04 『母親』
「ウサギを買いにきたの。」
駅にいた理由について、百香はこう語る。
うさぎ? 聞き返してみたところ、どうやらスマホケースのことらしい。話によると目的の兎は有名なキャラクターで、専門店がこの近くなのだという。
「ピンクのね、単色のが欲しかったの。でもまさかの品切れ。専門店まで来たのになあ。」
残念そうに百香は嘆く。そのどうでもいい嘆きにさえ僕は耳を傾けた。話題がこちらに逸れないようにと、とにかく親身に。
百香の沈んだ表情は、華やかに並ぶクレープのサンプルを目にした瞬間ぱっと輝き、つくづく彼女という生き物にため息が出た。
百香は悩んだ末に、チーズケーキの入った苺のやつを選んだ。僕はいらなかったのだけれど、百香が自分だけ食べるのは嫌だとごねたので、仕方なく海老の入ったサラダのやつを注文した。
「旭なら絶対、しょっぱい系にすると思った。」
一口二口の交換にも応じ、甲斐あって百香はご満悦にどうでもいい話を続けてくれたものなので、僕はやっと肩をなでおろした。
「旭って、雨宮さんと仲良いの?」
安堵したのも束の間、百香はぶっこんできた。
手の止まった僕に対し、口をもくもくと動かしながら小首を傾げてくる。ここまでの苦労はなんだったんだ。
「別に。」
僕の返答に、百香は不満を見せる。
「えー。でも二人でこんなところ来てたじゃん、」
「一緒に来たわけじゃないって。……ちょっと用があったんだよ、」
「用って?」
「大したことじゃない。」
「勉強とか、授業のこと?」
「まあ、そんな感じ。」
「ふうん。」
咄嗟の嘘に、百香は納得したようなしてないような微妙な反応をとり、クレープの包み紙をくしゃくしゃ丸めてごみ箱に投げた。それを合図に、二人で駅へ引き返す。
「旭ってさ、あんまり女子と喋らないよね、昔っから。」
ホームで電車を待つ間、百香がぽつりと言った。
「でも嫌われないんだよね。」
どこか含みのある言い草に、いらっとした。
「何なんだよ、」
「べつにー。」
やがて電車が着き、二人でドア付近の手すりに摑まった。
「雨宮さんって、お嬢さまなのかな、」
離れてゆく駅を見つめながら百香はこぼす。
「あの辺に住んでるとしたら、そうだよね、きっと。」
それはないと思う。あいつ口悪いし。言おうとしたけどやめた。聞こえなかったふりをして無言を貫く。
そのくせ僕も、雨宮のことを考えていた。
雨宮のこと、というより怪我の程度だ。
重傷なのか、挫いただけなのか、痛みはあるのか、病院には行ったのか、日常生活には差し支えないのか……そんなふうに悶々と考えてしまう。
昨日と今日とで、彼女の知られざる一面に驚かされたりはしたが、そんなのどうだっていい。他人に怪我を負わせておいて平気でなんかいられるものか。
冗談じゃない。僕は妹とは違うんだ。
妹とは違う。
評価してほしいことも、主張したいことも、都合のいいことも、悪いことも、全部。
じゃっかん、悪いことのほうが多いけれど。
「電話のひとつくらい寄こしなさい、」
帰宅してすぐ、小言をもらった。
「せっかく旭の好きな物ばっかり作ったのに。七時からのテレビ、一緒に観たかったのに。」
母さんは拗ねながら夕飯の支度を始めた。このひとの、年不相応な態度には困ったものだけど、親として弁えてくれている部分も、一応はある。
緊急性のない連絡……つまり妹関連以外では、むやみやたらに着信履歴を埋めないところだ。だから僕もちゃんと評価して、多少の大人気のなさには目を瞑っている。
ちなみに金曜日の本日、母さんは夕飯に僕の好物を並べて、それを囲んで特番のバラエティ番組を観る、といったプランを立てていたらしい。
「どこ行ってたの?」
母さんは向かい合って両肘をついた。
「竹下のほう。」
僕は箸を動かしながら答えた。
クレープが祟ってあまり空腹ではなかったのだけど、手を止めると面倒くさそうだったので、食べ続けた。
「デート?」
「まさか。百香の買い物に付き合わされたんだよ。」
母さんのなかで、百香は『セーフ』なのである。わかりやすく機嫌が直ってきた。
「ねえ、土日のどっちか、動物園行かない?」
そして唐突に、溌溂と提案してきた。
「なに、急に、」
「小さいころよく行ったじゃない。お弁当持って、一日中まわってたでしょう? 旭ったら、ふれあい広場から動いてくれないんだもの。男の子なのに可愛いものが好きだったのよね。あなたは昔から優しい子だから。」
ああ、はじまった。
目を向けると、母さんは僕なんか見ちゃいなかった。
「ふつうはライオンとかトラが好きなのにね、男の子って。でもあなたはウサギやペンギンだったのよ。でもお母さんは旭がそういう子で良かったなあ。穏やかで、優しくて、乱暴なんて絶対しないんだもの。そういえばお弁当も可愛いのが好きよね。今でも。ジャムサンドとか甘い卵焼きとか。でもさすがにこの年でお弁当持って動物園ってわけにはいかないわよね。お昼過ぎに出掛けて、帰りに夕ごはん食べてきましょう。お母さん、行ってみたいお店あるの。」
饒舌に、思う存分、はしゃぐ。一方的にべらべらと、好き勝手に事を進める。
「いや、行かないって。」
冷静に制止すると、母さんは「どうして?」と首を傾げた。
「母さんも今言っただろ? この年で、って。俺もう高二だよ?」
「百香ちゃんは今でもママとおでかけするって言ってたわよ、」
「百香は女だろ。」
言ってしまってから、やばい、と息を飲んだ。
気付いたときには遅くて、母さんの顔色がまた、みるみるうちに沈んでいった。
「……あたしだって……娘とおでかけしたかったわよ。せっかく女の子産んだんだから、」
そこからはまた饒舌だった。
……あたしだって、一緒に服選んだりケーキ食べに行ったりしたいわよ。恋愛相談とか内緒話もしたいし、二人で目一杯おしゃれして、おでかけしたかったわよ。せっかく女の子産んだんだから。でも、あの子じゃ、ひのでじゃ無理じゃない……
「あの子はふつうの女の子とは違うんだもの。」
散々並べた泣き言を、母さんはそう締めくくった。
そしてまた矛先は僕に向く。
「それなのに旭は冷たいのね、」「いつからそんな子になっちゃったの、」「昔は優しい子だったのに、」「百香ちゃんとは買い物行くくせに、」「お母さんには付き合ってくれないのね、」「どうだっていいんでしょう、あたしのことなんか……」
……怒鳴るでも泣き叫ぶでもなく、さめざめと切なそうに言うこのパターンが、僕の一番苦手な母さんだ。
「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ。」
変な答えかたをしている自覚はあった。
「学力診断、あまり良くなかったし、しばらく休日は出掛けるの控えたいんだ。」
今は、この人を否定しないことが先決だった。
僕は最後に、「ひどいこと言ってごめん、」と謝罪し、更に「月曜日の弁当はサンドイッチにしてよ。」と、付け足した。
母さんが安っぽい感涙を流したところで、このなかみの無いやりとりは治まった。
多少の大人気のなさ、だけなら目を瞑れる。でも一番の問題はそこじゃない。
父と離れて暮らすようになってから、母さんは僕に依存するようになった。
大人の男に成る息子を歓迎できなくて、何歳になっても小さな恋人として扱いたがる。
僕も適度に、彼女の望む『穏やかで、可愛い物好きな、男らしくない息子』を演じた。下手に抗って発狂されても困るし、何より、ひのでが娘役を放棄していたから。
ひのでは動物園の小動物よりも、博物館の恐竜や模型が好きな子だった。そんな妹を、母さんが快く思ってなかったのは明白だったので、僕はここぞとばかりに動物園ではしゃいだ。ふれあい広場のウサギにわざと目を輝かせた。本当は鰐や蛇が見たかったのだけど、これ以上母さんを幻滅させたくなかった。
ひのでは高学年に上がる頃には既に、親との買い物を敬遠するようになったので、僕は中学生になっても母さんの外出に付き添った。
ひのでが母さんの手作り弁当よりも昼食代の現金を要求するようになれば、僕は翌日の弁当に、母さんの喜びそうな可愛らしいメニューをリクエストした。赤いウインナーとか、甘い卵焼きとか、本当は大して好きじゃない、ジャムサンドとか。
時間の無駄遣いなんだろうな、きっと。
時々悩んでみるけれど、今さらこの生き方を変えられるとは思わない。
たとえば僕が賢く優秀な人間で、あらゆる成果を残せていたのなら、まだ救いはあったのだろうけど、残念ながら僕にできることは、これしかない。
母との団欒を終えリビングから出たところで、降りてきたひのでと目が合った。
まるでゴミでも見るように一瞥してきた妹は、何の言葉も交わさず風呂場へと消えた。
おまえにはそう見えるだろうよ。
僕らの違いは、じゃっかん、悪いことのほうが多い。
それでも違うほうを選びたがる。お互いに。