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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第九章】 月の枷
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51  『報復』




 朝焼けがうるさい。

 どんなに走っても空から逃げられるわけないのに、無我夢中でアクセルを踏んだ。ハンドルを切った。真っ赤な空は、『追いかける』なんて生易しいもんじゃなく、惨めに逃げる僕を眺めるように包む。勝算の無い逃走に僕は必死だった。


 玄関に飛び込むと、逃げ切れたと思えた。息を切らしながら階段を上る。躊躇いなんて余裕も捨てて、彼女の部屋の扉を開ける。



「………ひので……っ」



 妹はいた。

 香水のにおいが満ちた部屋で、窓から照らす赤にまみれながら、僕と同じように息を切らしていた。座り込んでおさえる脚が真っ赤に染まっている。血だ。


「なん……だよ、それ……」


 苦痛に顔を歪ませる妹の惨状にそんな言葉しか発せなかった。歩み寄っても、妹は逃げようとしない。いや、動けないんだ。何かで刺されたのか、脚を染め上げる流血が痛々しい。

 僅かな冷静を取り戻しところで、やっと、「救急車……!」だと慌ててスマホを取り出す。

 その即座、妹は震える僕の手首を掴んで妨害した。


「……た……けて、」


 予測不能な行動に屈してしまい妹の声が聞き取れない。

 ……なんだよ、どうしたってんだよ。おだやかに聞き直すことさえできず、声を震わせた。

 妹がきれぎれの呼吸を整える。僕の手首を掴んだまま、充血した目を力強く向けた。



「モモカちゃんを、たすけて、」



 真っ赤な目も、真っ赤な血も、この空の前では非力すぎた。


 朝焼けが、うるさい。










 “モモカちゃんを助けて。”


 電話口で、ひのでは同じ言葉を吐いていた。着信を取るなり放った悲痛な声だった。


「あさひ、モモカちゃんを、助けて、」


 声音が、息遣いが、そして彼女にはありえない(ぼく)への懇願が、事態が只事ではないのだと知らしめる。なんだよ、おい。今どこにいるんだよ。僕はひたすらに声を荒げた。

「………。」

 声だけだった向こう側から、声さえ戻ってこなくなった。でも妹の気配はまだある。気配を残したまま、通話は一方的に切られた。



「どうしたの?」

 星史が、黙り込む僕の顔を覗く。


「……帰らなきゃ。」

 無意識に声がこぼれた。


 ひのでに何があったかなんて知らないけれど、ひのでがどこにいるのかもわからないけれど、今すぐ家に戻らなくてはと、身体がざわついた。


「妹に、何か、あったんだ。たぶん……。様子……おかしくて。なんか、苦しそう、で。百香(ももか)を、助けてくれって、それだけ、言って、電話切られて、」


 真っ白になった頭で帰り支度を始めた。スマホやバイクのキーをポケットに突っ込むだけの動作が、効率よくいかない。自分だけでいっぱいになっていた僕には、他に気を配る余裕なんて無かった。



「それって……誰のため?」



 問いかけられてようやく、彼に気づいた。


 星史がまっすぐ見据えている。うろたえる僕とは正反対に、身じろぎ一つ(まばた)き一つせず、芯のある声で問いかけてくる。


「……『誰のために』、『今すぐ』『帰るの?』」


 覗きこむ顔が迫り距離を縮めた。今日の今日まで、今の今まで澄んでいた瞳を淀ませて、冷たい影をおとす。僕まで、身じろぎと瞬きを封じられてしまう。


「せい……────────」


 彼のなまえを呼ぶ途中だった。



 無抵抗に僕は押し倒された。馬乗りになった星史が、息の根でも止めるかのように口を塞いでくる。



「……ねえ、教えてよ、」


 刃先みたいな視線を刺してくる。覆い圧してくる手が氷のように冷たい。呼吸が薄くなってゆく。しずかに、鋭利に、豹変した彼にくらくらしてきた。


 ねえ、教えてよ、()()()()()()



「いま、おれより、優先しているのは……妹? ……桂木(かつらぎ)、さん? それとも……両方?」



 ……星史(せいじ)じゃ、ない。

 自由を失った身体と朦朧とした意識が、疑わせた。

 容赦ない束縛と威圧。凍てつく眼差し。はかりしれない独占欲。

 今、僕を捕らえているのは、星史じゃない。

 ────彼は、



「ねえ、おれはどこにいるの? おれはきみの、どこにいるの?」


 いつしか影を消し去っていた、あの暴虐だ。



「おしえてよ、」

 ぎり、と、力をこめた指が震え始めた。頬をえぐるように爪をたてる。

 それなのにいつまでも抵抗できずにいたのは、恐怖なんかじゃない。


 僕は、まちがいに、気づいたんだ。

 ほんの少しの、些細で重大な間違い。


 ……ああ、やってしまったな。傷つけてしまったな。後悔しながら、無抵抗のまま、()()を待った。




 指はしばらく震えたのち、唐突にすうっと力を抜いて僕を解放した。一瞬で新鮮になった呼吸が、また別の朦朧となる。

「…………なーんてね。」

 馬乗りの姿勢だけ維持したまま、この一連の流れが嘘だったみたいに、星史はけろっと笑って肩をすくめた。もう一度僕の顔に手を伸ばして、今度は頬をつねる。その状態のまま、すこし、笑った。


「へんな顔、」


 こっちの台詞だよ、それは。


 唇を噛み締めて、震わせて、頬をひくつかせて、涙を溜めたまま無理やり笑っている星史(せいじ)は、このうえなく滑稽で憐れで幼稚な、変な顔をしていた。



「帰ろ。おれだって、飽きちゃったところ、だよ、」



 ほんとうに、ほんとうに滑稽で憐れで、幼稚だった。











 朝日が昇りきる前に僕は救急を呼んだ。振り払って119番通報をする手を、ひのではそれ以上掴んでこようとしなかった。おとなしく、サイレンの音が近づくのを待っていた。


 搬送先で妹が処置を受けている間、裏切り覚悟で父と母、そして百香に連絡を入れた。

 三人はすぐに飛んできた。

 母は、久々にひので関連で取り乱し泣き崩れ、医師から「見た目ほど怪我の程度は深刻ではない」と聞かされるやいなや、今度は安堵の涙をぼろぼろと溢した。それはそれでまた厄介なもので、妹と対面してからも母は泣くばかりで手に負えなくなってしまった。


「母さんだけ先に送ってってよ。」

 僕の耳打ちした提案を、父さんも悟ったようにすんなり受け容れ、僕と百香とひのでは、もうしばらく病院に残った。

 三人になってすぐ、僕は席を外した。父さんの車が戻ってくるぎりぎりまで、百香とひのでを二人きりにさせた。


 ひので相手にとはいえ、卑怯な手ばかり使っている自覚はあった。


 まず、妹の騒動のおかげで、『かけおち』に関してのお咎めがうやむやになって、正直助かったと思ってしまったこと。

 次に、くだんの裏切り(まが)いな連絡。両親だけならまだしも、あんな懇願を目にしておいて百香を呼ぶなんて、わざとじゃなければそうとうな無神経だ。


 そして、あえてひのでと百香を二人きりにしたこと。

 百香なら、頼まずとも絶対に事の経緯をきく。そして百香相手なら、ひのではすべてを打ち明ける。そしてその情報は、必ず僕のもとへと入ってくる。



「報復、だって。……たぶん。」



 思惑どおり、百香はひのでから聴取した内容を、まずは結論から伝えにきてくれた。


「報復、って……つまり仕返し?」

 百香は神妙な面持ちで頷くと、どうにも所在のない手で髪をとかしながら、詳細を教えてくれた。




 まず確実なのは、此度の事件が過去起こした騒動の因縁である、ということだ。

 夜更けで視界が悪かった。たまたま人気(ひとけ)の無い道だった。ここ最近は他校生との衝突も起こしていなかった。

 この三つの要因が、ひのでを無防備にさせていたのだろう。擦れ違いさまに切りつけられ、隙をみせた次の瞬間には太腿を刺されていた。激痛に蹲るひのでに、犯人はこんな言葉を残したという。



 『皆口ひので、』

 『おまえのことは、調べ済みだ。』



 犯人の顔は見ていない。しかし、心当たりならあるらしい。



以前(まえ)、トラブった相手でね、身内がマスコミ関係者って人、いるんだって、」

 百香の深刻な報告にも、僕はまだ、事の重大さを理解しきれていなかった。


 単純に、先のひのでの懇願と、犯人の残した言葉とが繋がって、それならば百香の身を案ずるのが当然、くらいの危惧しか思いつかなかった。ひのでの唯一の弱点は百香(彼女)だ。調()()()()の上で、本人以外で害が及ぶとするのなら、彼女が妥当である。


「それどころじゃないよ。もっとやばいこと、あるじゃん、」


 百香より重大なこと? 自分の身の危険さえ軽視できる「やばいこと」? 何を言ってるんだこいつは。眉をひそめる僕に、百香もまた顔をしかめる。

「忘れたの?」

 百香は距離をつめて、顔を覗き込んだ。



名塚(なづか)月乃(つきの)の近親者は、旭だけじゃないんだよ?」



 ……そうだった。


 本人に自覚が無かろうと、洗い出せば浮き彫りになる、皆口ひのでの素性。

 十七年前、世間を騒がせ、今もなお一部界隈で語り継がれる、殺人犯。

 ……そうだった。名塚月乃を潜ませる子どもは、僕と星史だけじゃない。


「まさか、そんな、……考えすぎだろ。だって……近親、たって、実際俺たち、名塚月乃と血の繋がり、無いし、」

 星史のことは伏せて、苦し紛れに意見した。


「世間には関係ないよ、そんなこと。」


 百香の断言が現実を突きつける。まさしくそのとおりだ。僕だって解っていた、そんなこと。一度でも籍で繋がっていた過去さえあれば、関係ないんだ。メディアというものは、いつの時代も容赦ない。

 むしろ格好の獲物かもしれない。僕よりも、星史よりも、ひのでは世間の目を惹くのに充分すぎる()()だ。名塚月乃が、そうだったように。



「……まもらないと、」

「……え?」


「俺、ひのでを……護らないと。」



 ……、……、…………。


「…………なんだよ、その顔、」


 状況の深刻さから一転、百香はあきらかに、この場に似つかわしくない表情で僕を見据えていた。堪えている。今にも吹き出しそうな笑いを、唇を噛むことで堪えている。

「ごっ、ごめ、」

 僕の指摘が起爆剤になったのか、ついには両手で口を覆った。あきらかに目だけで笑っている。


「だ、だって旭……まさか旭から、そんな、」

 まだ何も言ってないのに弁解まで始める。しかも所々笑いを吹き出しながら。


 とたんに僕は赤面した。

 わかっている。わかっている。そりゃあもう痛いほどに。何言ってるんだ、自分。そんな、兄貴みたいな、いや、兄なんだけど、実際。そう、実際、ひのでも、僕の妹なわけで。

 頭の中まで支離滅裂になってゆく。


「やっぱりひのでが可愛いんだね、おにいちゃん。」


 追い討ちどころか、百香はとどめを刺しにかかってきた。彼女の隠しきれない嬉々とした言いぐさが、羞恥を倍増させる。

 視線を限界まで外す僕を、百香はついに声を出して笑った。


 状況は何一つ変わっちゃいない。ひのでが危険なこと。百香にも危険が及ぶかもしれないこと。どちらも不明瞭で、どこにも助けさえ求められないこと。今、妹のために動けるのが、僕だけということ。


「だいじょぶだよ。」

 いつもみたく、百香は言う。

「旭がそう言ってくれるなら、だいじょぶ。」

 大丈夫。彼女の口癖はまるで、麻酔薬だ。根拠も無い、解決にも至らずなのに、いつの間にか僕らに漂っていた暗雲が晴れていた。


「それじゃ、ひのでのことなら、百香もお手伝いしなきゃだね。」

「おまえ、自分の状況わかってんの、」

「旭と一緒なら平気ヘーキ。」

 なんだそれ。僕の反応はわりと冷たかったかもしれない。それなのに彼女は、にししと笑う。


「こんなの今さらじゃん。百香だけは、ずっと味方でいてあげる。」


 目の前の幼馴染が、見覚えのある少年と重なって、みえた。


 あれだけ鬱陶しかったはずなのに、幾度となく煩わせられたはずなのに、胸の内から(もや)が消え去っている。



 “桂木って、少し、セージさまに似てるわ。”



 ……あいつが言ってたの、案外、間違ってなかったんだな



「……百香(ももか)、」


 不意に、彼女に、報告したくなった。


「星史……いや、仲村、なんだけどさ、」

「? え? 仲村くん?」

 なになに? 突然。ごくまっとうな反応を見せる。



従兄弟(いとこ)、だったんだ。」

 僕は、まっとうとはかけ離れた切り出し方をする。



「……え?」

「だから……仲村が、俺の。」


 名塚月乃の子、とは言わなかった。言わなくても、彼女はきっと把握して、その上で「そっか」くらいで済ませてくれるだろうから。きっと。

「そっか。」

 ほら、やっぱり。期待どおり、百香はえくぼを見せて笑ってくれた。


「従兄弟って、近いよな。」

「うん。近いよね。」

「百香は、いる?」


「いるよー、いっぱい。パパもママも、きょうだい多いから。一番下なんてね、まだ幼稚園児。超可愛いよ。」



 ああ、やっぱり、彼女の善意は、いつだって僕を殺す。

 なのに、いつからだろう。これを苦と感じなくなったのは。呆れかえるくらい麻酔薬だ。


 モモカちゃんを助けて……なんて、皮肉なもんだ。妹の懇願を思い出しながら、僕は少し同情した。

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