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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第七章】 潰していた過去、取り戻した未来
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47  『本音』




 真夜中を走る。

 見覚えのある道だけを選んで、あての無いふりに酔う。まるで推理ドラマの再放送を、犯人を知っている上で視聴するような、手応えのない不敵さ。そんな器の小さい快感がどうしようもなく必要で、走る。ただただ走る。

 白み始めた空に、気づかないふりをする。喉の乾きも無視する。

 でも、どうしても、頭は空っぽになってくれなくて、要領なんて良くないくせに、無駄に考え込むことだけに特化したこの意識は、何が何でも邪魔し続けて、自然と家路を辿り始める。


 帰るしかないんだ、我が家に。


 バイクを停めてようやく諦める。車庫を出たときには夜が終わっていて、空の向こう側では淡い紅色が広がっていた。手前にくるほどに碧天(あお)へと染まるうつくしさに、しばし目を奪われていた。


「朝焼けね。」


 気づくと母さんがいた。

 玄関先で佇んで、同じように空を見上げている。いつから居たのだろう。僕は聞かなかった。母さんも、息子の朝帰りを咎めなかった。



「五月三十一日、午前四時二分。」


 かわりに、唐突に日時を唱えた。僕はその日時を知っていた。



「あなたの出生時刻。」

 満ち足りた微笑で言う。知ってるよ。僕も薄い笑顔で返した。


 知ってて当然だ。耳にたこができるほど、聞いた話なんだから。







 男の子なら、(あさひ)

 女の子なら、ひので。

 まさか二人とも明け方に産まれるなんて、運命としか思えなかったわ。


 これまた幾度となく聞いた話を、母さんは揚々と語った。夏の早朝のリビングは灯かりを点けるには明るくて、点けなければまだ薄暗い。そんな不便な時間帯に、僕ら親子は向かい合って席についた。どちらともなく、久方ぶりの団欒を設けた。


「何か飲む?」母さんが聞く。

「いや、いいや。」僕は首を振る。


 やはり要領の良くない男だな、僕は。断ってから間の持たせ方を悩んだ。母さんも気まずそうに座っている。



「離婚、いつするの、」



 開き直って僕は尋ねた。空気を読んだところでもう意味なんて無い。

 母さんは今まさに、最も触れてほしくない部分を刺されたような、露骨な顔をした。瞼と眉が堅く身じろいで睫毛を伏せる。


「できるだけ早めに。」

 早めに?

「ええ。早めに。」


 彼女のいう『早め』が、僕らが成人するほんの数年後を指すのか、はたまた、なんなら明日にでもを指すのかは判らない。ただ少なくとも、此度の決断が思い付きとか刹那的な衝動ではないことだけは、見受けられた。

 それならそれで、別の疑問が出てくる。


「反対するつもりは無いんだけどさ、」

 彼女がどういう経緯でその決断に至ったのか、だ。もとより籍を離さないほうが不思議だった両親(ふたり)だ。別居生活ももう十年以上。その月日の中で決断したのが、どうして今なのか。


「どうして今になって、離婚なの?」

 僕はありのまま聞いた。母さんの睫毛がゆっくり動く。


「そうね。……理由、たくさんあるから、一つずつ話すわね。」

 しばらくの沈黙のあとに、母さんは口を開いた。深呼吸みたいなまばたきと同様、ゆっくりと話し始める。


「まずは、旭。あなたの今が、とても輝いて見えたから。」

 輝いて、って……。突拍子もない言い分に、僕は鼻で笑う。


「以前の旭って、あんまり、毎日が、楽しそうじゃないように、みえたの。」


 母さんの目に映る僕は、まるで、しがないサラリーマンだったという。

 趣味も無く、夢も無く、人付き合いは浅く留め、充実なんて高望みはしない、自宅と学校を往復するだけの毎日。十七歳だから高校生をしている、といわんばかりの姿勢をしている僕が、母さんは常に気懸りだったらしい。


「だけど、最近のあなたって、すごく、その、青春を謳歌、していると思うの。良いお友だちにも恵まれて、成績も申し分、なくて。夏休みも、満喫してるみたいで、お母さん嬉しいわ。

 ────もう、お母さんだけじゃなくても大丈夫なくらい、大人になったのよね。」



 ……正気か、この人は。


 どの口が言ってるんだ。僕は出かかったことばを我慢した。



「次に、ひので、かしらね。あの子は、本当に落ち着いてくれたわ。ほんの少し前までが嘘みたいに、ちゃんとした子に、なってくれた。」


 無断欠席はしない。暴力沙汰は起こさない。親を学校に呼び出させない。家族と会話を交わす。母親の手作り弁当を持って学校へ行く。……母さんの妹に対する「ちゃんと」の基準は、呆れるくらい当たり前のことばかりで、僕は、今度は落としかけた溜め息を我慢した。


 そこから母さんの目が泳いだ。手なんかこすりあわせて、挙動不審になる。


「だから、……その、ひのでとも、関係……よくなったし、旭も、立派になったし、その、家族のかたち、みたいなのが、安定したっていうか、」


 区切りながら、おぼつかないようすで話す。


「まだ他にあるよね? 理由。」

 できるだけおだやかに、僕は尋ねた。


 いやな特技だ。僕は母親のことがある程度、わかってしまう。

 思考、好み、魂胆、心情。きっと知らなかったことなんて、過去くらいだ。


「…………、」


 ほら。やっぱりその顔、図星か。母さんは睫毛を伏せるのをやめて、口を結んだ。



「お母さん……ね、結婚、考えてるの。」


 やがて怯えるように言った。



 僕は肩の力を抜いて椅子にもたれた。降参みたいな顔をして、静かに溜め息をおとす。

 それは、いつか見た父さんのしぐさを真似たものだけど、なるほど、この反応は実にやりすごしやすい。自制するには、とくに。


「彼氏、いたんだ。」

 もう一度、できるだけおだやかに言った。


「彼氏なんてそんな……」

 はにかむ母さんがいじらしかった。いじらしくて、おめでたくて、なさけなくて、ばかばかしくなった。それでもなお、おだやかに徹した。次第に母さんの表情が柔らかくなってゆく。

 僕はこの人のことをある程度知っているつもりなのに、この人は僕に対する「つもり」すら、無い。


「それで、その、それでね、」

 表情が完全にくだけると、今度は明るさも取り戻し始めた。声もはつらつとしてくる。


「入籍の日取りはまだ決めてないの。来年再来年と、あなたたちの受験もあるし、色々と立て込むでしょう? ()ったらね、新しく家を買おうなんて言ってるのよ。お母さんはこのお家で充分って断ったんだけど、じゃあせめてリフォームだけでもですって。……()、早くに奥さんに先立たれて、まだ小さい息子さんがいるの。お兄ちゃんとお姉ちゃんができるのがよっぽど嬉しいみたいですごく張り切っているのよ。あ、やだ、あたしってば。まだお互い顔も合わせてないのに。まずはみんなでお食事くらいしないとよね。」


 ほんの数分前のおぼつかなさとは打って変わって、母さんは饒舌にはしゃいだ。一方的にべらべらと、今後を語った。

 食事会の席は中華がいいか料亭がいいかだの、()に頼めば良いお店を押さえてくれるだの、夏休みで予定が合わせやすくていいだの、しまいには、交際後に初めて貰ったプレゼントについての自慢まで始めた。よくわからないブランドのブレスレットは、おそらく高価な物なのだろう。


「お金持ちなんだね。」

「そんないやらしい所に目つけないの。」

 そう言って注意する割には、頬が緩んでいる。

「お母さん、今度はちゃんと人間性で選んだんだから。」

 前置きした上で、また饒舌に喋りだした。


「たしかに、今より裕福になるのは保障するわ。()ったらね、家族になったお祝いに、旭に新しいバイクを贈りたいんですって。今の中古でしょう? 新車のほうが絶対安全だしお母さんも大賛成。ひのでにも何か贈りたいんだけどあの子の好みって難しいし、何が喜ぶかわからなくて困ってるのよ。やっぱり無難にアクセサリーがいいのかしら。」


「母さん、」


 延々と喋り続けそうな母に、僕は声をかけた。


「よかったね。」

 真似ていただけの降参顔が、いつしか自前になっていた。


 母をまっすぐ見据えて、僕は僕の顔で、嘘のない表情で、嘘じゃない言葉をおくる。


「幸せになれるね。」


 言葉を選ばない。

 雰囲気を守らない。

 嘘をつかない。

 顔色も窺わない。




「……勝手に幸せになってろよ。あんただけで。」




 母に本音で向き合うのは、はじめてだった。

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