56 『麻痺』
どういうことなんだ? 何が起こっているんだ?
どうして百香が、名塚月乃の子として拡散されている?
画面上の、隠し撮りらしき百香の姿に混乱した。身体は強制停止状態なのに脳内はぐちゃぐちゃにごった返してしまう。
どういうことなんだ。何が起こっているんだ。
ひのでと行動を共にしていたことで、見誤られたのか?
それとも、これがひのでへの真の報復なのか?
この画像は一体? 盗撮じゃないか……こんなの。
誰が、一体、なんのために……
静寂に充ちた教室内では、軽蔑と、疑惑と、畏怖が、混雑する。その三つの負は一つの塊となって、百香に襲いかかる。僕なんて、まるで、無視して。
百香じゃ……ない。……僕なんだ。
……その塊に、押し潰されるべきなのは……!
ぐちゃぐちゃな脳内をまっさらにして、僕はその主張を選んだ。声に、声にしなくては。今すぐ。それを告げればこんな誤報、無価値だ。百香への疑念も晴れる。
今すぐこれは間違いだと正さなくては。
「こ────」
「やだーっ、なにこれえ? 百香、超有名人じゃん!」
僕が声を出す寸前で、百香が明るい声をあげた。
教室中がどよめく。
「ないない、ありえないよー。ネットこわっ。ていうか、どーせならもっと可愛い写真使ってほしかったなあ。」
張り詰めた空気など物ともせず、百香は朗らかに振る舞い、笑顔で否定した。
「じゃ、じゃあ、デマ……なんだな?」
男子生徒のほうが物怖じして、再度尋ねる。
「当然でしょ。百香、この人の子だったら、もっと美人なはずだもん。」
「そ、そうか……」
悪かったな、と苦笑を添えて、男子生徒は百香から離れた。
「っていうか、これ普通に名誉毀損だよねー。超困る。このサイトの管理人さんに問い合わせれば、削除してくれるのかなあ? ちょっと先生に相談してくるね。」
淀んだままの教室で始終にこにこしながら、百香は出て行った。退室する直後、一瞬だけ無表情になった彼女と目が合った。
無言の威圧だった。
『何も言うな』……百香は確かに、それを訴えかけてきた。
「なにあれ。超わざとらしくない?」
百香が去ってから誰かが呟いた。皮切れに、続々と負の言葉が飛び交う。
なんか怖い あたしも よくあんなへらへらできるよね 逆に怪しいし 前から思ってたけどあの子ってちょっと ねー わかる プロなんでしょ調べてるの ネットもばかにできないよ 火の無い所にって言うし やばいやばい なんで笑ってんの まともじゃないじゃん 怖い怖い怖い
「人生終わりでしょ、人殺しの身内とか。」
僕も教室を飛び出した。
正確には、逃げた。
本当ならここで一喝して、幼馴染の無罪を、誤った情報を、主張すべきだったのに、逃げた。逃げるしかなかった。
もしかしたら、一つ間違えれば、歯車が狂っていなかったら、自分に浴びせられていたかもしれない言葉の数々に、恐怖して逃げた。
「皆口くんっ! 関わらないほうがいいって!」
クラスメイトの助言が聞こえたけれどそれどころじゃなかった。
百香を追うふりをして、とにかく逃げた。
「百香っ、」
非常階段でようやく彼女に追いついた。お互い、息を切らして汗だくになっている。嫌な汗だ。
「なん……だよ、あれ。どういう、つもり……だよ、」
呼吸が整うよりも先に、僕は詰め寄った。
「今なら、まだ、誤解、とけるから……戻るぞ。俺も、ちゃんと、説明する、」
うまく息が出来るようになってきて、頭も冷静になってきた。百香に着せられた濡れ衣をなんとかするには、やはりあの場で僕が、真実の関係者であると公表するしかない。証拠品として、母子手帳という最終兵器だってある。
「絶対だめ。」
僕の捨て身の訴えを百香は一蹴した。それどころか、続けさまに耳を疑うようなことを言ってくる。
「……糸子ちゃん、まだ来てなかったよね? 旭、お願い。糸子ちゃんを、百香に近づけないようにして。……それと、旭も、もう教室では百香に話しかけちゃだめ。一緒にいると何言われるかわかんないよ。」
この期に及んで何を言ってるんだこいつは。長年の付き合いであるはずの幼馴染が、理解し難い。わかってはいるんだ。百香は、優しい女だ。お節介が過ぎるほどに。
すぐに僕の心配をする。いつも僕を守る。……でも、だからって、こんなの、
「……ふざけんな。」
心の底から言えた。百香の優しさはお節介の域を超えている。
無実の彼女を生贄にして、このまま順風満帆に高校生活を送れるほど図太くなれるわけがない。しかもそれが、彼女の善意のうえに成り立つなんて、まっぴらだ。またそうやって善意で僕を殺すつもりなのか。後ろめたさなんかよりも、怒りに似た感情が声になった。
「ふざけてるのは旭のほうだよ。」
感情むき出しの僕に対して、百香は至って冷静に、また一蹴してきた。
「おちついて、よく考えて、旭。」
思わぬ返しにたじろぐ僕を、百香は宥めるように諭しだした。
「百香に掛けられてる疑いは、結局、ただの誤報なの。……これって、逆にすごいチャンスなんだよ? 誰がどんなに調べても、絶対に真実なんて出てこない。だからマスコミだって動けないし、週刊誌に取り上げられることだって、絶対に無い。」
百香は淡々と続けた。
「でも、旭は事実なの。名塚月乃が、本当に絡んでるの。メディアやマスコミが動けば、あっという間にいろんなことが明るみになる。……言ってる意味、わかるよね?」
……わかりたくなんかないのに、わかってしまう。彼女のいうことは、全部正論だ。すべて現実だ。淡々と、優しく、宥めるように、残酷な現実を叩きつけてくる。
「旭の言動一つで、ひのでも……仲村くんも、最悪の事態になり得るんだよ?」
僕が置かされた立場から、百香は逃がしてはくれなかった。
「いい旭? 今は、くだらないプライドなんて捨てて。きついこというけど、旭に百香は守れないの。でも……ひのでと仲村くんのことなら、守れる。旭がこの件に関して、事なかれに徹すれば、あの二人だけは旭にも守ることができるんだよ?」
そこからの僕ときたら、もう情けないことこの上なかった。反論なんてできやしない。更なる案出などあるわけもない。百香への、配慮の言葉さえ、みつけられない。
絶望する。なさけない。どうしてこんなに、出来損ないなんだ。
「百香なら、だいじょぶだよ。」
立ち尽くすだけの僕に、百香はまた、麻酔薬のような「だいじょぶ」を投じる。
「影響があるのなんて学内までだろうし、平気ヘーキ。もし何かされても、堂々と訴えられるし! 出るとこ出てやるんだから!」
だから、だいじょぶ。
百香はふたつの拳をきゅっと作って、僕を麻痺させた。出来損ないのままでいいのだと、思わせるように、僕は黙って、絶望して、従った。
妹と星史のせいにするつもりはない。でも、秤にはかけてしまった。
僕は自分と、妹と、星史を守るために、無実の幼馴染を犠牲にするのを選んだ。百香にそうしろと言われたから? 違う。僕が自分で決めたんだ。
怖かった。クラスメイトの百香に対する視線や言葉が、自分に向けられるのが。世間がまた、名塚月乃に注目するのが。十七年前の事件を、掘り起こされるのが。
僕とひので、そして星史が、可哀想な子どもだと、憐れみや、好奇や、畏怖の目に、曝されるのが。




