48 『ただいま』
「え……?」
母の表情が笑顔のまま停止する。
「なに? え……なに? どうしたの、旭……」
やがて笑顔をひくつかせて、動揺しだした。
「言葉のままだよ。」
僕は淡々と答えた。
「俺は、皆口姓から外れるつもりはない。」
瀬田にも新しい苗字にもならない。強調して僕は言った。
「それって、お母さんに、ついてきてくれないって、こと?」
途切れ途切れに母が尋ねる。わかりやすく身震いしながら訴えてくる。ぜんぶ無視して僕は頷いた。時間が止まったみたいな沈黙のあと、母は突然立ち上がって、両手で机を叩いた。
「あたしを捨てるの……!?」
早朝の静かな空間に、母の声が響く。
見据えたまま口を閉ざす僕に、母は続けさまに詰め寄った。
旭はあたしの味方でしょう? いつだってあたしと一緒だったじゃない。あたしを助けてくれたじゃない。あたしだって旭を護ってきたわ。誰よりも何よりも旭のために生きてきた。それなのにあたしを捨てるの? あたしと一緒にきてくれないの? あたしよりあの人を選ぶの? ……あの人に何か吹き込まれたのね? 騙されてるのよあなたは。あの人はあなたが思うような親じゃない。そうよ、親なんかじゃないのよ。平気で子どもを捨てるような人間なの! それなのにあの人を選ぶの!? あたしを捨てるの!?
声はどんどん激しく、怒号へと変わった。
「どうして? ……ねえ、……どうして……っ、」
やがて湿り気も帯びてきた。どうして、どうして、どうして……。洟をすする音と共に、卓上にはぽたぽたと涙が落ちた。
「昔のままなんだよ。父さんの、家。」
僕は、母のぐしゃぐしゃな顔に向けて言った。
「テーブルも棚も、まだ同じ物使っててさ、家具の配置なんて、俺たちが住んでた頃のままなんだよ。俺とひのでが描いた下手くそな絵まで壁に貼りっぱなしでさ、不憫でならなかったよ。」
涙で濡れたまま、母の形相が変わってゆく。
「そんなの自業自得よ。未練がましいだけじゃない、情けない。あんな男が家庭に憧れる自体間違っているのよ。……ねえ旭、わかってちょうだい。お母さんはあなたのために言ってるの。あの人と離れたのも、再婚を決めたのも、ぜんぶあなたたちのためなの。」
「父さんは一度だって、子どものためなんて口にしなかったよ。」
一度だって、あんたを悪く言ったことだって無かった。……謝ってばかりなんだよ、いつも。あんたの言うとおりだ。ほんとうに情けなくて、不憫な父親だよ。
「あんたに、父さんを悪く言う資格なんて無い。」
身震いをしながら母は目を見開いて、そこから少しずつ、少しずつうなだれていった。やがて両手で顔を覆って泣き崩れた。
「だって……ほんとうに、あたしはただ本当に、旭のためを思っているのよ? あたしと一緒にいれば今より良い暮らしができるのよ? 新しいバイクだって買ってあげる。大学だって好きなところに行かせてあげる。………ねえ、だって、家族じゃない。やっと家族のかたちが、整ってきたじゃない…………あたしたち、今度こそ幸せになれるんじゃない。今よりもずっと、もっともっと、何もかもうまくいくのに……」
ああ。
本当にもう、このひとは。
「おめでたい奴だな、あんたは。」
僕も、目を見開いていた。言ってしまうともう止まらなかった。
「あんたはいつも自分だけだ。自分だけが可愛くて大切で、自分だけの幸せに俺を巻き込んでいるだけだろ。俺は、あんたの理想の息子なんかじゃない。動物園が楽しいなんて思ったこと無いし、ペンギンやウサギになんて微塵も興味無かった。甘い卵焼きもジャムサンドも本当は大っ嫌いなんだ。あんたの作る弁当が恥かしくて、いつも誰も居ない場所を探して一人で食ってたよ。」
その生き方を選んだのは自分だと、諦めていた。
母を惑わせていたのが、自分だったことも。
だけど、それでも、止まらなかった。脱ぎ捨てた呪いが憎くて憎くて止まらない。
「愛してるだの、産んでよかっただの、便利な言葉だよな。……言えなくなること、教えてやるよ。………今の俺の成績、あれは実力なんかじゃない。不正、だよ。退学もんのカンニングで学年トップにのし上がったんだ。あんたの自慢の……理想の息子は、平気で不正する卑怯者なんだよ。」
覆っていた両手が離れると、泣き顔が驚愕に変わっていた。そして「……うそ」と、一言もらす。
「事実だよ。答案用紙、盗んだんだ。」
どの曝露に対しての驚愕かは定かではなかったけれど、きっと不正についてだと、これもまた、なんとなくわかってしまった。
察しは大正解だったらしく、母はまたうなだれた。今度は落胆の面持ちでうなだれた。僕は静かに深呼吸をした。
「……わかっただろ。あんたの理想の幸せのなかに、俺はいない。幸せになるなら、新しい家族とやっててくれよ。別に、幸せになるなって言ってるわけじゃないんだ。」
再び椅子にもたれると、沈黙が流れた。
長い沈黙に感じた。言いたい事が空になると、静寂での身動きが難しくて、どうしていいかわからくなってしまった。
かち、かち、と、唯一響く秒針と一緒に、母の啜り泣きが聞こえてきた。
「………だめ。……嫌よ、だめ。旭がいなきゃ……、」
また涙を落としている。
「やっぱり、だめなの。旭がいなきゃ、お母さん……生きていけない、」
涙はやむどころか、さらにぼたぼたと卓上を濡らして、ぬぐう手も間に合わないくらい、ぐしゃぐしゃにしてゆく。
「……いやよ、…いや……旭まで、いなくなるなんて、いや。……あたしの、あたしの子なの。……あたしが、……あたしだけは、あなたを、」
「母さん。」
子どもみたいに泣きじゃくる母と視線が合ってから、僕は言った。
「怖いんだね。また、子どもを手放すのが。
……嫌なんだよね。また、子どもを捨てた親になるのが。」
「…………え……?」
「これだけはわかってほしいんだ、母さん。俺はあんたを母親失格だなんて思わないよ。母さんは間違いなく、俺の母親だよ。」
母の姿を確認して、瞼を閉じる。
そうなんだ、このひとは僕の母親だ。
数秒前に映した顔を思い浮かべる。そっくりなんだ、結局。なにもかも。
そして観念して、瞼を開けた。
「でもあんたは、あの子の母親じゃない。あの子はもう、あんたの子どもじゃない。」
僕はこの母を悪と呼ばない。
でも、被害者とも呼ばない。
「なにを……言っているの、旭……?」
「俺は、あの子じゃない。」
────────僕はあの子じゃないんだ。
母さんの忘れられない、僕が忘れてはいけなかった、あの、こども────────
自室に戻るころ、日は昇りきっていた。母と見た朝焼けが遠い昔のように、早朝の母との時間が、まるで夢だったように感じる。
完全に別世界だ。別の世界に、ようやく来られた。
おもむろに引き出しをひく。目に飛び込んだ『それ』を、しばらく眺めてから両手で持ち上げた。
軽い。すごく軽い、封筒だ。
手のひらより一回りほど大きい、わずかに厚みのある封筒。口には何重にもテープが巻かれていて、固く鎖されている。
一生開けないかもしれない。これを受け取ったとき、僕はそう言った。
心変わりなんて素直なものじゃない。僕は鋏を取り出して、封筒に刃を入れた。
中から出てきたのは、一冊の母子手帳だった。
表紙を確認して、真実が現実なのだとようやく受けとめた。
もう、あがかない、抗わない、背かない。心の底から受けとめた。
ここはもう別世界。ようやくおまえを、みつけたよ。俺だけの力じゃ無理だったけれど。
────みなぐち、きいて、
あたし、あんたの知りたいこと、知ってるの。
『あの子』は、あんたのそばにいる。
彼の、なまえは………────────
《愛媛県今播市 母子健康手帳 名塚星史》
────────胎のなかに、いた。
事件の日、僕は母の胎で、名塚月乃の凶行に遭遇していた。
母とは文字通り一心同体だったはずなのに、そのとき母が何を思ったのか、その目にどんなものが映っていたのか、わからない。わからないまま、胎から出てきたときには被害者になっていた。
産まれた瞬間から哀れみの対象。僕を無視して世間は口々に、可哀想な子だと嘆いた。
知らねーよ。覚えてねえんだから。どんなに否定しようと声はきっと届かない。僕は産まれながらに、永遠に、可哀想な子どもであり続ける。
彼も、同じだ。
胎のなかにいた。事件の日、僕と同じように、彼女の胎にいた。
殺人犯の息子としてこの世に生を受けた。
対極の位置で産まれたはずの僕らは、おんなじだった。
「どうしたの? 連絡くれればよかったのにー。」
予備校から出てくるなり、彼は駆け寄ってきた。約束も無く待ち構えていた僕に驚きつつも笑顔で、首を傾げる。「なになに? 俺が恋しくなっちゃった?」なんて、いつもどおりふざけたことを言う。
僕は、恒例の馴れ合いが、いつもどおりにできなかった。
「…………星史、」
彼のなまえを呼ぶ。
ぼんやりと、文字を読むように、
「名塚……星史、」
彼の生まれ持ったなまえを呼んだ。
「────────っ…………」
星史が声を呑む。瞬きさえ惜しむように、僕を見る。
その眼差しがあまりにも澄んでいて、透きとおっていて、無垢で、無垢で、無垢で、怖くなった。
映し出されてしまう。ありのまますべて見透かされてしまいそうだ。
無垢な瞳を開いたまま、星史はしがみついてきた。
僕の両肩に手を乗せてもたれかかる。
「……ただいま………旭くん、」
透きとおる声が、耳元で、子どもみたいに鳴いた。
僕らはおんなじだ。
あの日、胎のなかにいた。生まれ持った自分を失くした。十七年分、ぜんぶ。
血よりも、遺伝子よりも、時間よりも、何もかも、
ふたりは、
「……おかえり、星史。」
近くにいた。この世で限りなく、近くに。




