46 『糸子』
テレビ画面ではニュースが続いていた。
傷害事件のあらましから、加害者友人への取材。被害者親族への取材。事件前の二人の関係、行動、人物像………メディアというものは、いつの時代も容赦ないと思いつつも、僕は雨宮との会話を中断してまで画面に見入った。
報道によると、加害者の女子大生は素行に問題の無い真面目な学生で、被害者の男性との交際も順調だったという。だからこそ今回の事件が信じられないと、取材を受けた友人たちは口々に語っていた。
「好きなのに、殺すんだな。」
独り言みたいに僕は言った。事実、独り言だった。無意識に声になっていた。未遂とはいえ『殺人』の二文字が勝手に関連付けてしまう。
頭の中が、名塚月乃でいっぱいになっていた。否が応でも意識してしまう。
伝わる報道がいやに彼女を掘り起こす。
十七年前の事件当時、名塚月乃の犯行について関係者たちは、「信じられない」と口を揃えていたらしい。
円満だと評判だった夫婦。
愛する夫を殺した妻。
身重で起こした凶行。
そして、不可解な自害。
謎ばかりが残る事件は様々な憶測を呼び、『信者』とされる人間たちをも生み出した。
『信者』の一部は模倣犯となり、その多くは十代二十代の若い女だった。
交際相手を切りつけた少女、意中の相手を監禁した女学生、婚約者に薬を盛った女………殺害にまで発展した事件こそ無かったものの、『信者』たちは世間をざわつかせた。
さすがに……考えすぎか。もう十七年も昔の話だ。
「未遂なんだから、殺してないでしょ、」
雨宮の声で正気づいた。僕の独り言に返事をしている。
「未遂なら殺意はあったんだろ。」
好きなのに、殺す。好きなのに。自分の独り言が、頭のなかでこだました。
「……なあ、変な話していい?」
こだまに負けじと声を出す。雨宮は「いい」と答えない。頷きもしないけれど、僕は勝手に話し始めた────
────ある女が、妊娠中に自分の夫を殺したんだよ。
仲睦まじい、ごくまっとうな夫婦だったんだって。腹の子は、二人にとって待望の子どもだったんだって。二人の人生で一番幸せなときだったんだ。それなのに女は夫を殺したんだ。好きなのに。
女は逮捕後に子どもを産み遺して自殺。すげー話だよな。
雨宮がじっとみつめてくる。
僕は目を逸らして話し続けた。
この話、それだけじゃ終わらなくてさ、
女が夫を殺したとき、第一発見者として、義理の姉が居合わせたんだよ。その義姉も同じく妊婦で、しかも臨月。
義姉は女が遺した赤ん坊を、産まれたばかりの自分の息子と一緒に育てるって引き取ったんだ。でも周りは猛反対。あたりまえだよな。唯一味方だった旦那も、最終的には無断で赤ん坊を養子に出しちまった。
義姉は激怒するわ号泣するわの大発狂。家庭崩壊寸前になったけど、夫婦はなんとか立て直したんだ。自分たちの子どもも、いたし。なんとか幸せに、暮らしていたんだ。
でも、義姉は、何年もかけて、裏でこっそり養子縁組先と接触していた。
……それで、会いにいったんだ。
五歳になった息子を連れて、五歳になったあの子に、会いにいったんだ────────
「……おわり?」 雨宮が躊躇いがちに聞く。
「ああ、おわり。」 僕はきっぱりと言い切る。
視線を合わせる。
雨宮はやっぱりじっとみつめてくる。
「それからどうなったとか、ないのね。」
僕は頬をゆるませた。
「なー、どーなったんだろーなー。」人工的な笑顔でちゃらける。
雨宮は真面目な顔で、ずっとみつめてくる。
僕はまた目を逸らす。俯いて目を逸らす。
胡坐を組み直すと、ベッドが微かに軋んだ。
そのまま動けなくなった。
顔が上げられなくなった。
彼女の顔が、見られなくなった。
「俺も、知りたいんだけどさ、」
俯いたまま、笑顔が解けなくなっていた。
また、独り言になっていた。
………ずっと、忘れてたんだよ、
『五歳の息子』は、十七歳になった今、
その日のことも、『あの子』のことも。
なさけないよな。どうしようもないよな。今になって思い出すなんて。
忘れたくて、忘れてたんだ。忘れちゃいけなかったのに。
忘れちゃいけなかったんだ。
だって、ふたりは、────────
…………?
目の前に、温かい暗闇が広がった。
雨宮の手が、僕の瞼を塞いでいる。両手で覆っている。
そのまま唇も塞がれた。声を出す間もなく塞がれた。
彼女のにおいがした。
「ド変態なうえに創作癖まであるなんて、救いようがないわ。」
僕を解放してすぐ、雨宮は言った。あきれた視線を向けてくる。
僕の笑顔はすっかり消えていた。それどころじゃなかった。散らばった頭のなかを整理整頓しようと、たった今、自分の身に起きた出来事を必死に遡る。
「今、何した?」壊れたロボットみたいに聞く。
「口、塞いだ。」正常なロボットみたいな返事がくる。
え、ちょ、塞いだ、って……
「駄作過ぎて聞いてらんないわね。もっと構成練りなさいよ、無能。」
いつもの調子で辛辣に吐き捨てて、僕を小突く。
「人間、忘れるようにできてんのよ。大事なことも、些細なことも、ぜんぶ。思い出せて良かったじゃない。」
じっとみつめて真面目な顔で言う。
なんでか泣いてしまいそうになりながら、今度は自然に、どうしようもなく本格的に、ばかみたいに、僕の笑顔はこぼれた。
「せっかくだからセックスもしとく?」
軽く誘ってみる。
「くたばれ。用が済んだら帰れクソ童貞。」
無論拒否される。
それにしたってあんまりな言いぐさだ。呼び出したのはどっちだよ。意見すると、雨宮はますます睨みつけてくる。
「あんたを父に突き出してもいいのよ?」
「? でも俺、すっげー気に入られたっぽいけど、」
「だから用心することね。父は若い頃から、生粋のアバズレよ。」
まじかよ。驚いたけれど少し冷静になって、悩んだ。顔似てるし、いけるか? 悩んでみたけれど、やっぱり「ナシ」だった。真に受けるんじゃないわよと、雨宮が引き気味に察してくる。その場では笑ったけれど、帰り際、玄関まで見送ってくれた八重さんに、僕らは二人して勝手に気まずくなっていた。
彼女はなんだろう。別れまでの残された時間、考えた。
仲村が安息で、百香が救いなら、僕にとっての雨宮糸子は。まるで、靄と隣り合って歩く気分だ。
「うちの駐車場、使えばよかったのに。」
パーキングに向かう道中で、雨宮は言った。
そうもいかないだろ。不法侵入になるじゃん。「なるでしょうね。」なるのかよ。って言うかさ、予備校行ってるなら終わってから呼べよ。「時間指定したところで、守らないでしょ。」どれだけ気まずかったと思ってんだよ。「父は楽しんでたみたいよ。」俺は気まずかったの。「そう。ずいぶん盛り上がってるように聞こえたけど?」立ち聞きとか悪趣味だな。「変態には負けるわ。」
歩幅と同じ速度で会話を交わす。無遠慮に心地よく進む。
僕らは言葉を選ばない。雰囲気を守らない。嘘をつかない。顔色も窺わない。
雨宮糸子は僕のなんだろう。優先順位の、どこにいるのだろう。
パーカーワンピースにサンダル姿の雨宮は、ひのでに比べると身体の凹凸も色気も無くて、貧相にみえた。でもセックスはできる、と即断できた。したい、じゃなくて、できる。
「えらい上から目線ね。」きっと雨宮ならそう言って、睨みつけてくるだろう。間違いなく拒絶してくるだろう。それならそれで諦められる。これも即断できた。だけど手放したくもない。自分の矛盾に正直なぶん、彼女の優先順位は、仲村や百香よりずっと難解だった。
「またくだらないこと考えてるんでしょ、」
気づくと、パーキング到着間近だった。雨宮が立ち止まって目を据わらせている。
「あんたが黙ってるときって、大抵、ろくでもないこと考えてるもの。」
あながち間違ってない。
「セックスできそうだな、って思ってた。」
冗談めかして正直に告げた。
「えらい上から目線ね。未来永劫、ありえないわよ。」
「キスしたくせに?」
「ふ、さ、い、だ、の。」
本気でそれで押し通すつもりのようだ。僕もそれでいいやと納得した。
雨宮糸子は僕のなんだろう。優先順位の、どこにいるのだろう。
僕は雨宮糸子のなんだろう。彼女の優先順位に、僕は存在しているのだろうか。
これ以上は疲れるから、やめた。
どうせ、答えなんて出ない。
「ここでいいよ。」
立ち止まった場所で手を振った。雨宮は振り返してこない。ばいばいも、おやすみも言わない。けれど立ち去る素振りも見せない。彼女なりの見送り流儀に則って、ひとり歩き出した。
「……………皆口、」
距離という距離は空いてなかったと思う。雨宮が僕を呼んだ。
「────ッ……、」
振り向くよりも先に背後に気配を、間を置かず、背中全体に体温を感じた。
雨宮が後ろから抱きついていた。僕の背中に、顔をうずめている。
「あたし……あんたが嫌い。」
密着する体がふるえている。怯えるように、しがみついている。
僕はそのまま固まった。服をきゅうと掴まれる。
「きいて。」
かぼそい声が、背中越しに言葉をつらねる。弱々しく告げる。
みなぐち、きいて、
「 、 、 。」
「『 』 、 。」
「 ………────────」
明かされた真実に呼吸ができなくなる。
ありとあらゆる記憶をたぐり寄せて、繋ぎ合わせて、過去を疑う。あがいても抗っても背いても、受けとめるしかなかった。
ふたりの、十七年間を。




