43 『記憶』
「どうして愛してくれなかったの、」
母さんの泣き叫ぶ声で、夢に気づいた。
夢のなかで僕は、むかしの子ども部屋にいた。
常夜灯を点した薄暗い部屋に、二組の布団が隙間無く隣り合っている。その真ん中あたりで、小さな山がもぞりと動いた。
「……おにいちゃん、」
「……だいじょうぶだよ。」
僕とひのでだ。毛布をかぶって身をまるくしている。
部屋の外から響く喚きと怒号を聞きながら、幼い二人をみつめた。
まるで防空壕に防災頭巾だな。十七歳の僕は、他人事みたいに薄く笑った。
全然、大丈夫じゃなかったんだよな。しゃがみこんで、五歳の僕を覗き込んだ。幼心にも罪悪感があるのか、下唇を噛み締めている。
この大嘘つきめ。この先、苦労するんだからな。届かない忠告を残す。
「……おにいちゃん、おにいちゃん……」
ひのでが何度も僕を呼んでいた。瞼を堅く閉じて、必死に眠ろうとしている。
毛布の上から妹に触れてみようにも、透けてしまう。夢なんだから当然か。
災難だよな、今日に限って。時計の針が0時を越えている。三月二十一日になっていた。
「誕生日おめでとう、ひので。」
感触の無い愛撫を繰り返しながら、届かない祝福を送った。
そうだ。ひのでの誕生日の前日だったんだ。
朝一番にプレゼントを渡して、びっくりさせようねって、みんなで計画していたんだ。
プレゼントは内緒で買わなきゃって、母さんは父さんにひのでを任せて、僕と街に出たんだ。ひのでの大好きなキャラクターのぬいぐるみをみつけて、母さんはお店の人に、ピンクの包装紙と黄色のリボンを頼んだんだ。
「ちょっと、遊んでいこっか。」
ぬいぐるみが包まれるのを待っている時に母さんが言った。「近くにね、お部屋の中にある遊園地があるのよ。」僕はその提案を喜んだ。
「お父さんと、ひのでには内緒よ。」
母さんは口元で人差し指を立てた。
遊園地につくと、母さんは電話で誰かと話し始めた。周りを見渡している。すると今度は、どこかに向かって大きく手を振って、電話をきった。
手を振る先から一組の親子が近づいてきた。
次の瞬間、目の前が、ぶれた。
バグを起こしたテレビ画面みたいに、景色が、人影が、目に映るものが途切れてゆく。
不鮮明な記憶が、僕を置き去りにして進んでゆく。
十七歳の僕は瞼を擦りながら、必死に夢を目で追った。
親子の、母親と思われる女の人が、僕と視線を合わせて会釈していた。
「はじ×ま×て、」
ノイズみたいなのも混じってきた。たぶん今のは、「はじめまして」、だろう。
「旭。×の×はね、お母×んの、お友××。」
「よろ××ね、××ん。」
女の人の顔がよく見えない。背格好だけなら小柄な人だ。
「ほら×××ない×、あん×も挨××て、」
女の人は、後ろで隠れている子供を前に促しているみたいだ。
ノイズが濃くなる。バグが強くなる。
夢が、いよいよ見えなくなってゆく。
「………××××、×××、です。」
あなたのお友だちよ。母さんが僕の背中に触れたところで、場面が替わった。
「今日ね、ゆうえんち行った。」
切り替わった先は、自宅の脱衣所だった。父さんが僕の髪をわしわしと拭いている。
「よかったな。楽しかったか?」
先ほどとは一変して、声も姿も鮮明な夢に戻っていた。
「お友だちと遊んだよ。」
幼い僕が、得意気に話す。
「百香ちゃんも一緒だったのか?」
「ううん。ももかじゃないよ。」
幼い僕が首を振る。
…………っ、
………だめだ。それ以上は言うな。
唐突に悪寒が走る。僕は幼い僕へ、届かない声を投げた。
「えっとね、お友だちの、おなまえね、」
言うな…………言うな、言うな、言うな言うな言うな言うな言うな言うな言うな言うな言うな……!
「×××××××××。」
────────、
今日、どこに行った?
誰と、会っていた?
旭を……誰に会わせたんだ……!
………………。
………旭に、会わせたわけじゃないわ
あたしが会いたかったの あの子に
「あなたはあの子を、どうして愛してくれなかったの?」
────────。
…………ようやく、理解した。
どうしてあの日、両親が衝突したのか。
兄妹が、怯えなきゃならなかったのか。
父さんが、離れてしまったのか。
ひのでが、祝福されなかったのか。
皆口家は立て直していたはずだった。過去になんて蓋をして、新しく、幸せになっていたはずだった。それなのにどうして、たった一晩で、崩れてしまったのか。
“お父さんと、ひのでには内緒よ。”
僕のせいだったんだ。
母さんとの約束を、破ってしまったから。
夢は記憶だ。僕は忘れたかったんだ。忘れちゃいけなかったんだ。事態が起きてしまってから消去しても、意味なんてないのに。無理やり握りつぶした記憶が、バグとなって夢を蝕む。
あの日、母さんは僕を、
“あなたのお友だちよ。”
引き合わせたんだ。
名塚月乃の、子に。
“………××××、×××、です。”
きみまで、消して、ごめん。
どうしよう。顔も声も名前もみつけられないんだ。
きみのこと、思い出せないんだ。
きみをみつけられないんだ。
これは、あやまちから目を背けた報いなのか────────
枕元でスマホが震えている。
目が覚めても現実に気づいても、体が動かない。暗い部屋に液晶の光がせわしく瞬いて、重たい右腕を伸ばした。
『着信 雨宮糸子』
画面を見るなり飛び起きて、耳に押し当てた。