表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第七章】 潰していた過去、取り戻した未来
49/92

48  『ただいま』




「え……?」


 母の表情が笑顔のまま停止する。



「なに? え……なに? どうしたの、旭……」

 やがて笑顔をひくつかせて、動揺しだした。

「言葉のままだよ。」

 僕は淡々と答えた。


「俺は、皆口姓から外れるつもりはない。」

 瀬田(せた)にも新しい苗字にもならない。強調して僕は言った。


「それって、お母さんに、ついてきてくれないって、こと?」


 途切れ途切れに母が尋ねる。わかりやすく身震いしながら訴えてくる。ぜんぶ無視して僕は頷いた。時間が止まったみたいな沈黙のあと、母は突然立ち上がって、両手で机を叩いた。


「あたしを捨てるの……!?」


 早朝の静かな空間に、母の声が響く。

 見据えたまま口を閉ざす僕に、母は続けさまに詰め寄った。


 旭はあたしの味方でしょう? いつだってあたしと一緒だったじゃない。あたしを助けてくれたじゃない。あたしだって旭を護ってきたわ。誰よりも何よりも旭のために生きてきた。それなのにあたしを捨てるの? あたしと一緒にきてくれないの? あたしよりあの人を選ぶの? ……あの人に何か吹き込まれたのね? 騙されてるのよあなたは。あの人はあなたが思うような親じゃない。そうよ、親なんかじゃないのよ。平気で子どもを捨てるような人間なの! それなのにあの人を選ぶの!? あたしを捨てるの!? 



 声はどんどん激しく、怒号へと変わった。



「どうして? ……ねえ、……どうして……っ、」

 やがて湿り気も帯びてきた。どうして、どうして、どうして……。(はな)をすする音と共に、卓上にはぽたぽたと涙が落ちた。


「昔のままなんだよ。父さんの、家。」

 僕は、母のぐしゃぐしゃな顔に向けて言った。


「テーブルも棚も、まだ同じ物使っててさ、家具の配置なんて、俺たちが住んでた頃のままなんだよ。俺とひのでが描いた下手くそな絵まで壁に貼りっぱなしでさ、不憫でならなかったよ。」


 涙で濡れたまま、母の形相が変わってゆく。


「そんなの自業自得よ。未練がましいだけじゃない、情けない。あんな男が家庭に憧れる自体間違っているのよ。……ねえ旭、わかってちょうだい。お母さんはあなたのために言ってるの。あの人と離れたのも、再婚を決めたのも、ぜんぶあなたたちのためなの。」


「父さんは一度だって、子どものためなんて口にしなかったよ。」


 一度だって、あんたを悪く言ったことだって無かった。……謝ってばかりなんだよ、いつも。あんたの言うとおりだ。ほんとうに情けなくて、不憫な父親だよ。



「あんたに、父さんを悪く言う資格なんて無い。」



 身震いをしながら母は目を見開いて、そこから少しずつ、少しずつうなだれていった。やがて両手で顔を覆って泣き崩れた。


「だって……ほんとうに、あたしはただ本当に、旭のためを思っているのよ? あたしと一緒にいれば今より良い暮らしができるのよ? 新しいバイクだって買ってあげる。大学だって好きなところに行かせてあげる。………ねえ、だって、家族じゃない。やっと家族のかたちが、整ってきたじゃない…………あたしたち、今度こそ幸せになれるんじゃない。今よりもずっと、もっともっと、何もかもうまくいくのに……」



 ああ。


 本当にもう、このひとは。



「おめでたい奴だな、あんたは。」



 僕も、目を見開いていた。言ってしまうともう止まらなかった。


「あんたはいつも自分だけだ。自分だけが可愛くて大切で、自分だけの幸せに俺を巻き込んでいるだけだろ。俺は、あんたの理想の息子なんかじゃない。動物園が楽しいなんて思ったこと無いし、ペンギンやウサギになんて微塵も興味無かった。甘い卵焼きもジャムサンドも本当は大っ嫌いなんだ。あんたの作る弁当が恥かしくて、いつも誰も居ない場所を探して一人で食ってたよ。」



 その生き方を選んだのは自分だと、諦めていた。

 母を惑わせていたのが、自分だったことも。



 だけど、それでも、止まらなかった。脱ぎ捨てた呪いが憎くて憎くて止まらない。



「愛してるだの、産んでよかっただの、便利な言葉だよな。……言えなくなること、教えてやるよ。………今の俺の成績、あれは実力なんかじゃない。不正、だよ。退学もんのカンニングで学年トップにのし上がったんだ。あんたの自慢の……理想の息子は、平気で不正する卑怯者なんだよ。」


 覆っていた両手が離れると、泣き顔が驚愕に変わっていた。そして「……うそ」と、一言もらす。


「事実だよ。答案用紙、盗んだんだ。」


 どの曝露に対しての驚愕かは定かではなかったけれど、きっと不正についてだと、これもまた、なんとなくわかってしまった。

 察しは大正解だったらしく、母はまたうなだれた。今度は落胆の面持ちでうなだれた。僕は静かに深呼吸をした。


「……わかっただろ。あんたの理想の幸せのなかに、俺はいない。幸せになるなら、新しい家族とやっててくれよ。別に、幸せになるなって言ってるわけじゃないんだ。」


 再び椅子にもたれると、沈黙が流れた。

 長い沈黙に感じた。言いたい事が(から)になると、静寂での身動きが難しくて、どうしていいかわからくなってしまった。


 かち、かち、と、唯一響く秒針と一緒に、母の啜り泣きが聞こえてきた。


「………だめ。……嫌よ、だめ。旭がいなきゃ……、」

 また涙を落としている。

「やっぱり、だめなの。旭がいなきゃ、お母さん……生きていけない、」

 涙はやむどころか、さらにぼたぼたと卓上を濡らして、ぬぐう手も間に合わないくらい、ぐしゃぐしゃにしてゆく。


「……いやよ、…いや……旭まで、いなくなるなんて、いや。……あたしの、あたしの子なの。……あたしが、……あたしだけは、あなたを、」



「母さん。」



 子どもみたいに泣きじゃくる母と視線が合ってから、僕は言った。



「怖いんだね。また、子どもを手放すのが。

 ……嫌なんだよね。()()、子どもを捨てた親になるのが。」


「…………え……?」


「これだけはわかってほしいんだ、母さん。俺はあんたを母親失格だなんて思わないよ。母さんは間違いなく、俺の母親だよ。」



 母の姿を確認して、瞼を閉じる。

 そうなんだ、このひとは僕の母親だ。

 数秒前に映した顔を思い浮かべる。そっくりなんだ、結局。なにもかも。

 そして観念して、瞼を開けた。



「でもあんたは、()()()の母親じゃない。あの子はもう、あんたの子どもじゃない。」



 僕はこの母を悪と呼ばない。

 でも、被害者とも呼ばない。



「なにを……言っているの、旭……?」



「俺は、あの子じゃない。」




 ────────僕は()()()じゃないんだ。


 母さんの忘れられない、僕が忘れてはいけなかった、あの、こども────────









 自室に戻るころ、日は昇りきっていた。母と見た朝焼けが遠い昔のように、早朝の母との時間が、まるで夢だったように感じる。

 完全に別世界だ。別の世界に、ようやく来られた。


 おもむろに引き出しをひく。目に飛び込んだ『それ』を、しばらく眺めてから両手で持ち上げた。


 軽い。すごく軽い、封筒だ。

 手のひらより一回りほど大きい、わずかに厚みのある封筒。口には何重にもテープが巻かれていて、固く鎖されている。


 一生開けないかもしれない。これを受け取ったとき、僕はそう言った。

 心変わりなんて素直なものじゃない。僕は鋏を取り出して、封筒に刃を入れた。



 中から出てきたのは、一冊の母子手帳だった。



 表紙を確認して、真実が現実なのだとようやく受けとめた。


 もう、あがかない、抗わない、背かない。心の底から受けとめた。

 ここはもう別世界。ようやくおまえを、みつけたよ。俺だけの力じゃ無理だったけれど。






  ────みなぐち、きいて、


  あたし、あんたの知りたいこと、知ってるの。

  『あの子』は、あんたのそばにいる。


  ()の、なまえは………────────







  《愛媛県今播市 母子健康手帳 名塚(なづか)星史(せいじ)








 ────────(はら)のなかに、いた。



 事件の日、僕は母の(はら)で、名塚(なづか)月乃(つきの)の凶行に遭遇していた。


 母とは文字通り一心同体だったはずなのに、そのとき母が何を思ったのか、その目にどんなものが映っていたのか、わからない。わからないまま、胎から出てきたときには被害者になっていた。

 産まれた瞬間から哀れみの対象。僕を無視して世間は口々に、可哀想な子だと嘆いた。

 知らねーよ。覚えてねえんだから。どんなに否定しようと声はきっと届かない。僕は産まれながらに、永遠に、可哀想な子どもであり続ける。



 彼も、同じだ。



 (はら)のなかにいた。事件の日、僕と同じように、彼女の胎にいた。

 殺人犯の息子としてこの世に生を受けた。

 対極の位置で産まれたはずの僕らは、おんなじだった。









「どうしたの? 連絡くれればよかったのにー。」


 予備校から出てくるなり、彼は駆け寄ってきた。約束も無く待ち構えていた僕に驚きつつも笑顔で、首を傾げる。「なになに? 俺が恋しくなっちゃった?」なんて、いつもどおりふざけたことを言う。


 僕は、恒例の馴れ合いが、いつもどおりにできなかった。



「…………星史(セージ)、」



 彼のなまえを呼ぶ。

 ぼんやりと、文字を読むように、



名塚(なづか)……星史(せいじ)、」



 彼の生まれ持ったなまえを呼んだ。




「────────っ…………」


 星史(せいじ)が声を呑む。瞬きさえ惜しむように、僕を見る。


 その眼差しがあまりにも澄んでいて、透きとおっていて、無垢で、無垢で、無垢で、怖くなった。

 映し出されてしまう。ありのまますべて見透かされてしまいそうだ。

 無垢な瞳を開いたまま、星史はしがみついてきた。

 僕の両肩に手を乗せてもたれかかる。




「……ただいま………(あさひ)くん、」




 透きとおる声が、耳元で、子どもみたいに鳴いた。






 僕らはおんなじだ。


 あの日、(はら)のなかにいた。生まれ持った自分を失くした。十七年分、ぜんぶ。


 血よりも、遺伝子よりも、時間よりも、何もかも、 


 ふたりは、




「……おかえり、星史(せいじ)。」




 近くにいた。この世で限りなく、近くに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] これはヤバい(褒) 語彙力が消滅するくらいにはヤバい(好) 相変わらず心理描写が流れる様で素敵ですね。それに引き込まれた先に来るストーリー展開が胸熱ですッ! [一言] 二人共、お幸せに。(…
2021/07/24 07:43 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ