64 『傾慕』
十七年間、他人だった。
[一学年総合成績 一位 仲村星史]
「普通科の人なんだって、このナカムラってひと。」
「はー……特進の立場ねーな。」
「ま、どーせ百香も旭も、圏外だから関係ないけどねー。」
「ごもっとも。」
「あっ、でもさすが二位以下は特進多いね。ていうか、雨宮さん、一位と僅差じゃん。惜しいなあ。」
「アメミヤ?」
「ほら、二位の。雨宮さん、百香たちと同じクラスじゃん。」
「いたっけ? そんな奴。」
「いるよー。ほら、眼鏡の。」
彼らとは、十七年間他人だった。
最後の一年間、名前だけは、知っていた。
でも、もしかしたら、
彼らからすれば、
────“親に自慢しようと思ってさ。”────
そのころから、僕は、
────“……い、いいい粋がってんじゃないわよ、クソガキ!” ────
彼らの中に、居たのかもしれない。
雨宮の復学と入れ替わるように、星史は学校に来なくなった。
明確な理由は判らない。
ただ、彼が『信者』である下級生の襲撃を受けた件と、前件の殺人未遂を起こした女子生徒が揃って模倣の供述をし『信者』であると判明したのは、あまりにも最悪なタイミングだった。
被害者であるはずの星史への風当たりが、以前に増して強くなったのだ。
すべての元凶だといわんばかりに、まるで、疫病神か死神みたいに。
彼がふざけて口にしていた、机に『死ね』の落書きも実現したし、花瓶が置かれた日もあった。他にも、たぶん、色々。
それまでのいじめ被害に平然を貫いていた星史が、『信者』の判明以降早々に登校拒否を始めた理由は、僕にあるのだと、雨宮は言う。
「あんたを、あたしの二の舞にさせたくないのよ。」
怖いくらい冷静に雨宮は言った。絶対、僕を許しているはず、無いのに。
星史の机に置かれた花瓶を目にした日、僕のなかで何かが切れた。
なるほど。人間、本当に「キレる」ものなのだ。気づくと普通科クラスに乱入していた僕は、花瓶を思い切り黒板に投げつけていた。
知らない人間ばかりの教室で、知らない悲鳴があがり、知らない視線を浴びながら、僕は知らない、クソみたいな人間たち顔を、一人一人、全員見た。
そいつらがどんな顔をしていたかなんて、覚えてない。
「旭くん、」
星史が、呼びかけてきたからだ。
叫んで制止するでもなく、湿った涙声でもなく、いつもの、ちゃらけた声で。
「バイクに乗りたいな。」
振り向いた先にあったのも、あの、むかつく笑顔だった。
揃って教室を後にした。その足で要望どおり本当にバイクに乗った。授業も学校も、どうでもよかった。
俺にはおまえがわからない。
彼に対して思うには、あまりにも今更過ぎる感情で、声にすることが却って難だった。だけど声にした。言葉にしてちゃんと伝えた。
なぜ俺を咎めないのか。なぜひのでを怨まないのか。なぜ、公になってしまった秘密に、嘘をつかないのか。ごまかさないのか。なぜ、度重なる陰湿で悪質な行為に、抵抗しないのか。やられっぱなしで笑うのか。怒りはないのか。悲しみはないのか。なぜ、助けを求めないのか。
数え切れない「なぜ」を、一気にぶつけた。
「仕方ないじゃん。」
手応えのない答えが、心臓を突き刺す。
しかたない、って……疑うようにおうむ返しをすると、星史は、「そ。仕方ない」なんて、追い討ちをかけるみたいに、くりかえした。
「実子である俺自身が、名塚月乃を受け容れてないんだから、世間が俺を受け容れてくれないことに、文句なんて言えないよ。」
だから歯向かわない。逆らわない。当然の罰を、ありのまま受ける。星史自身が納得して決めた身の置き方に、僕が納得できるはずなかった。
「世の中、愛された者勝ちなんだよ。嫌われた人間は、仕方ないんだ。」
納得、できるはずがない。
「仕方ないわけあるかよ、」
すべてに歯向かわないと決めた彼に、僕は歯向かう。
おまえは自分で言ったじゃないか、母親は一人だけだって。名塚月乃なんて、産んだだけの女だ。実子も親もあるか。巻き込まれる必要なんてあるもんか。おまえの人生を仕方ないで済ませていいものか。そんな自論、くそくらえだ。
熱くなる僕を見据えて、星史は涼しげに目を細めた。
「ほんとう旭くんは、ひとを好きになるのが下手だね。」
はにかむように笑う。
真っ白で幼いそのしぐさに、僕は少しだけ、むかついた。
「おまえ、本気で言ってんの?」
ゆっくり、問う。
嘘つきな子どもを叱りつけるように、わからず屋な頑固者に、言い聞かせるみたいに。
「今の、俺に対して。」
見据える瞳を、みつめかえした。
尚も星史は涼しげな表情を崩さない。僕の、ちんけなお説教なんて物ともせず、ヘルメットを被りながら帰り支度を始めた。
「ひとを好きになるのが下手なのと、ひとを好きになれないのは、イコールじゃないよ。」
最後にそう付け加えると、何事もなかったように「学校、サボっちゃったね」と笑った。
僕は、おとなげなく、やっぱり少しむかついて、無視してヘルメットを被った。黙ってエンジンをかけ、無言で出発する。例によって両肩に置かれた星史の手が、きゅっと指を立てた。
ねえ、旭くん、
信号待ちのとき、呼びかけられたのには、気づいていた。
「おれさ、前に、言ったよね?」
囁く声は、エンジンに負けていなかった。
「他に、何もいらないんだ。お金も、学校も、友達も、家族も、」
星史は、僕が本当は気づいていることに、気づいているのだろうか。無反応を貫いてもなお、囁き続けた。
「……なまえも。」
おとなげないのはお互い様だ。子どもじみたまま、僕らは一歩も譲らなかった。
ありがとう おれは今でも ちゃんと幸せだよ
ヘルメットの硬い感触が、こつんと響いた。
翌日から星史は学校に来なくなった。
正当な欠席ではないと早々察した僕は、途方に暮れるように、昼休みの屋上を避けて映写室へ足を運んだ。
そこで復学したての雨宮と遭遇し、くだんの台詞を投げつけられた次第だ。
「あんたを、あたしの二の舞にさせたくないのよ。」
ぐうの音も出ないくらい頷けてしまう理由と、あまりにも冷静な彼女に、最初は困惑した。ぶん殴られても仕方ないと、踏んでいたのに。
「あたしが偉そうな口、利ける立場じゃないし。」
しかし雨宮が自然に接してくれることで、僕も冷静になれてきた。なればこそ、おそらく星史の登校拒否の原因となった、自分の行動を恥じた。花瓶……割らなきゃよかったな。
「皆口。あたし、あんたが嫌い。」
後悔に塩を塗るように、雨宮は突然言った。
「本当に嫌い。」
恨めしく、というより、淡々と。
……まあ、何で今になって? とは突っ込みたい所だけど、面と向かって言われるのは一応傷ついた。反応に困り、噤んで視線を伏せる。
「でも、感謝は、してるの。……あんたと、あんたの、母親。」
また反応に困った。今度は視線を上げる。
ん? 感謝? は? 母親? 僕の? は? 疑問符がいくつも頭上に浮かぶ。
「彼から……話は聞いてたから。」
雨宮はそこまで言うと、僕のほうを向くなり眉を寄せた。どうやら、話をまったく理解していない僕に気づいたらしい。
「────だからっ、」
はがゆさからか、机にばしんと手のひらを乗せて、声をあげる。
「あんたはセージさまの味方! 助けたい! 違う!?」
言葉の区切り区切りで、何度も机をばしばし叩きながら言ってくるものなので、圧倒されつつも僕は「お、おう」と頷いた。
「つまりセージさまの話が、あたしの聞いたとおりだとするなら、彼の味方は、あんただけじゃない、でしょ?」
何度も頷く僕をみて、雨宮も冷静さを取り戻してゆく。
僕も、しだいにちゃんと、理解してゆく。
彼女の、言いたい事を。
「助けて……くれんるんじゃないの? あんたの、母親も。」
……言葉足らずな女だ。まず、それを思った。
次に、自分の意見を探そうとしたその矢先、ノックの音が阻んだ。
「あ……やっぱりここだった。」
百香だった。雨宮にも目を配り、「糸子ちゃんも居たんだね」なんて、静かに笑う。
百香は星史の転落以降、穏やかな学校生活を取り戻していた。
むしろ、以前より高待遇を受けているかもしれない。学校からも、教師からも、手のひらを返したクラスメイトたちからも。
疑惑の生徒から一転、悲劇のヒロインとなった百香には、ご機嫌取りを目論む連中から、今回の件に関連する情報が次々と流れ込むようになっていた。
「……あのね、旭。……ちょっと、旭には、いやな噂、聞いちゃったんだ、」
そんな彼女が口にする「いやな噂」は、
突きつけられた現実は、あまりに、残酷すぎた。
僕よりも、彼と、彼女にとって。




