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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第八章】 かけおち
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49  旭と『星史』




 ひとはいつから記憶を残すと思う?

 いわゆる物心っていうか、自分の一番古い記憶。


 俺の場合はさ、0歳。信じられないだろうけど、そう、赤ん坊のころの記憶があるんだ。


 母親が俺を抱っこしていたよ。それで、なんか泣いてんの。俺のこと、可愛い可愛いって言いながら泣いてんの。何度も、何度も言うんだ。



 可愛い、ほんとうに、かわいい、って。








「あ、信じてない顔してるー。」


 話を中断して星史(せいじ)は言った。顔を向けると、わざとらしく唇を尖らせている。


「別に、信じてないわけじゃないけど……」

 一応の弁解をしながら天井に視線を戻すと、左斜め頭上から、ふふっと笑い声が洩れてきた。





 かけおちしよう。


 冒険にでも出るように星史が提案してきたのは、遡ること四時間ほど前。

 一度自宅に帰った彼は、明らかに中身の少ないショルダーバッグ一つを下げた姿で戻るなり、瞳を輝かせてそれを言った。


「は?」

 対して、僕の反応はわりと冷たかったかもしれない。


「ノリ悪いなあ。ここは勢いで走り出すとこでしょ。」

 指摘しながら後部座席に跨ってくる。いや、ちょっと意味わからない。発進をためらうと星史はわざとらしい溜め息を落とし、バッグから大量の万札を取り出して見せ付けてきた。


「じゃーん。資金は完璧。ほら出発出発。」

「なんだよその金、」

「俺の月謝とかー、その他もろもろ。」

「やばいだろそれ。」


 あまりにもあっけらかんと答えてくるので、いっそう動揺が増した。

「いいんだよ。」

 星史は星史で、いっそう平然と言う。


「一度くらいやってみたくない? 親不孝。」


 心配かけるのって最強レベルじゃん? 親不孝だとか最強だとか、言葉選びが雑だなあと感じつつも、僕は勢い任せにアクセルを踏んでいた。






 かけおち、の規模はとても小さかった。

 真夜中の都内を無計画に廻るだけの、いわゆる、夏休みの夜遊びって感じで。

 最初に映画を観た。館内なら補導されないから、という星史の提案に渋々従ったけれど、思いのほか見入ってしまって、いつの間にか日付が変わっていた。


「いよいよかけおち本番だね。」


 出るなり、映画の感想よりも先に星史は意気込んだ。夜遊びだろこんなの。前から似たことしてたじゃん。僕はわかりやすく水を差した。


「わかってないなあ、無断ってのに価値があるのに。ね、次どこ行く?」


 どこ行くも何も、その後も特別な展開は無かった。

 適当に夕飯を済ませて、行き先も決めずバイクを走らせる、いつもどおりの行動。


 そして今は、カラオケのソファに寝転んでいる次第だ。L字型のソファの直角部分にそれぞれ頭を向けて、歌いもせず、眠りもせず、身体を休めた。

「やっぱりホテルにするんだったー。寝心地超悪くない?」

 星史は先ほどからずっと文句を垂れている。事実、たしかに寝心地は最悪だった。硬いし煙草くさいし。しかしどうあがいても僕らは高校生。まともな宿泊施設を利用するのは、容易じゃない。


「足付くような場所は避けたほうがいいだろ、」

「ラブホって無人じゃないっけ!?」

「補導されたら二つの意味で死ぬけどな。」


 なんやかんや僕も、この「かけおち」にノリ始めていた。正確には「家出」のほうが妥当なんだろうけれど、この際どちらでもいい。


「せめてシャワー浴びたーい。……あ。スーパー銭湯なら朝までやってんじゃん。もしくは健康ランド。」

「同じだろ。」

「あとで行こう。」


 時間もルールも親もぜんぶ無視して、思いつきで動くのは案外簡単だった。もっと罪悪感とか、身構えるもんだと思っていたのに、ぜんぜんそんなことなかった。


「旭くんちはさ、無断外泊何日(どの)くらいで騒ぐ?」

 唐突に、のんびりと星史は聞いてきた。

「うちは……二日くらいかな。」

 僕も、のんびりと答えた。

 続けて、「星史んちは?」と聞き返すと、「一晩。」と即答された。


「まじかよ。絶対もう大ごとになってるじゃん。」

 身を起こして言うと、星史は寝転んだまま相変わらずのんびりと、スマホをいじりながら、「だろうねー。」なんて笑う。そして液晶画面を向けてきた。



「おれ、めっちゃ愛されてるから。」



 画面にはここ一時間ほどの着信履歴が、渋滞みたいに並んでいた。

 『仲村君依』と『仲村りた』……おそらく両親の名だろう。それに加え、『自宅』の三箇所から怒涛の着信を受けている。僕が眺めている間にも、また『自宅』からの着信が入った。


「出たら?」

 言っても、星史はスマホを机に置いて放置する。

「やだよ。親不孝に徹するんだ、とことん。」

 とことん、と言い終えるあたりで着信がやんで、その後星史はためらいなく電源を切った。僕も自分のスマホを覗いてみた。『皆口陽』から一件、『桂木百香』から三件の着信が並んでいた。


「いつまで続けるよ? この家出。」

 同じように唐突に、のんびりと尋ねた。星史は少しむっとしながら、「かーけーおーち。」と訂正する。


「はいはい。かけおち、いつまでにする?」

「えー。期間限定のかけおちなんて、変なの。」

「それなりに達成しただろ、親不孝。」

「まあ、そーだねえ。」


 話し合いの末、家出は三日間に設定した。一晩よりも二日よりも少しだけ長くて、まだ許してもらえそうで、それなりに悪行気分を味わえそうな日数だから。

 こんなことが悪行になるんだから、すごい優等生だよね、俺たち。星史は皮肉気味に口端をあげてリモコンに腕を伸ばし、一曲入れた。

 聞いたこともない歌をのびのびと唄う。あまり上手くない。


「次、旭くんの番だからね!」

 間奏の合間に指示してくる。


 最近の曲、知らないからと断っても、いいからいいからとリモコンを押し付けてくる。慣れてないんだよ、こういうの。ぎこちなくリモコンのパネルに触れる僕の隣で、星史は気ままに唄い続けた。


「おれもだよ。こういうの超苦手。」

「おまえって息するみたいに嘘つくよな。」


 僕はタッチパネルに苦戦しながら、溜め息をついた。










「はじめまして、」


 あの日、先に挨拶してくれたのは、女の人のほうだったと思う。小柄で若い感じの人……

「旭。この人はね、お母さんの、お友だち。」

 母は俺にそう説明したんだ。

「よろしくね、旭くん。」

 女の人の後ろで、子供が恥かしそうにしていたよ。俺と同い年くらいの、男の子。

「ほら隠れてないで、あんたも挨拶して、」

 なんていうか、おまえも可愛かったんだな。

 今じゃ考えられないもんな。月日は残酷っていうか、ひとって変わるもんだよなあ。


「………なかむら、せいじ、です。」










「それが、旭くんの一番古い記憶?」


 問いかけに頷くと、前髪から水がしたたり落ちた。下からはジャグジーの飛沫が細かく顔を撃ってきて、もう汗なのか何なのか判らない。


 カラオケのあと、予定通り温泉施設に足を運んだ。と言っても結局朝まで唄い明かし、開店直後のスーパー銭湯に入ったから、正直理想とする『悪行』からは少々離れてしまったような気もする。

 平日午前の浴場はガラガラで、僕らは広めのジェットバスを二人で占領しながら、お互いの昔話をしていた。


 まるで、離れ離れだった過去や記憶を報告するかのように。


「えーひどくない? 俺、今でも充分可愛くない?」

「かわいくない。」


 僕は一蹴した。こちとら腹を割って話したつもりなのに、感想はそれかよ。でこぼこに動く水面を平手打ちして星史に命中させた。彼の顔もまた、汗なのか湯なのか判らない濡れ方をしている。


「俺も覚えてるよ、それ。東京ドームの近くだよね。」

 あいにくそこまでは。

「へー。俺は鮮明に覚えてるけどなー。」

 鮮明に?

「うん、鮮明に。」

 自信満々に答えた星史は、そこから、いかに当時のことを「鮮明」に覚えているか語り始めた。



 青一色のボールプールが少し怖かったこと。

 それなのに僕に引っぱられて、真ん中あたりで置き去りにされたこと(僕は滑り台に目移りして、勝手に行ってしまったらしい)。

 大きなトランポリンにも無理やり付き合わされたこと。

 休憩所で飲んだジュースの品名。それぞれの母親の、当時の服装……。

 正直疑わしいくらい、細部まで記憶していた。



「でも本当に本当なんだ。覚えてるんだよ。」

「信じないわけじゃないけど、なんていうか、不憫だな。」

「ほんとだよもー。0歳で物心ついちゃうとさあ、人生長いのなんのって。」

 星史は首元に手を置いて肩を回すと、顎ぎりぎりまで浸かって、じじくさい息をついた。



「母親ってさ、どっちの?」


 だしぬけに僕はきいた。なにがー? のらりくらり星史は聞き返す。


「だから、一番古い記憶で、泣いてたっていう、」

「俺の母親は一人だけだよ。」


 間髪入れない返答にどきりとした。



 ……ごめん。謝罪すると、星史はまたのらりくらりに戻って、謝らないでよ、と背伸びをした。


「あ、でも、(あきら)さんも母親みたいなものだったなー。」

「え?」

「四ヶ月間限定の母親。」


 なんてことない顔で話すものなので、思わず問いかけた。


「そうじゃなくて、おまえうちの親、知ってんの?」

「面識は無いよ。でも知ってる。」


 そう前置きして、もう一度言った。



「言ったでしょ? 記憶、あるんだ。」



 赤ん坊のころの? そう赤ん坊の。

 汗か、湯か、額から伝った水滴が目に入って、そろそろのぼせそうなんだと、気づいた。










 赤ん坊の泣き声で、夢に気づいた。


 声になりきれない未熟な音が、部屋中に響き渡っている。

 見覚えのある部屋……僕とひのでが暮らした、むかしの子ども部屋だ。


 懐かしい空間に、見慣れないベビーベッドが二つ並んでいる。

 その片方で、顔を真っ赤にした赤ん坊が身をくねらせながら泣いていた。もう片方では、口を半開きにした赤ん坊が健やかに寝息をたてている。こんな大声にも動じないなんて、図太い奴だな。眺めていると、女の人が小走りで部屋に駆けつけた。

 僕を素通りして、泣きわめく赤ん坊を抱き上げる。



「おっぱいかなー? おむつかなー?」


 笑顔であやす彼女は、僕の母だった。


 髪は短いけれど、今よりずっと若いけれど、間違いなく皆口(みなぐち)(あきら)だ。



 母は鼻歌まじりにてきぱきとおむつを替え終わると、もうしばらく赤ん坊を抱き続けた。ゆらゆらと、身体ぜんたいを揺らしているうちに、赤ん坊は静かに眠りにおちた。ベビーベッドへ戻し、額を撫でる。


「……おやすみなさい、星史(せいじ)(あさひ)。……愛しているわ。」


 並んで寝息をたてる二人に言葉を残して、母は部屋から出て行った。




(あきら)さんの、口癖だったんだ。」



 気づくと隣に、幼い星史が立っていた。



「あいしてる、あいしてるって、事あるごとに言ってたよ。」


 五歳の僕が一緒に遊んだ、五歳の星史。口ぶりはあの頃よりも、少し達者だ。


「おれってさ、夜泣きもすごかったんだよね。」

 僕と並んでベビーベッドを眺めたまま、星史は続けた。


 でもね、陽さんはおれが泣いても泣かなくても、絶対三時間おきに起きるんだ。毎晩。うつ伏せになってないかなとか、ちゃんと呼吸してるかなとか、心配だったみたいでさ。おっぱいもちゃんと、二人分、飲ませてくれたよ。よく出る体質で助かったわーって、いつも笑ってた。



 星史が淡々と連ねる知らない母を、黙って聞いた。



「でも、母親は一人なんだ。」

 やがて一呼吸おく。


「おれの母親は、『仲村りた』だけだから。」



 いつの間にか、星史の視線はベビーベッドから僕へと向いていた。

 澄んだ瞳が、じっとこっちを見上げている。


「陽さんのことは、すきだよ。」


 幼い手がきゅっと僕の手を握った。白くて細い指が頼りない力をこめる。


 握り返すと、五歳の彼はにこりと、目尻を下げた。



「陽さんの息子も、旭くんだけだしね。」




 夢はそこで終わった。


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