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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第九章】 月の枷
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54  『母子』




「母さん。」


 ただいまを省いて呼びかけると、母は腕あたりをぴくりと身じろがせて顔を向けた。


「もう、びっくりさせないで。」

 眉を八の字にして迎え入れる。そして鼻歌まじりに、食器洗いを再開した。

 別に驚かせるようなことしてないんだけどな。こういう所で、親子間に再び生じたしこりを痛感する。ついでに、取り繕った平穏にも。しかし今言及するのは、勿体ないのでやめた。時間が勿体ない。


「うちの学校にさ、記者が嗅ぎ回ってるんだ。……名塚(なづか)月乃(つきの)の件で。」


 単刀直入に言った。

 流しっぱなしの水道水の中で、母の手が止まる。


「それで、……一部の人間に、ひのでが、特定されている。」


 彼女には酷だと理解したまま、僕は続けた。

 クラス内で、名塚月乃について聞き込まれた生徒がいる事実。ネット上で、名塚月乃の親族とされる()()()()の通う学校が、ほぼ名指しで曝されている現状。ひのでが『娘』とされている誤報。包み隠さず、すべて話した。


「幸い……っていうのも薄情だけど、俺に関する情報は、まだ一切触れられてない。でも、ひのでは、もしかしたら、近いうち……」

 酷だろうと、非情だろうと、今は時間が惜しかった。

「しばらく、休学、させたらどうかな。」

 妹のために。


 説明が済むと、母は一息置くようにゆっくりと蛇口をさげた。止め処なく流れていた水道水が、あっけなく止まる。

 顔を上げた母の視線に、息を飲む。



「そうね。お母さんも、賛成。」



 虚を衝かれて、返事を見失った。今の今まで非情に徹していた僕が、滑稽に面食らう。

 正直、覚悟していたんだ。

 母のことだ。取り乱して、動揺して、うろたえて、泣いたり騒いだり、饒舌に支離滅裂を並べたり……。そんな覚悟をした上で、必要ならば叱咤も構えていたというのに。

 母は余裕たっぷりに賛同してきた。


「えらく……おちついてるね、」

 思わず言ってしまう。

「動揺してるわよ、ちゃんと。」

 母はとてもそうとは思えない口ぶりで、一応なことを言う。


「動揺、するわよ。ひのでは……子どもは、大切だもの。……たぶん、なんていうか、もう、一周しちゃってるのかも、しれないわ。」


「一周?」

「ええ。この前のことから、一周。」

 あの、明け方の一悶着にもさらりと触れて、母はこれまた余裕たっぷりに、タオルで手をぬぐった。


「いつの間にか旭に、色々ばれてて、しかも今さら、月乃ちゃんの件が出てきて。一周して、むしろ、ああ、そうくるかあって感じ。」


 ふうっと浅く溜め息を落とす母の表情は、父さんのあの、降参みたいな顔にどこか通ずるものがあった。


「旭の口から、月乃ちゃんの名前聞くのが変な感じ、っていうのも、あるかしら。」

 母の余裕が本物だと思う一方、母のいう動揺も嘘じゃないように見えた。そんな憶測だらけの母が、生まれて初めて好意的に映った。


 このどこか諦めた、よくいえば達観した、皆口(みなぐち)(あきら)らしくない母が、嫌じゃない。


「それじゃあ善は急げね。ひのでは、お母さんが連れて行く。」

「連れて行く? ……って?」

「いい機会だから話しておくわ、」


 彼女らしさを捨てきった母は、今までにないテンポで会話を繋げるもんなので、その不慣れなやりとりに少々手こずった。

 母は水仕事の手を止め、その場に立ったまま、流し台に手を置いた楽な姿勢で微笑む。



「お母さん……ううん、あたしね、旭の言うとおり、勝手に幸せになろうと思うの。」



 そして誇らしげに宣言した。誇りと降参が共存した、ふっきれた顔。

 そのまっさらな声に、耳を傾けた。


「まずはこの家を出るわ。()と、暮らそうと思ってる。そしてそれに、あなたたちを巻き込まない。」

 宣言は続いた。声は小気味よく僕へ注がれてゆく。


「でもね、母親はやめないわ。」


 母の宣言を要約すると、次のようなものであった。


 まず大前提として、新生活についてくるのも、ついてこないのも、子供(ぼくら)の勝手。

 ついてくる場合、新生活先の家にはそれぞれ、私室を設ける。学校も、今までどおり通えるようにする。

 ついてこない場合は、食費・公共料金・スマホ代・小遣い・その他生活費を毎月振り込む。

 定期的に掃除洗濯に帰ってくる。場合によっては夕飯も作りにくる。

 月に一度、必ず親子面会の日を設ける。(家で偶々顔を合わせるのはノーカウントとする。)

 以上のことは、僕と妹が拒絶しようと正当な理由が無い限り、成人するまでやめない。

 そして、たとえ僕と妹が反対しようと、絶対に再婚する。

 この家を出て、新しい家族と暮らす。

 さいごに、もし名塚月乃の件で、(ぼく)にまで()()が及ぶようであれば、問答無用で新居に連れてゆく。



「だからとりあえずはね、避難ってかたちで、ひのでを連れて行こうと思うの。ほとぼりが冷めたら、ひのでにはまた選び直してもらう。それでどうかしら?」


 宣言の終わりに、それを踏まえての、ひのでの匿い方を母は提案してきた。



 僕はもう、笑うしかなかった。



「どうって……」


 腹の底から、この、ばかばかしい、自分勝手で一方的な愛情を、



「最高でしかないよ。」



 ふっきれた母さんを敬愛して笑うしかなかった。

 愛されるだけの、息子として。








 身勝手な息子だ、僕は。

 十七年間、母親からの依存に辟易していたはずだった。それがひょんなことから距離ができて、憂鬱に感じた。ところが、母から再婚の意を打ち明けられれば、今度は呆れと怒りに任せて感情を爆発させた。そして此度、ふっきれた彼女に、生まれて初めて好感が持てたと同時に、なぜか合点のいかない自分がいる。


「女ってわかんねー……」

「あのね、単純にね、旭がすっごく、すっごく、こよなーく面倒くさい男ってだけだと思う。」


 ぼやく僕に百香は目を据わらせた。言葉の区切りに頷きを入れながら、特に「こよなく」を強調して、言い切ってくる。


「話し聞く限り好条件でしかないのに、まだ文句言うとか、息子様もいいとこじゃない?」


 百香のいうことは一理どころか真理だ。しかし反論する僕もまた、間違ってはいない。

 文句とかじゃないんだ。ただ、僕はあの母親(ひと)の弱い性分を誰よりも見てきて、誰よりも被害をこうむって、誰よりも理解していたつもりだったから、あんなふうに気丈になれる母に、まだ現実感が持てない。


「……わかんねー、女って。」

 切り替え早えよ。ほんと。嘆く反面、新たな一歩を踏み出せた母が、正直羨ましくもあった。勿論そこが、好意的になれた理由の一つなわけだし。


「女は上書き保存、男は別フォルダに保存、って言うよね。恋愛において。」

 恋愛って……。今度は僕が目を据わらせる。

「恋愛みたいなもんでしょ、子育てなんて。」

 高二の小娘が何を知った口叩くんだ。物言いたげな僕の視線を真っ向から受け止めたまま、百香は人差し指を立てた。


「誰よりも愛情注ぐのに、報われないこと多いだろうし、理想だけはたっぷりなのに、絶対思いどおりになんていかないだろうし、どんなにバカでも手がかかっても、結局可愛いし。旭が大変だった以上に、おばさんもおばさんなりに、駆け引きしてたんじゃないの? きっと。」


 散々言いたい放題の終わりに百香は、

「ま、旭はもう上書きされたんだよ。過去のオトコ過去のオトコ。」

 と、肩を叩いてきた。



「上書き、されたのか……」

「そうそう。だからもうママ離れしなよ、おにいちゃん。高校生で一人暮らしなんて、ドラマや漫画だけの世界だよ? 超贅沢。」

 ママ離れ、という腹の立つワードはともかく、彼女の言うとおり、今夜から贅沢な生活のスタートだ。


 贅沢で、少し不安な、これもきっと新しい、日常。

 この日常に辿りつくのは、もの凄く早かった。それはもう、目まぐるしいほどに。

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