我慢してくれたよ。」
怒りが頂点に達する直前で、星史が言った。
「ほんと、我慢して、学校側の話、聞いてくれてた。」
僕の懲りない感情を鎮めるみたいに、穏やかに言う。
「おれ、めっちゃ愛されてるから。」
スマホの向こうで、嘘じゃない笑顔を点す彼が容易に想像できて、また、自分を恥じた。そしてきまり悪くなった。
彼に、何て言ってやればいいのかわからなくなって、口を噤む。
「てかさ、暗くなりすぎじゃない? 何? 死ぬの俺?」
察してか、ふざけただけなのか、星史は軽口をたたいて笑う。
「学校辞めるだけなんだから。ね?」
「やめるだけ、って、それなりに大ごとだけどな。」
僕もようやく、笑い返せた。
「それに……さ、」
だけど、どうしても外せない気懸りは、まだ残っていた。
「口にはしてないけど、めちゃくちゃ心配してるからな、……あいつ、」
向こう側で、星史がどんな顔をしているかなんて、想像もできない。
「……雨宮の、やつ。」
どんな顔をしていてもいい。何を感じようと星史の自由だ。でも、雨宮の、歯がゆくてもどかしい苦悩だけは、伝えたかった。
……、
……、
……。
「……わあかったよー。」
無言に沈黙で対抗し続けたところ、ようやく星史が折れてくれた。
「明日、学校行くから。んで、ちゃんと話す。それでいい?」
「くんのかよ、学校。」
「行くよー。荷物回収しないとだし。」
「親同伴?」
「無理無理。超目立つじゃん、それ。」
「一人でもかなり目立つけどな。」
「まじで? おしゃれしてかなきゃ。」
ふざけあって、笑い合った。言葉は、選ばなかった。
雰囲気も、守らなかった。顔色も窺わないし、小さな嘘さえつく必要も無く、身も削らない。
おんなじだな。雨宮と、同じだ。
十七年間他人で、最後の一年間、名前だけ知っていた、仲村星史と雨宮糸子。
彼らは、僕の日常をぶち壊して、ぶち侵して、狂わせやがって、僕のなかに浸み込んでしまった。
馴染んでしまった。もう、なくてはならないほどに。
雲のぶ厚い朝だった。
「今日、星史来るって。」
薄暗い窓のほうを向いて、肘をつく雨宮に、僕はぽつりと伝えた。
電源が入ったみたいに振り向いて、目をまるくする。抑え込んでいたはずの感情を、表情だけで露わにしてしまう彼女が、いじらしくもあり、少々、不憫でもあった。
此度の騒動で明らかになったのだが、雨宮は星史の連絡先を知らない。住んでいる所も、最寄りの駅も。
まったく、どこまでも理解できない二人だ。それは置いておいて、つまり雨宮にとって仲村星史の情報を得るには、噂話か、本人から直に聞く以外、方法が無かったということだ。
もどかしかっただろうな。
ずっとずっと理解できないままの彼女の心中が一部分だけ、痛いほど理解できた。
早くきやがれ。曇天を眺めながら、星史に向けた。
早く来い。そんで、何か言ってやれ。
「最後くらい、他人、やめろよ。」
星史に向けた思いを、目の前の雨宮にも告げた。
「言ってやりたいこと、いっぱいあんだろ。」
窓の外を眺める彼女と、同じように外を向きながら言う。
「……余計なお世話よ。」
素っ気ない返事がちいさく鳴る。窓ガラスに反射する彼女を、ばれないようにみつめていると、ぽつぽつと水滴が模様を作り始めた。雨だ。
天気予報、当たったな。バイクでこなくて正解だった。思ううちに、だんだん雨は本降りになってきた。
時間の経過と共に、雨はどんどん強くなる。
アスファルトを侵食するように濡らしてゆく。
地面が、ぐちゃぐちゃにぬかるんでゆく。
彼が現れないまま、刻一刻と、一日が過ぎてゆく。
雨音が、校内の喧騒に、まじる。
教室から、廊下から、所在不明などこかから、絶えず溢れる生徒たちの、声、声、声。話し声。笑い声。噂話に相談。ふざけた話。まじめな話。誰かを愛する声、蔑む声…………
混じっていたはずの雨音が喧騒に勝ったのは、
彼の訪れを報せる合図だった。
「きたよ……」
誰かが言った。
自由に散らばっていた声が、視線が、一瞬で野次馬に変わる。
終礼間近、全校生徒が残るほんの僅かな自由時間に、星史は現れた。
黒のパンツに丈のあるカーディガン。制服姿の群衆のなかで充分に目を惹く私服姿で、堂々と廊下のど真ん中を闊歩し、ためらいなく教室へ入る。
手際よく私物を纏めている間に、彼を見物するギャラリーはどんどん増えていった。廊下、階段、はては玄関まで、彼の通るであろう場所に、群がってゆく。
しかしあくまで遠巻きに。
声なんてかけるもんじゃない。
相手は人殺しの息子だ。
下手にいじるものじゃない。
今後の進路にだって影響する。
そんな思想の数々が、狼煙みたいに揺らいでみえた。
「雨宮、行こう。」
「…………っ……」
僕は問答無用で雨宮の腕をひいた。返答の無い人形が、いともあっさり共に駆け出す。
下卑た思惑がありふれる群衆を掻き分けながら、僕と雨宮は、彼を追った。
教室でも、廊下でも、玄関でも、群衆に阻まれて星史は僕らに気づかない。
声を投げれば振り向くだろうに、雨宮はためらっていた。ためらうまま、気づかれぬまま、彼を追った。
僕はぎりぎりまで待つつもりだった。
雨宮に、星史を呼んでほしかった。
だけど、行ってしまう。
彼が靴を履く。傘をさす。遠ざかってしまう。
校門の前にタクシーが停まっている。きっとあれに乗るつもりだ。
行ってしまう。
……ふざけんな大嘘つき
雨に霞む彼の背へ、うったえた。
ちゃんと話すって 言ってたじゃねーか
おまえが来るって報せたときの 雨宮の顔 教えてやろうか?
めちゃくちゃ嬉しいくせに無理して堪えてすまして
すげえブスだったからな
絶対笑うからな?
だから 最後に 笑ってやってくれよ
他人のふりなんてやめてくれ
学校で 雨宮糸子と向き合ってくれ
「……雨宮……っ、」
おまえもおまえだよ 雨宮
何が自分の意思だよ
ふざけんな
「欲望……まっとうしろよ……!」
僕は星史の去るほうへ、雨宮を突き飛ばした。
……おまえたちは
僕が おまえたちの中に現れる前から
おまえたちが 僕の中に住みつく前から
とっくに 他人なんかじゃなかったんだろ?
「────……セージさまっ……!」
降りしきる雨のなかで雨宮は叫んだ。
「────……、」
星史が振り向く。僕と雨宮、順番に視線を行き来して、雨宮におちつく。
そしておもむろに踵を返した。雨宮へ、歩み寄る。
同じ傘の下で、すぶぬれの彼女と向かい合う。
「…………。」
「せいじ……さま……」
短く見つめ合った末に、星史は突然、
震える彼女の額を指で弾いた。
「ブース。」
いたずらに、笑う。
「地味に痛いだろ?」
白くて白くて、むかつく、無垢な笑顔。
目をぱちくりとしながら停止する雨宮に、星史は囁いた。
「 」
デコピンして笑って、彼女に何かを言い残して、星史は今度こそ去ってしまった。
彼を乗せたタクシーが遠ざかってゆく。
停止していた雨宮が突然走り出した。
せつなに、僕は彼女を追う。
校門を抜け、道路に飛び出す彼女を、咄嗟に、摑まえた。




