42 『救済』
突如として現れた分身に息を飲み、その正体に困惑する。
ひのでだ。間違いない。間違えるはずがない。板の無い鏡に映るのは文字通り僕の分身、妹だ。
見慣れない銀髪とかごてごてのピアスとか、異なりは少なからずあるにしろ、その顔は紛れもない、瓜二つ。
「おかえりなさーい。」
百香の呼びかけと同時に、ひのでは逃げるように二階へと消えた。
ドアを開けたままの状態で、驚きを隠せないでいる僕を目にして、おおよそを察したのか百香は声を潜める。
「びっくりしたでしょ? あれ。」
百香の説明によると、美容室から戻ったときは、ここまで瓜二つじゃなかったらしい。
「百香も最初は驚いたよ。ひのでって、すっぴんになってもカラコンだけは死守するし、マツエクオフするのも久しぶりでしょ? 完全な素顔って、ずいぶん長いこと見てなかったんだなー、って思っちゃった。」
高揚したようすで百香は声を弾ませた。比べて僕は、あまりの驚愕からテーブルについてからもまだ少し茫然としていた。
「あれで髪黒くしたら、ほとんど旭だよね。絶対見分けつかない。」
冗談がちに百香は笑うけれど、冗談じゃない。深いまばたきをしながら頭を振った。
「見分けつかないは言いすぎ。背、あいつのほうが高いじゃん。」
「脚も長いしね。」
うるせえよ。言い返しつつ、はっと気づいた。
仲村がクラスメイトから得た目撃証言の正体は、おそらくひのでだ。
ひのでなら百香と腕を組んで歩いていても不思議じゃないし、あの銀髪やピアス姿も、『夏休みで羽目を外した皆口旭』と見紛ったものだとすれば、納得もいく。もの凄い迷惑な話ではあるけれど。
「……あいつって、本当は全然、美人じゃないんだな。」
「自分で言って悲しくならない?」
本当に、どこまでも風評被害な妹だ。
「でもさ、つまりさ、旭もばっちりメイクしたら、ひのでくらい美人になれるってことだよね。」
恐ろしい軽口を叩かれ、また鳥肌が立った。ふざけんな。つーかもう整形レベルの詐欺じゃん、女の化粧って。よくわからない悪態をつく僕に対して、百香はあっけらかんと笑い飛ばす。
「それより、もっと喜びなよ。せっかく可愛い妹が帰ってきてくれたんだから。」
たしかにそれはそうだけど、できることならワンクッションというか、心の準備くらいさせてほしかった。いや別に可愛くないし。
っていうか、ひのでも居るなら居るって言えよ。
収拾のつかない感情が、八つ当たりみたいに湧く反面、今回も彼女に感謝しなくてはと思う恩義が邪魔をしていた。
“優先順位。上なんでしょ、おれより。”
不意に、仲村の言葉が頭をよぎる。
優先順位……とか、そういうんじゃないんだよな、百香の場合。彼の理不尽な批判を真っ向から否定できそうにない自分に、ほんの少しだけ嫌気がさした。
「おまえさ、仲村ってどう思う?」
これは完全に僕が悪い、あまりにも単刀直入な質問だ。当然、百香は首を傾げる。
「なあに突然?」
いや、えっと、なんとなく、おまえ的にああいう男、その、どうなのかな、みたいな。咄嗟にむちゃくちゃな理由を、無理やり添えた。
「んー。どうって言われても、面識ないしなあ。でも女子には評判いいよね。百香は全然タイプじゃないけど、顔とか。」
百香はすんなりと質問を受け容れて、真面目に返答する。その評価が好感なのか嫌悪なのかは微妙なところだけど、えくぼを見せているあたり、少なくとも悪意は無いみたいだ。
「でも、旭と仲良いなら悪い人じゃないんじゃないかな。」
やっぱり好感寄りらしい。百香が仲村を素直に評価するほど、彼が憐れになってくる。
『馴れ馴れしくて』『痛々しくて』『独善的で』『あざとい』……よくもまあ、あそこまで言えたものだ。
「雨宮が言ってたんだけどさ、おまえ、仲村に似てるんだって。」
今となっては、雨宮の意見にも概ね同意できそうである。
「えーなにそれー。」
百香はわざとらしいくらいに目尻をさげて、口元に手を置いた。
「……モモカちゃん、」
気づくと、リビングの入り口にひのでがいた。ドアを薄く開いて顔を覗かせている。
「テレビ、始まるよ、」
先ほどは外していたカラーコンタクトを装着し、前髪をピンであげているあたりに、彼女なりの抵抗が垣間見えた。
「えっ、もうそんな時間? 始まる前にアイス買ってこようと思ったのにー。まーいっか。ほら、ひので、こっちこっち。一緒に見よ。」
僕ら兄妹に流れる気まずさもお構いなしに、百香はおおげさに明るく振舞った。彼女の手招きに従って、ひのではリビングに入ってくる。
二人が絨毯に並んでテレビを点けると、ニュースがやっていた。都内で傷害事件があったようだ。
「今日○○くん出るんだよねー。超楽しみ。」
百香のはしゃぐ声で、詳細までは聞き取れなかった。
百香が、こういう行動をとるようになったのは、僕の正体……つまるところ、皆口や名塚や名塚月乃の真相に触れてからだ。
傷害事件や殺人事件、そういった類いの報道が流れるものならば、チャンネルを変えたり、今みたいに別の話ではぐらかしたり、とにかく僕の目や耳に入らないようにしている。
正直ばればれだけど、百香なりにさりげなくのつもりなのだろう。きっとこれも彼女の厄介な優しさなんだ。
悪意が無いぶん、たちが悪いなあとつくづく思う。そしてその都度、優しい女だなと溜め息が出る。最近はとくに、溜め息が深い。
僕にはこの幼馴染を、優先順位で図ることなんて、きっとできない。
優先順位なんて一言でまとめても、『必要か不要か』『便利か不便か』『大切か粗末か』『愛か憎か』で、大きく異なってくる。
僕にとってこの桂木百香という存在は、その、仲村が指摘する優先順位のどこにカテゴライズすべきなのかが、わからない。
ただ、ひとつだけ言えるとするのなら、
「旭もほら、こっちで一緒にみようよ。」
今の僕にとって、
皆口旭にとって、彼女は『救い』だ。
妹同様、手招きに従ってソファに座った。ひのでを真後ろから見下ろす。
「似合うじゃん、髪。」
短くなった後頭部に向けて、僕は言った。
「うるせーよ。」
ひのでは正面を向いたまま、無気力に吐き捨てた。
「でも銀はやりすぎだろ。」
「銀じゃない。アッシュ。」
「あっしゅ?」
「ジジイかよてめーは。」
「おまえと一つしか違わないだろ。」
「二つだろ。」
「あ、そっか、おまえ早生まれか。」
「バカだろおまえ。」
「あ? こちとら学年一位様だぞ?」
「私は一位以外とったことないし。」
「こらー。ケンカしないの。」
和やかな仲裁が入ったところで、番組が始まった。
特番の学力クイズ番組で、百香お目当てのアイドルもちゃんと出ている。意外と難問揃いで、僕と百香は所々不正解なのに、ひのでは見事正解ばかり出していた。
「旭。CM入ったらアイス買って来い。」
「は? なんで、」
「おまえは四問、私は全問正解だった。」
「だからなんだよ。」
「モモカちゃんのぶんも。」
「いや、だからどうしてそうなるんだよ、」
「わーい。じゃあ百香、パピコね。コーヒーのやつ。」
おまえも便乗してんじゃねーよ。僕は文句をたらしながら立ち上がり、財布とスマホとバイクのキーをポケットに突っ込んだ。
五分で買って来い。ひのでが百香の膝枕から偉そうに言う。安全運転で急いでねー。百香がまた便乗して、手を振る。
……彼女は救いだ。仲村が安息であるのと、同じくらいに。
「うるせー。」
僕は捨て台詞を残してコンビニへ向かった。
その日の夜は、なかなか寝付けなかった。
いろいろ、考えてしまったんだ。
皆口のことや名塚のこと、明かされた自分の出生に、十七年前の事件。
いろいろ、ありすぎたんだ。
名塚旭が皆口旭に至るまでの経緯真相は、たかだか十七の子供にとって重く圧し掛かるには充分な、残酷な真実であるはずなのに、僕は泣き崩れそうにも塞ぎ込めそうにもなかった。
その理由が、脅威だったはずの彼に安息を覚えたり、鬱陶しかったはずの彼女に救われたり、関係の良くない妹と、兄妹なりのかたちで、ちゃんと、兄妹になりつつあったり……
皮肉にも手放してしまいたかった物ばかりに、今の僕は保たれている。
そしてその中には、雨宮糸子がいない。
手放したくなかったのは彼女だけだったのにな。
名塚だの事件だのそんなものよりも、平穏に存在しない雨宮のことばかりに悶々としてしまったからだろうか。
罰が当たったのだろうか。
ようやく眠りへとおちたその先で、夢をみた。
夢を みてしまった ────────




