52 『崩壊』
ひのでは被害届を出さなかった。
妹なりに、百香の身を案じての判断だったのだと思う。
その件で母が久々に妹を叱った。泣き崩れるでも発狂するでも取り乱すのでもなく、叱った。
頑なに被害届を拒む妹に対する、母の言い分を要約するとしたら、「お願いだから、もっと自分を大事にしてちょうだい。」これに尽きる。
これ以上何かあったらどうするの? 次はもっと取り返しのつかない目に遭うかもしれないのよ? どうして、確証の無い心配はするのに、自分を蔑ろにするの?
珍しく母親としての責務を果たす母の言葉を、妹も娘の責務のつもりなのか、黙って聞いていた。そしてきちんと説教を受けた終わりに一言、「ごめんなさい」を告げた。
そのたった一言で、軍配はひのでに上がった。母は最後に、「今後は晩くに出歩かないこと」と釘を刺し、被害届の件を終わらせた。
正直なところ、今回ばかりは僕も母に賛同していた。その反面、今後に関しては警察に頼っても無意味だと、諦めていた。
『僕と妹は犯罪者、名塚月乃の親族です。その件で脅されています。幼馴染にも危害が及ぶかもしれません。何かある前に助けてください』
そんなこと懇願できるか。
したところで、救済なんかあるもんか。
今はただ、出来る限りの防衛に努めるしかなかった。百香とひのでには、外出を控えさせる。極力、一人で出歩かせない。ひと気の少ない場所は避けさせる。門限を設ける。残り短い夏休みを無事終えるためには、それくらいしかできなかった。
百香の存在もあってか、ひのではすんなり応じてくれたので、それだけが救いだった。
そして、名塚月乃の件についてはまだ、妹には伏せておいた。
母にも、『仲村星史』の存在を、伏せた。
どちらにしろひのでの一件で、息子との悶着が曖昧になってしまったのだ。母も母で思う所があるのか、あの明け方の諍いには全く触れず、僕らはいつもの母子に戻った。
どこか、しこりのある、平穏な、母子に。
今は、色々と、同時に起こりすぎだ。
両親の離婚。母の再婚。皆口家の過去。名塚月乃の存在。仲村星史の正体。百香とひのでの危機。
どうして物事はこうも一斉に押し寄せるのか。整いすぎて物憂かった日常が、いつの間にか所々剥がれている。また罅が入ってしまうのも、時間の問題なのかもしれない。
そんな心配とは裏腹に、残り短い夏休みが平和裏に過ぎ、不安視していた事柄も何一つ起きないまま、気づけば9月1日、始業式を控える朝を迎えていた。
一時の平穏に浸れた安心感からか、僕にはこの短い懸念の日々を、振り返られる余裕が生まれていた。
このたった数日間、幼馴染と妹のためだけに過ごした。
そしてその間一度も、星史にも、雨宮にも会えなかった。会わなかった。
連絡さえしなかった。来なかった。
仮に会ったところでどうすればよかったのだろう。
震えながら真実を告げてきた雨宮の感触が、ぬけない。
取り繕った笑顔で、泣きそうになりながら強がる星史が、きえない。
……ひのでを護らなければと、迷いは無かった。
……百香の存在が拠り所なのだと、もう否定ができなくなっている。
僕は雨宮に、星史に、どんな顔をしよう? 何を話そう?
次はどんな、皆口旭として接すればいい?
始業式を控える9月1日の朝を、悶々と歩く。
こんなにも憂鬱な登校はいつぶりだろう。学校に対しての憂いなんて、しばらく皆無だったはずなのに……
溜め息をついたその直後、飛びつかれるように背中を押された。
隙だらけの背に受けた攻撃は、戯れの延長としては必要以上に僕をよろけさせた。
「おっはよー! ……って、ひ弱すぎじゃない?」
それどころか表情まで滑稽に硬直させる。
『かけおち』前となんら変わらない、いつもの彼のまま、星史は現れた。
「へんな顔~。」
あの時と同じ台詞を放ちながら、あの時とは比べ物にならない本物の笑顔で、指さしてくる。
「あ。そうそう、変な顔で思い出したんだけど、」
まだ反応に窮している僕なんかお構いなしに、星史は「みてみて」と、肩を組みながらスマホを見せてきた。その画面を目にした刹那、僕も本気で吹きだした。
星史の自撮り画像だ。キメ顔で、目の辺りにピースサインを添えたその顔は、頬が目に判るほど腫れあがっている。
「予告どおり、母親から右ストレート頂きました。」
芝居がかった口上で、あの『かけおち』の結末を報告してきた。
僕はもう一度、大きく吹きだす。
「怖すぎだろ、仲村りた。」
「なに他人の母親呼び捨てにしてんだよー。」
「他人じゃねーだろ。」
「おっと。そこはトップシークレットでしょ。」
「あ。そういう方向でいく?」
「そうしとこ、とりあえず。」
なんなんだよこいつ。これでもかってくらい、無垢で、むかつく。
むかつくくらい、真っ白に笑いやがる。
『かけおち』を取るに足らない、夏休みの思い出に昇華できた僕らは、そこからどうでもいいテレビの話題で盛り上がりながら、校門をくぐった。
今は、色々と、同時に起こりすぎている。
でも、日常はまだ、剥がれちゃいない。
「皆口、」
僕と星史だけでなく、彼女だって、そうだ。
「……おはよ。」
変な間を挟んでしまったのは、初めての、彼女からの挨拶だけが原因じゃない。
「お、……はよ。」
「なんつー顔してんのよ。」
目に懐かしい、眼鏡、三つ編み、制服の組み合わせ。どこか辛辣で、そっけない口ぶり。映写室だけでしか会えなかった雨宮が、夏休み明けの教室に現れた。
「……。」
「……。」
「あさひー、糸子ちゃーん、おはよー。……あれっ? 糸子ちゃん!?」
見詰め合うほど情緒的でなく、睨み合うほど敵対心も無い、もどかしい僕らなんて気にもとめず乱入してきた百香は、これまた空気を読まず真っ先に、退化した雨宮について声をあげた。
僕らの日常は、そんなにやわじゃない。
期待と希望が、確信に変わる気がした。
そうだ。この日常を作り上げたのは、あの仲村星史と雨宮糸子なんだ。僕を散々振り回した、異端。一筋縄ではいかない彼らが、そうそう壊れるものか。
今の僕の毎日は、僕だけのものじゃない。
期待、してもいいのだろうか。希望を持っても、いいのだろうか。確信を信じても、許されるのだろうか。
ゆるされたい。
どうか、今だけは。
今だけ 今だけでいいんだ
わかっている
自分のしたこと
してはいけなかったこと
触れてはいけなかったもの
越えてはいけなかったもの
傷つけてはいけなかったもの
考えなければいけなかったこと
向き合わなければいけなかったこと
忘れてはいけなかったこと
ぜんぶ 全部わかっている
それでも どうか 今だけは
神さま おねがいだ
今だけ 子どものしたことだと わらってくれ
星史のことも 雨宮のことも ひのでのことも
ぼくのことも
ゆるしてくれ
「誰かこん中でさぁ、ナヅカツキノって知ってる奴、いるー?」
始業式を控えた、9月1日のホームルーム前。
誰のものか判らないクラスメイトの声が、僕を貫いた。
日常はとっくにぶち壊れているのだと、
僕たちは赦されないのだと、ぼろぼろの日常が、笑った。




