61 『不穏』
「厳重注意……ってことですか?」
学年主任の下した決断に、耳を疑った。
正確には、はっきりそれを言われたのではない。
臨時集会で混乱を招いたひのでは、すぐさま生徒指導室に連行され、僕も後を追った。本来なら、生徒指導に他の生徒が立ち会うなんてあり得ないのだけど、身内という理由から僕は入室を許された。
「皆口。おまえなあ、あまりやってくれんなよ。」
学年主任による叱責は、起こした騒動に釣り合わないほど粗略で、手緩いものだった。
「あまりやってくれんなよ」から始まり、「しばらくはおとなしかったのに」だの、「休学中くらい面倒起こすな」だの、しまいには、「試験前には復学するのか?」なんて、全然関係ない今後の話を持ち出してくる。
「あの、今回の……妹の処分はどうなりますか?」
僕は遮るように質問した。ひのでは一切此方を見ようともせず、黙り込んでいる。
学年主任は頭をかきながら、眉間に皺を寄せた。
「処分って言っても、休学中だしなあ。言うべき事は済んだし。」
「それって、厳重注意……ってことですか?」
「まあ、そうなるな。」
……なんだよ、それ。
「いや……でも、これって中傷ですよ? しかもあんな、全校生徒の前で……。そもそも、こういうことが問題になったからこその、臨時集会だったんじゃないんですか?」
僕は例のコピー用紙を握って、噛み付いた。
「なんだ皆口? おまえそんなに、妹を停学にさせたいのか?」
学年主任は乾いた笑いで茶化してくる。そのあまりにも事態を軽視した態度に、言葉を失った。
「こんなチラシなんて、何の信憑性もないしなあ。仮に処分を下すとするなら、事実関係の確認が必要だ。」
いよいよ、何も言えなくなってしまった。
とんでもない話だ。学校側は、ひのでのばら撒いた星史の秘密を、いたずらなチラシとしか認識していない。よって彼女に下すべき処分は、存在しない。
しかし、仮にひのでに罰を科すとするのなら、星史の秘密を、真実を、公にしなければならない。
僕は、そして星史は、泣き寝入りを強いられるわけだ。
「まあ一応、親御さんには連絡入れたからな。すぐに来るみたいだぞ。」
納得のいかない面持ちの僕に、学年主任は宥めるように言う。
親って……まさか、母親が?
悪寒が走ったと同時に指導室の扉が開く。その瞬間、心臓が混乱した。
衝撃のような。でも、安堵でもあるような。また別の、悪寒のような。
やってきたのは、父さんだった。
「この度は、娘がご迷惑を……」
深々と頭を下げて開口一番に謝罪する。それに対し、学年主任はそこまで深刻でもない口ぶりで、事の経緯を説明した。
「ちなみに、これがひのでさんのばら撒いたチラシでしてね。まあ一応、確認事項なんでお尋ねしますが、そのー、心当たりは?」
説明の最後には形式的に聞く。
コピー用紙を受け取る父さんを、僕は固唾を呑んでみつめた。
「存じ上げませんね。」
顔色一つ変えず、父さんは言い放った。
感情が追いつくより先に、僕の手は父さんの胸ぐらを締め上げていた。
指導室内がどよめく。
「皆口ッ!!」僕を制止する叱咤の声も、聞こえた。
「……旭、」
父さんも、僕のなまえを呼ぶ。
……なんだよ、その顔
ふざけんな
ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな
父に対する怒りがようやく追いつく。
「星史を」、「知らない」? ふざけんな。
行動と感情の順番がめちゃくちゃで、言葉が出ない。ただただ、父を締め上げる腕が、震える。
どの面下げて言ってんだ
この期に及んでおまえは
捨てるというのか?
父への憤りが、自分を予測不能にしてしまう。
我を失った僕の肩を誰かが掴んだ。途端に力強く父から引っぺがされ、僕は床に叩きつけられた。
ひのでが、無表情で僕を見おろしていた。
「おまえ……どういうつもりだよ、」
妹を前に、ようやく声が出た。でも、それだけだった。
僕が妹を睨みつける。妹は僕を見おろす。時間が停止したみたいに、兄妹は見据え合った。ただの一言も、発さず。
こんなことしてくれやがって。母子手帳の存在にいつ気付いた? 盗んだのか? 何の躊躇いも無かったのか? 僕らの母子手帳だって、一緒に保管しておいたはずだ。察しの良いおまえなら、二つの情報から、解ったはずだろ?
星史が、僕らの血縁だって。家族だって。
僕らが、名塚月乃の関係者だって。
それなのに、こんな、陥れるような。
取り返しのつかないことしてくれやがって。
「…………わたしは、」
胸中で怒りを唱える僕を塞き止めるように、ひのでは口を開いた。
「おまえに、モモカを助けてほしかったんだ。」
────この妹は。
怒りと一緒に、唱えた。
この妹は。 この妹が。 この妹め。
そこからは、ほとんど記憶が無い。
妹の顔が思い出せない。あんなに睨んでいたのに。
記憶がほとんど無い。曖昧だ。曖昧に、霞む。
そのくらい感情に支配されていた。僕にしては、たぶん珍しく。
帰宅後、父も、母も、もちろん妹も居ない我が家で一人、頭のなかをを掘り起こした。
ゆっくりと修整するように。すると霞んでいた記憶が、徐々に鮮明になってきた。
誰の目から見ても、あの生徒指導室で異常だったのは、きっと僕のほうだった。
騒ぎを起こした妹の処分に納得いかず、学年主任に噛みつき、迎えに来た父親の胸ぐらを締め上げ、挙句、妹に制御された。
それだけじゃない。
あのあと僕は、怒りの矛先を妹に変えて、彼女にも殴りかかった。
当然、あっさり返り討ちにされた。といっても、妹は殴り返してきたのではなく、難なく身をかわし、見事に僕を捕らえたのだ。背中で両手首を押さえつけられる僕は、それはもう惨めこの上なかった。
そこからは追い討ちをかけるみたいに、もっと惨めだった。
室内に居た教師連中は妹に加勢し、僕は、記憶に新しい暴れた時の雨宮と同じ状況になった。警官隊と通り魔……いや、もっとどうしようもない、警官隊とたちの悪い酔っぱらいだ。
やめろ皆口、おまえこそ停学になりたいのか。
取り押さえられるなかで、教師の一人がそんなことを言ってきた。……マジで酔っぱらいじゃねーか。警官に説教される酔っぱらい。ここで手を出したら、公務執行妨害ってことか。
諦めるように怒りを鎮めた僕は、ぎりぎり許された。
結局父さんに余分な謝罪もさせてしまったし、ひのでとは別件の厳重注意を喰らったので、本当にぎりぎりだった。
ひのでは、厳重注意、か。
生徒指導室での自らの醜態を思い起こすうちに、妹のやらかした取り返しのつかない行動に、怒りが再燃してきた。
この妹は。 この妹が。 この妹め。
きっと今、僕は、彼女が憎い。
それは初めての感情だった。
難しい。もどかしい。やりづらい。手がかかる。手に負えない。とっつき難い。面倒ばかり起こす。心配ばかりかける。目に余る。何においても、勝れない。
暴虐的で幼稚。激情家で傲慢。
溜め息も、頭を抱えることも、劣等感も、いくらだってあった。それでも憎しみだけは、最後の砦の先にあるはずだった。
ひのでは、妹だから。
どんなに問題を起こしても、殴られても蹴られても、僕の妹だから。
妹の危機に手を差し伸べたいと思えた。助けたいと、護りたいと、何とかしたいと、ついには、幼馴染を犠牲にさえしてしまった。
彼女はそれを、すべてひっくり返した。
ぐちゃぐちゃにしやがった。
自分を守った百香を護るために、星史を生贄にした。
僕は、突如として沸いた憎しみに、混乱している。
これまで妹を、本気で憎みきっていなかったこと。
暴力嫌いのくせに、我を失って妹に襲い掛かったこと。
すべての理由が、星史であったこと。
……星史。そう、彼だ。
気付かなかった。思い知らされた。
僕は、今、こんなにも、
彼が……心配、なんだ。────────
コピー用紙が散らばる館内。
騒ぎ立てる声と潜まる声が混ざる喧騒。
大声で制止を計る教師、ひのでを取り押さえる教師。
大混乱となった館内で、僕の世界だけが無音だった。
あの時、あの瞬間、無音の世界で、僕は星史を探した。
生徒たちを掻き分け、普通科の整列する場所を目指した。
星史はすぐ見つかった。
彼のクラスメイトたちは、あからさまに離れるほどではなく、まるで窺うような距離感で、彼を遠巻きにしていた。四方八方から観察されながら、星史は、自身の生年月日と、本当のなまえと、本当の両親が記された紙を手にしたまま、立ち竦んでいた。
「────星史っ……!!」
無我夢中で、彼の手首を掴んだ。
「……逃げよう。」
彼だけに届く声で言う。
透明な笑顔が、ふわりとほころんだ。
「なんで?」
白い白い彼に、目が眩む。
「だいじょぶだよ。旭くん。」
とたんに、無音だった世界が喧騒に変わった。
「ほら、妹さん、連れてかれちゃうよ?」
僕の手からするりと逃げた手で、星史は出入り口を指す。指示されたみたいに、ばかみたいに従順に、僕は妹のほうへ走った。
星史を、置き去りにして。
「あ。おはよ。」
校門で待ち構えていると、目が合うなり星史はいつもの調子で言った。
あ。おはよ。じゃねーよ。僕は騙されなかった。
「なんで出ないんだよ、電話。」
彼はまったく、いつもと同じなんかじゃなかったんだ。
うしろから飛びついてこない。電話にもメールにも反応しない。だからこうやって、校門で待ち伏せした。
「たまには、駆け引きも必要でしょ。」
明るくふざけるしぐさが、取り繕っていることくらい判る。くだける星史を無視して、僕は真面目な顔つきで立ちはだかった。
「……昨日の、ことだけど、」
「ストップ。謝罪とかマジやめてよね、」
あくまでくだけたまま、星史は先手を打ってきた。
「わかってるよ。旭くんは、妹さんがあんなことするなんて、知らなかったんでしょう? それどころか、彼女には手帳の存在も知らせてなかった。大方、妹さんがきみから盗んで、独断で行動した。きみとしては、兄として謝罪しないと気が済まない。無関係だなんて言えない。そういうことでしょ?」
例によって指をすいすい動かしながら、僕の言わんとしていた事柄や思惑を、先に推測してしまう。
「旭くんの気持ちはわかってるつもりだから、安心してよ。」
朗らかな彼が腑に落ちない。むしろ、少しばかり腹が立ってきた。
「安心とかじゃないだろ。それとこれとは別問題だ。」
「俺的にはー、どれもあれも問題ナシなんですけどー。」
「おまえ、事の重大さ解ってんの?」
「わからなくもないけどー。」
「何か手を打ったほうが……」
「あはー。何がどうくるかもわかんないのに、手え打ってもねー。」
鬼気迫る僕と、のらりくらりとあしらう星史。温度差のあるやりとりを交わしていたせいで、僕は、違和感に気づけなかった。
「旭くんにこんなに心配してもらえるなんて、幸せ者だなー、俺。」
ふざけ続ける星史を追ううちに、普通科のロッカーまでついて来てしまった。
「星史、真面目に俺の話を……────」
僕が言うのと同時だった。
星史が開けたロッカーから、悪臭が漂った。腐ったような、なまぐさい、におい。
水浸しだ。
ロッカー内が、もちろん内履きも、びしゃびしゃに濡れている。
それだけじゃない。内履きと一緒に納められていたのは、大量の、金魚の屍骸だった。
星史の表情が止まる。呼吸も、止まる。僕も心臓が止まってしまいそうになった。
互いに身じろぎしながら、視線を合わせた。
星史の表情が、へらっと崩れる。
「はは。こうくるかあ。」
ふざけた笑顔に、騙されるわけには、いかなかった。
そして、ようやく、違和感に気づいた。
今朝は誰一人として、星史に、挨拶を掛けてこなかった、ことに。




