41 『夏休み』
八時半前には終わると連絡を受けたので、八時十五分に到着すると、仲村は既に予備校前で待っていた。正面口で手を振っている。
「外やばいね、暑い。」
「中で待ってればよかっただろ。」
会話を挟みながら、手馴れたようすで後ろに座る彼を乗せて、すぐに出発した。
仲村は、夏期講習で英語と物理を受講している。まがい物の優等生なりにも、一応の努力は惜しまないらしい。
「皆口くんも一緒に通おうよー。」
一度、誘われたことがある。
「通うとしても数学だな。」
そんな気更々なく適当にはぐらかすと、仲村は、「一緒にいられないじゃん」と唇を尖らせた。何のために通ってるんだよ。
「いいんだよ。一応だもん、こんなの。」
「はあ、一応……ねえ。」
僕は僕で、またはぐらかした。
彼との夏休みは至って平穏だ。ここ最近の私生活でのごたごたが、この時間だけ全部無になる。
こうやって、予備校帰りの彼を拾って、あてもなくバイクを走らせたり、気まぐれにファミレスに入ったり、その日次第で解散したり、仲村宅ですごしたり……。彼のお望みどおりの夏休みを、それなりに満喫している。まあ、まだ海にも行ってなければ旅行の予定も立てて無いけれど。
「そういえば、好きな人の話もしてない。」
やぶからぼうに仲村は言った。
僕は、捲りかけの雑誌を変な位置で止めたまま、口を半開きにした。そんな間抜け面を、仲村は目をぱちくりさせて見据えてくる。
「恋バナだよ恋バナー。これだけ一緒に遊んでんのに色気のある話一つ出てこないとか不健全すぎない? 高校生として!」
大真面目に熱弁をふるう彼へ、大きめの溜め息をついた。
「もてない特進生に何を期待してんだよ、」
「最近はわりかし、陰キャ色消えてると思うけど?」
「根本はぼっち維持してるっつーの。」
ふうん。露骨に不満な顔をして黙る。彼がおとなしくなってから、雑誌の続きを二ページほど捲ったときだった。
「桂木さんとは付き合ってるの?」
またやぶからぼうだった。
あ。これきっと面倒なやつだ。
第六感が働いて振り向くと、お察しのとおり仲村は不機嫌そうに枕を抱え込んでいた。
「クラスの女子が見たらしいよー? 腕、組んで歩いてたって。」
しかも、心当たりのない目撃証言まで突き立ててくる。ほーらやっぱり面倒だぞこれ。
「ない。ありえない。絶対ない。」
まずは簡潔に全否定した。百香とは夏休みに入ってからは、一度も出掛けちゃいない。バイクにも乗せていないし、腕を組んで歩くなんてもってのほかだ。そりゃ、家に来ることは何度かあったけれど……なんて言うと、余計に話がややこしくなりそうなので、ふせておいた。
「見間違い、人違いだろ。」
「じゃあ付き合ってないの?」
「だからそう言ってんだろ、」
「じゃあセックスしてない?」
質問の順序がおかしいだろ。あけすけな物言いに不快感を示すと、仲村は「だってえー」とむくれながら枕に伏せた。拗ねているのか、顔を沈めたまま動かない。本格的に面倒臭くなってきたので、相手にしないことにした。
雑誌を開く視界の隅で、時々ちらちらと視線を感じる。無視だ、無視。
「……皆口くんには悪いんだけど、」
こういうとき仲村は案外辛抱がない。構わないでいるとすぐ痺れを切らして口を開く。
「俺さー、桂木さんってなんかきらーい。」
へー。すこぶるどうでもいい。無関心に頁を捲る僕に、仲村は喋り続けた。
「なーんか典型的なオンナって感じが無理ー。彼女ヅラもいいとこってゆーか、幼馴染ってモンを履き違えてない? 距離感が癪に障るんだよねー。彼氏じゃないけど特別な男がいまーすって吹聴したいのが見え見えでさあ、痛々しいっての。あれ絶対勝手に部屋掃除した挙句、AV発見してキレるタイプだよ。」
べらべらと出るわ出るわの中傷の嵐は、少なからず的を射ていた。なんだか目の付け所が女みたいだな、こいつ。つい口を出してしまいそうになったけれど、無視に徹すると決めた以上、反応するわけにはいかない。
「ねえー、聞いてるー?」
仲村はついに雑誌を取り上げる強硬手段にでてきた。
「それ聞かされてどうしろと、」
「だからあ、俺、気に入らないの。あの子。」
面倒だなあ。珍しく会話が成り立たない彼に観念した。
「馴れ馴れしくて、痛々しくて、独善的で、あざとい。」
まだまだ言い足りないとばかりに、仲村は百香への中傷を付け足した。僕ははいはいと適当に頷く。
その態度が気に入らなかったのか、もしくは感情の強調ゆえか、彼は突然、覗き込んで強引に視線を合わせてきた。
「なのに、勝てそうにないんだ。」
「? なんの勝負だよ、」
「優先順位。上なんでしょ、おれより。」
仲村は真面目に言った。このうえなく真面目に。
顔のぜんたいと、声の音に、まだ不機嫌が残っている。喉まで昇っていた反論が、口のなかで溶けてしまった。つられて、僕まで真面目な顔になる。
「うそだよ、バーカ。」
見計らったかのように、仲村は両手のひらを見せた。
「やっぱり面白いなあ、皆口くんは。」
悪い顔をしてけたけた笑う。そのとおりだよ俺が馬鹿だった。我に返って激しく後悔しつつ、冷ややかに彼を睨んだ。
怒らないでよー、マンネリ防止の一環だよおー。仲村は愉快に茶化すだけである。僕は色々と諦めて、取り返した雑誌を再度開いた。
「ま、嫌いってのは本当だけどね。」
横から声がしたけれど、今度こそ根気強く無視に徹した。
彼との夏休みは、やっぱり平穏なんだと思う。
振り回されても、面倒でも、悪ふざけが過ぎても、諍いには発展しないし、関係も良好なままだ。それもこれも僕の寛大さの賜物……と思いたいところだけど、実のところ仲村の存在は、今の僕にとって唯一の安息となっていた。
ひのでは兄妹喧嘩の一件から、帰ってきていない。
別に、外で問題を起こしているわけじゃないし、逃亡先は百香の家だし、母さんには連絡だって入っている(らしい)。それでも、こうもあてつけがましく帰ってこないと、原因を作った側としてはどうにも居心地が悪い。
それに加えて、我が家ではひのでとは別件で、新しい問題も生じていた。
あの離婚宣言以降、母さんは目に見えて僕に気を遣っている。
言葉を交わせば常に顔色を窺ってくるし、表情にも無理が出てきた。僕は僕でそれに気づかないフリをしないとだし、更にはタイミング悪く、母さんの知らないところで彼女の(というより皆口家の)過去に触れてしまったし、まさに、お互いがお互いを腫れ物扱いである。
身勝手な話だ。僕は母親からの依存に辟易していたはずなのに、距離ができれば憂鬱に感じている。
居心地の悪さを感じているのは母さんも同じみたいで、最近は必要以上に早く出勤して、無駄に遅く帰宅するようになった。僕も仲村が歓迎してくれるのをいいことに、彼を唯一の安息の地として求め、頻繁に家を空けるようになった。
最近では母さんと二人きりの食卓も懐かしい。無論、くだんの離婚話についても進展はない。
うやむやにするくらいの宣言なんて、するもんじゃない。
母さんに避けられていると感じるたびに、内心で毒づいた。向き合う覚悟だって無いくせに……時々、ひとりのときでも毒づいた。そんなふうに今夜も毒づきながら、物憂い気分で、帰路についた。
待ち人の、いないはずの我が家に灯かりが点っていた。
窓の向こうには、それとなく人の気配も感じる。バイクをゆっくり片付けながら、様々な可能性を疑った。
母さんかひのでか……二つに一つだ。
どっちが居るかで対応が変わってくるな……玄関までの短い道中でわずらっていると、スマホが震えた。液晶画面に『桂木百香』が表示される。
『お邪魔してるよー。鍵あけとくね。』
メッセージを読むなり、肩の力が抜けた。
まあこんなことだろうと、今しがたの緊張感に呆れる。途端に足どりが軽くなって、何の抵抗も無くドアを開けた。
「ただいま────」
次の瞬間、僕は停止した。
思考も、呼吸も、まばたきも、動作も何もかも。
ありえない人物と遭遇した。
僕だ。僕がいる。
目の前に、僕じゃない僕がいる。
何が何だか理解できなかった。理解するのに時間がかかった。理解したときには鳥肌が立った。
「────! おま……え、」
くすんだ銀髪と、えげつないピアス。
僕のようで僕じゃない、鏡の中でしか見たことのない、世界で一番見覚えのあるその顔の持ち主は、妹だった。




