60 『命日』
その日は、彼女が死んだ日。
壮絶な最期だった、と、聞く。
分娩台の上で、ボールペンで喉を一突きにして、息絶えていた。
出産を終えたばかりだった。
命を、生み出したばかりだった。
いとし子を抱いて、すぐだった。
「せいじ、です。『星』に歴史の『史』で、『星史』。」
生前の彼女が最後に遺した言葉だった。
彼女が死んだ日。
そして、彼が産まれた日。
どうして、今日だったのだろう。
どうして、今日、なんだ────────
おめでとうって言ってあげて。
昨夜の、雨宮からのぶっきらぼうな依頼を携えながら、僕は鉛みたいな足で牛みたく通学路を歩いていた。
本日は九月十二日。
なんの面白味もない、盆正月にもイベントともかけ離れたその日付が、あの『かけおち』の夜を思い起こさせる。
“俺の母親は一人だけだよ”
あの夜の、星史のあの言葉に、嘘偽りなんて無かった。
彼にとっての名塚月乃は、『自分を産んだだけの女』だ。彼が親と認識しているのは、高校生の息子が一晩外泊しただけで、渋滞みたいな着信履歴を残すような、おまけに、心配と安堵を右ストレートで表すような、深い愛情を注いでくれる、今の両親だけだ。
でも、彼のなかに名塚月乃が根付いているのも、紛れもない事実だ。
僕が、皆口陽を、『自分を産んだだけの女』だと、切り捨てられないように。
そしてこれは、きっと、すごくすごく、星史には酷な二律背反なことを思うのだけど、彼が僕を探し求めた根本にも、名塚月乃の存在が、あるから。
そんな彼女の、命日。九月十二日。
壮絶な最期だったと聞く。分娩台の上で、助産師から盗んだボールペンで喉を一突きにして、息絶えていた。出産を終えたばかりだった。命を生み出したばかりだった。いとし子を抱いてすぐだった。
“せいじ、です。『星』に歴史の『史』で、『星史』”
生前の彼女が最後に遺した言葉だった。
十七年前の事件を調べた際、ネット上に蔓延る数多の情報を掻き集めて知った、名塚月乃の最期を思い巡らすうちに、いつの間にか眠ってしまったらしく、気づけば今朝を迎えていた次第だ。
九月十二日。今日は、彼女が死んだ日。
そして、彼が産まれた日────
「おっはよー。」
僕のわだかまりを余所に、星史は今朝も代わり映えのない挨拶をしてきた。飛びついてくるように背中を押す、無邪気でやかましい戯れの延長。彼にとって今日という日が、めでたいのか憂鬱なのか判らなくなる。
「連絡、ずっと待ってたんだけどー?」
誕生日なんかよりも、僕が堂々と破った約束について触れ、咎めてくる。悪い悪い、昨日は色々と立て込んでて……。とりあえず素直に謝罪しておいた。
「んー。ま、いいけど。」
ずいぶんと軽く、大目に見てもらえた。
「それより旭くん、昨日の話、なんだけど────」
「星史っ、あのさ、」
祝いの言葉を急ぐあまり彼の話を遮ってしまった。
他人の誕生日におめでとうを言うなんて、永らくやっていない。慣れない祝福に、僕は少々戸惑っていた。
「あの……さ……」
「仲村先輩っ、おめでとうございます!」
突然背後から複数の黄色い声がした。
振り向くと、見知らぬ下級生の女子生徒が三名。うち二人はきゃあきゃあと笑い合ってはしゃぎ、残りの一人は、目に見えてどぎまぎしている。
「って、この子が言ってまーすっ。」
笑い合っている二人が、女子生徒を前に押した。
「あっ……あの、今日……お誕生日……ですよね。お、おめでと……ございます。」
赤面もプラスしてどぎまぎ言う彼女に、後ろの二人が更にきゃあきゅあはしゃぐ。
「うん。ありがと。」
星史は透明感のある笑顔を、ぱっと輝かせた。たったそれだけの短いやりとりが綺麗に終わる。再度歩き始めた僕らの背後では、彼女たちの華やぐ声が、だいぶ遠くなっても響き続けた。
「……知り合い?」
「ううん。知らない子。」
まじか。驚くのも束の間、今度は違う声が飛んできた。
「仲村ー、おめでとー!」
道路を挟んだ駐輪場から、彼のクラスメイトらしき女子生徒が数名、手を振っている。
「ありがとー。今日ジュースおごってー。」
奢らねーよ! 女子生徒たちは笑いながら言い返してきた。
その後も、ずっと同じような場面が続いた。
校門、玄関、階段、廊下……至るところで、星史は祝福を浴び続けた。同級生だったり、下級生だったり、男子だったり女子だったり。時に笑いを交え、時に真面目に、擦れ違う生徒は多種多様なおめでとうを彼に告げる。
完全に機会を失ってしまった。と、言うより、自信を無くしてしまった。
溢れんばかりの祝福の中、僕の「おめでとう」にいかほどの価値があるものなのか。
こんなふうに考えるから、こよなく面倒くさい男なのだと、つくづく思う。
「……星史、」
普通科と特別進学科とが分けられる三階渡り廊下。別れる際の際で、僕はようやく機会を捻じ込んだ。
「ん?」
「その、さ、」
救われるかどうかは、自信無いけれど、僕が振り絞った精一杯の、祝福。
「帰り、送ってこっか?」
バイクのキーを見せながら、ぎこちなく、聞いた。
「────……!!
いいの!!?」
満面の笑みが不意を衝く。大げさで幼い喜びように思い知らされた杞憂は、容赦なく僕を赤面させた。
臨時の全校集会は、大方、百香の報せどおりだった。
校長が壇上に立ち、まずは最近ネット上に、本校及び特定の生徒に関する不名誉な情報が拡散されている件について触れた。続けて、その情報が事実無根であると断言し、昨日、それが発端で学内にて騒動が起きた事を公表した。
関連して、不審な記者も目撃されている事と、犯罪に近しい行為も起きていた事についても、『今後この件に関して首を突っ込めば、進学にも影響する』のだと、半ば脅かすような言及をし、最後は、ネット上におけるマナーやモラルを注意喚起する、という形で、締めくくった。
……これで、ようやく息がつける。
全校生徒が騒めく体育館で、僕はひっそりと安堵した。百香には本当に申し訳ない役を押し付けたけれど、正直、彼女の案に従ったことについては後悔していない。
保身だったのは本音だ。けれど、彼女の案により僕やひので、そして星史に、一片の疑惑も向けられなくて、本当によかった。
先ほどの、星史の満面の笑みが焼きついて離れない。
よかった。本当に、よかった。今日という日に、彼が喜んでくれて。こっちが恥かしくなるくらい、大げさだったけど、それでも、よかった。
九月十二日。今日は、彼が産まれてくれた日────────
──────── かつん かつん かつん ……
館内が静かにどよめいた。
とたんに空気が、変わる。
校長の話が終わり、進行役の委員が礼を言った直後の、短い静寂。
その静寂を最大限に活用して、彼女は現れた。
まだ校長が退席していない壇上に、堂々と上がってゆく。
全校生徒が、彼女に注目する。
なんで、
どうして、おまえが、ここに……?
くすんだ銀髪。えげつないピアス。丈の短いスカートから伸びる、包帯を巻いた長い脚。完成された体つきと、派手な化粧を施した、十五歳。
ひのでだ。
「ねえ、あれって……」
「皆口……ひので?」
「一年の?」
「髪、短くなってない?」
「たしか停学中じゃ……」
「いや、休学って聞いたけど……」
突然壇上に現れた一学年の問題児に、ひそひそと声が飛び交う。
壇上に残されたままの校長も、他の教員たちも、驚愕のあまり立ち竦んでいる。
その場の視線がすべて、彼女に集う。
僕は何が何だかわからなかった。
壇上にいる自分の妹を、全校生徒に溶け込んで目で追う。硬直したまま、妹を眺める。
ひのでは休学中にも関わらず制服姿で、腕には何やら紙の束を抱えていた。コピー用紙のようだが、目算でも数百枚とありそうだ。
全校の視線を一身に受けながら壇上の前に立ったひのでは、有無も言わずステージ上から、抱えていた紙の束をばら撒いた。
大量のコピー用紙を、何度も何度も、四方八方に、まるで号外のように投げ撒いてゆく。
館内中に散らばるコピー用紙に、今度はわかりやすいどよめきが起きた。
なになに!?
何あれ?
なにか書いてあんの?
うしろに回してー!
こっちも!
みせてみせて
生徒も教師も、あわただしくコピー用紙を拾いだした。
周りより一歩遅れて、僕も一枚、コピー用紙を拾った。
喧騒のなか、ひのでが壇上のマイクを手にする。
「……特別進学科二年、桂木百香は、名塚月乃とは無関係だ。」
スピーカー越しに妹の声が響き渡る。
次の瞬間、館内が、また違うどよめきで満ちる。
僕も、どよめきの一部と化した。
「名塚月乃の、本当の、子どもは、────」
コピー用紙に印刷されていたのは、見覚えのある母子手帳の、表紙。
《愛媛県今播市 母子健康手帳
保護者の氏名:名塚 暁
:名塚 月乃》
「──── 普通科二年、仲村星史だ。」
《子の氏名 名塚 星史
生年月日:平成×年9月12日》
妹の声が響き、館内が騒ぎ出す。
教師たちが壇上へ駆け上がる。ひのでを無理やり壇上から降ろしている。
そんな光景が、無音の世界で拡がった。
立ち尽くす僕の、頭んなかは、無音だった。
────今日は、九月十二日。
コピー用紙に印刷されている母子手帳と、同じ、日付。
彼が、産まれた日。
そして、彼女が死んだ日。
名塚月乃の、命日────
…………どうして
どうして 今日 なんだ
ひので……────
コピー用紙が散らばる館内。騒ぎ立てる声と潜まる声が、混ざる喧騒。大声で制止を計る教師、ひのでを取り押さえる教師。僕は無音の世界で、星史を探した。




