62 『足掻』
転落なんて、架空だと思っていた。
歴史上の人物だとか、映画やドラマの話だとか、仮に実在したとしても、それはスキャンダルを起こして干されたアイドルだとか。
少なくとも、身近に起きる現象だとは思っていなかった。
スキャンダルを起こして、干されたアイドル……か。
我ながら的を射た例えだ。
僕が無関係だとばかり踏んでいた転落という架空の現象は、僕の、この世で限りなく近い彼に、降りかかった。
この世で限りなく近い、『彼』。
今日の星史は校舎裏のごみ収集場にいた。もう放課後だというのに、ジャージ姿で腕まくりをして何かを探している。
「今日は何だった?」
僕が問いかけると、特に驚く様子もみせず振り向いた。
「本日はねー、制服。」
参ったように眉を八の字にする。
いや笑ってんじゃねーよ。僕は呆れつつも、一緒にゴミの山を漁り始めた。
「ついに制服まできたか~。」
「日に日にエスカレートしてんのな。」
「まーね。昨日は教科書一式だったし、一昨日は弁当。その前は内履きだったねー。」
「いや笑ってんなよ、」
「俺さー、都市伝説だと思ってたよ。「二人組み作って~」で苦労するのって。」
「だから笑えねーよ。」
ようやく制服を発見した僕らは、地べたに座り込んでパックのジュースで乾杯した。全然、乾杯できるような状況では、なかったのだけど。
やっとの思いで見つけたシャツもズボンも、ずたずたに切り裂かれていたからだ。
「……立派な物的証拠だろ。制服見せて、対処してもらえよ、」
ぼろきれ状態の制服を指して、僕は言及した。
僕だって、こんな転落、都市伝説だと思っていた。
星史は、今、まるで架空の物語みたいな、『いじめ』に遭っている。もはや口にするのもばからしい、テンプレみたいな、いじめだ。
発端はもちろん、ひのでのばら撒いた母子手帳のコピー。
いじめの理由は言うまでもなく、星史が、名塚月乃の息子だと判明したからだ。
最初は判りやすい無視から始まった。やがて、本人に聞こえるような陰口、中傷。不慮と見せかけて投げつけられるゴミ。そして、日替わりのごとく捨てられる、星史の私物。
教本どおりの『いじめ』の数々は、日を追うごとにエスカレートしていった。
「そろそろ机に『死ね』とか書かれるころかなあ?」
だから笑ってんじゃねーよ。僕は割と真面目なトーンで叱りながら、自分のシャツを脱いで彼に渡した。
「ほら、ジャージ脱げ。」
「えっ。何ここで? ダイタン~。」
ふざけながら腕を胸元で交差させる。
「ちっげーよバカ。服、交換しろって。」
いちいち突っ込むのも面倒だ、と呆れる反面、こんなやりとりがまだできる現状に、本音を言うと安心もしていた。
「親、心配させたくないんだろ、」
さっきよりも更に真面目なトーンで言う。
「……それ、言われちゃうと敵わないなあ。」
星史は尚もふざけた調子で、シャツを受け取った。
星史自身が、いじめの救済措置を求めなかったのも、事実だ。
しかし、現状がここまでエスカレートしてしまったのには、別の理由がある。
水浸しのロッカーを前にした時点で、僕は駆り立てられるように職員室へと向かった。星史の意思なんて無視して、彼の腕を引っぱって連行した。陰湿で、悪質な行為を告発するつもりだったんだ。
しかし、告発は成らなかった。
同日に、学内で起きた別の事件のせいだった。
三学年の女子生徒が、交際中の男子生徒に、バットで殴りかかるという傷害事件を起こしたのだ。
両名とも本校の生徒である上、加害者である女子生徒が明確な殺意以外は黙秘を貫いたため、事件は殺人未遂へと伸展し、話題性が増した。そして少なからず報道陣がかけつけた。
対処に追われた学校側が、たかがロッカーを水浸しにされたくらいの悪戯に、構っている余裕なんて無かったのだ。
しかも事件はこれだけで終わらない。
間を置かず、また別の女子生徒が殺人未遂を起こしたのだ。
今度は、二学年の生徒だった。バイト先の同僚である男子大学生を、駅のホームから突き落としたらしい。幸い電車との接触こそ無かったものの、彼女もまた前件の女子生徒と同様、動機について口を閉ざした。
二件の事件、二人の女子生徒に本校という以外接点は無く、不可解な連続殺人未遂事件は、更に報道を過熱させた。学校側は教職員総動員で対応に追われた。
星史の被害が放置されたのをいいことに、いじめ加害者たちの行動は徐々にエスカレートしていった。それが星史の現状の、経緯である。
人殺しの息子なんだから制裁は当然
誰かが言ったわけではない。でも、誰かが言っているような気がした。きっと加害者たちに、いじめの自覚は無い。彼らにとって、これは正義だ。
名塚月乃の子。殺人犯の息子。出生を隠し、名を偽り、人気者の優等生として何食わぬ顔で周囲を欺いていた、卑怯者。そんな、仲村星史という男が、赦せなかったのだろう。
忌み子のくせに、愛されていた、彼が。
何度、深呼吸をしただろう。画面上の、雨宮糸子の番号をタッチできないまま、もう二十分近く経過している。
雨宮に報せなくては。星史の現状を。
妙な使命感に課せられたのはいいとして、情けないことに覚悟が決められない。ようやく腹が括れて発信すると、数コールもせずに雨宮は出た。
「……なに、」
馴れたはずの素っ気無さが、初めて、怖い。
「よ。元気?」
自分でも何を言っているんだろうと、思った。
「だから、なに、」
「停学、満喫してる?」
「用件は?」
「なんだよ冷たいな、」
「用が無いなら切るわよ。」
「あっ、いや……その、」
喉を鳴らせて唾をのむ。
「星史の、こと、なんだけどさ、」
「知ってるわ。」
淡々とした返事に、一瞬理解ができなかった。
「彼から直接、聞いたから。」
続けて淡々と言う雨宮の声で、一気に目が覚める。
「……ごめん、雨宮、」
「やめて。」
雨宮は芯のある語調で、かぶせてきた。
「セージさまから言われてるの。あんたに謝らせるなって。あんたを、責めるなって。」
また、理解ができなかった。いいや、理解できてしまったことに、なぜか納得してしまったことに、理解ができなかった。
また、それかよ。いつものことかよ。
「星史の命令だから、俺を……妹のしたことを、責めないわけ?」
「そうよ。」
雨宮は頑なに言い切る。
「あのひとの意思は、あたしの意思。」
なんだよ、それ。
もう何度目の溜め息かわからない。もう、問い質すことさえ面倒だ。だから諦めた。諦めて、相談にシフトした。星史を助ける方法はないか、現状を打破できる手はないか。彼への救済は、きっと彼女も望むことだから。
「……雨宮。何か、手、無いかな。星史のこと――――」
「皆口、ごめん、」
また、声を被せてくる。
「今は、あんたと喋りたくない。」
通話は一方的に断たれた。
ああ、もう。
天井を仰いで両目を覆った。覚悟、していたつもりだったのに。充分、予測もできていたのに。やっぱりこうなってしまったか。
再発した、妹との不和。生じてしまった、父への憤激。明るみになった、星史の秘密に、打つ手の無いいじめ被害。そして、雨宮からの隠しきれない、恨みと敵意。
すべてがめちゃくちゃだ。修整なんてできっこない。
それでも、足掻かなくては。
覆っていた手を下ろして、天井を見上げる。真っ白だ。天井も、蛍光灯も、白い。目前に広がる人工的な白に、彼を映した。
ふざけた、腹の立つ、へたくそな笑顔。
いい加減、泣かせてやりたくなった。泣かせて、一緒に足掻きたいと。思い切りぶちまけて、足掻いてもがいて躍起になれば、解決策の一つにでも繋がるんじゃないかと。
不明瞭な期待を携えて、バイクのキーを握り締めて、飛び出した。




