05 『優等生』
週が明けて、僕にとって二つの朗報があった。
一つは、雨宮の手首から包帯が消えたこと。
相変わらず目も合わせてくれないし、明らかに避けられてはいるけれど、完治が判っただけでも御の字だ。
もう一つは、学力診断の順位表が撤去されたこと。
これに関連して、ほんの少しの後談がある。
妹の名前が消えた掲示板に胸を撫で下ろしたのも束の間、以前あの順位表の前で出逢った彼に、また心臓をいじられる事態となったのだ。。
「隣、いい?」
ごく自然に、さも親しい間柄のように仲村星史があの人懐こい笑顔を向けてきたのは、昼休み。屋上での出来事だった。
今日は、母さんの気合が入った弁当を見られたくなくて、教室も食堂も避けて屋上へ逃げてきたのに、まるで待ち伏せていたのではないかと疑うくらいの登場の仕方だった。
僕の返答も待たずに仲村は腰をおろした。
「今日さー、弁当恥ずかしいから食堂行けないんだよね。」
まさかの屋上に来た経緯が同じである。愛想笑いをしてやろうかと思ったけれど、彼の弁当箱から現れたドラえもんと目が合った瞬間、本気で吹き出してしまった。男子高校生がキャラ弁って。
「ひどいよね、これ。親の悪ふざけだよ。人前で食べれないっての。」
「いや俺も人前だけど、」
「あはー。残念ながらノーカン。」
軽い口調だが、ばかにされている感じはしない。馴れ馴れしいくせに相手を不快にさせないから、こいつには人が集まるんだなと納得した。
仲村は弁当とは別にコンビニ袋も持参していて、そこから更に驚くものを取り出した。カフェオレだ。飲みきりサイズのパックではなくて、家庭用サイズの1リットルのパックにストローを挿している。
「弁当よりそっちのがやばいだろ、」
またつい笑ってしまった。
「超好きなんだってばこれ。世界で一番おいしい飲み物だって思ってるよ。もしさ、水以外で一生一種類しか飲めない水分選ぶとしたら、間違いなくこれにするから。」
「突っ込み所が多すぎるって。」
「皆口くんのお昼も大概だよ? 超可愛くない? それ。」
しまった。話に気を取られていた。隙だらけになっていた僕の手元からは、星型、ハート型、ヒヨコ型に模られたサンドイッチが丸見えで、慌てて隠そうにももう遅い。
「……母親が勝手にやってんだよ。」
「親には苦労するよねー、お互い。」
とたんに、喉がすっと軽くなった。
共通点がどうのとかじゃなくて、久しぶりに、会話、をした気になれた。他人と関わるのがこんなに楽だなんて。
「皆口くんってさー、どうして部活しないの?」
食べながら、なんてことない話が続いた。
「勉強ついていけなくなるし。」
「あーわかるかも。俺も両立とか絶対無理。」
「学年トップが言っても説得力ねーな。」
「いやいや結構ガリ勉だよ? 俺。プライベートは寂しいのなんのって。」
「俺も大差ないよ。地味に生きてる。」
「いきてる、って。あはーうける。」
僕の言い回しを真似て仲村は笑った。
「でもさ、皆口くん彼女いるでしょ?」
笑った後に、仲村は突然聞いてきた。
「? いないけど、」
「金曜に明治神宮前いなかった? 駅。女の子と一緒だったじゃん、」
うちの制服だったから、彼女だと思っちゃったよ。仲村がそう付け加えたところで、一つ心当たりが浮かんだ。
百香か。
百香をそんなふうに扱ったことなんて一度も無いけれど、周りからはそう捉えられている事実に、げんなりした。
「あれが彼女とかありえないって。小中と同じだから馴れ馴れしいんだよ。」
「へえ、幼馴染ってやつだ。」
「母親同士が仲良いだけだよ。」
「すごい。本格的。」
なんだよ本格的って。また軽く笑い合ったところで、チャイムが鳴った。
やばい、次体育だったんだ、と、仲村は弁当箱を袋に押し込んだ。特大のカフェオレから飛び出たストローを咥えたまま、ごめん、またね。と退散する。
優等生の肩書きを忘れさせる滑稽な去り際に、僕は一人になってからも小さく吹き出した。
会話ができたな。
屋上で一人、ぼんやり考えた。
他人と話す行為というのは、多かれ少なかれ自分を削る。
あたり障りない言葉を選び、雰囲気を守り、時々小さな嘘をつき、常に顔色を窺う。
他人と関わるのだから当然っちゃ当然だけど、僕が関わらざるを得ない他人たちは、それでも割に合わない相手ばかりだ。
母さんだったり、ひのでだったり、身内相手に僕の削られる部分は、ぶ厚い。
「旭、今日暇でしょ?」
終礼が済んですぐ、百香は寄ってきた。
こいつもまた、僕を厚く削る人間の一人だ。
「帰ったらさ、久しぶりにバイク乗せてほしいな。」
いくつになっても、僕相手ならこういう態度が許される前提で接してくる。
「無理。メット持ってきてないだろ、」
「平気ヘーキ。百香のやつ、ひのでの部屋に置きっぱだもん。」
仲村の勘違いの件も重なり、いつも以上に彼女が煩わしく感じた。
「……そうじゃなくて、無理。忙しい。」
「なんで?」
なんでってなんだよ。
「勉強して帰るから、」
適当に嘘をついた。
「……旭、怒ってる?」
どうしてそうなるんだよ。今関係ないだろ。
「別に。」
「なんか冷たいもん。」
うっとうしくて怒鳴ってやりたかったけれど、クラスメイトの目もあったので堪えた。これ以上、百香との関係性を露見したくなかったのもある。
言い返してこない僕に何かを察したのか、百香は「ごめん」と言い残し、何事もなかったかのように、女友達に明るく声をかけて教室から出て行った。
厄介な女だ。本当に。
勝手にずかずか上がりこんだ挙句、自己嫌悪に陥れて去ってゆく。満足に嘘もつかせてくれない。
僕は片付けたばかりの教科書とノートを取り出して、予定してなかった質問をするために、職員室へと向かった。
珍しいこともあるなと、教師は大幅に時間をとってくれた。
ありがた迷惑でしかないが自分から質問した手前、みっちりと復習する羽目となり、帰り支度をするころには、殆どの教室から灯かりが消えていた。廊下も最低限の電灯を残して、暗く静まりかえっている。
こんな時間になったのも全部百香のせいだ。もう、しばらくはバイク乗せてやるもんか、絶対。
大人げなく根に持ちながら、物寂しい校舎を歩いた。
足早に玄関へ向かう途中、中庭を挟んだ反対側の廊下で、同じく小走りで駆けてゆく生徒をみつけた。
ゆれる三つ編みに、近しい記憶が蘇る。
……雨宮だ。
どことなく鬼気迫るその姿を目で追っていると、彼女は周囲を警戒しながら、視聴覚室の扉を開け、身を隠すように閉じた。
しんと鎖された扉を眺めるうちに、僕の足は自然と、視聴覚室へと向かっていた。
足音と気配を殺して、辿りつく。雨宮が潜んでから数分と経っていないはずだ。
僕はまず、息を止めて扉に耳をあてた。
「……、……、」
声のような音がするけれど、よく聞き取れない。悪趣味だと自覚しつつも僅かに扉を開き、隙間からなかを覗いた。
視聴覚室は照明こそ落としているものの、窓を射す月明かりで鈍く薄明るい。暗闇と呼ぶには曖昧だ。
雨宮は、一人じゃなかった。
彼女と距離を取った正面にもう一人……誰かいる。
「…………?」
月明かりが届かない位置のせいで、ここからでは相手の顔が窺えない。雨宮は何か遠慮しているのか、おずおずと俯き加減で対面している。
……誰だ? 教師? クラスの誰か? ……いや、こんな時間に……それにあいつ、交友関係皆無だし…………
僕は正体不明の人影に目を凝らしながら、当てにならない可能性を巡らせていた。
────……次の瞬間、
「……!!?」
人影は急に雨宮との距離を詰め手首を掴むと、彼女を乱暴に床へと叩きつけた。
倒れ伏せた彼女の腕を、無慈悲に踏み躙る。
「つけあがんなよ、肥溜めが。」
辛辣に言い放つ声が、僕に、もっと近しい記憶を呼び起こさせる。
心臓が潰れて喉がつまる。別人なんかじゃない。
曖昧な暗闇、窓を射す頼りない光は、
仲村星史の姿を照らしていた。