38 『追窮』
どうして愛してくれなかったの?
あたしたちが親になるべきだったのよ。子どもに、罪なんて無かったんだから。
どうして捨てたの? 同じ血が流れているのに、どうして手放せたの?
旭やひのでと、何が違うっていうの?
どうして愛してくれなかったの。あなたの家族だったじゃない、
愛されない子どもなんて……あんまりじゃない。────────
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待ち合わせの十五分前に、父さんは現れた。
「何分から来てたんだ?」
薄まったアイスコーヒーを見るなり、眉を八の字にして聞く。
「十一時くらい。」
僕は正直に答えた。それは待たせたな、悪い。父さんが無駄に謝罪する。続けて、それじゃあ昼食に行くか、と、席を立つよう促した。
「もう一杯、コーヒー頼めないかな、」
首を振ってから、僕は言った。
「少し、話したいことがあるんだ。」
それから、ちょっとだけ俯いた。
しばらくして、二人分のアイスコーヒーをトレーに乗せて、父さんは戻ってきた。座るなりストローを吸うと、一気にグラスの半分くらいまで減った。
母子手帳を前に、父さんは至って落ち着いていた。百香みたいに判りやすい動揺は無いけれど、しいていえば諦めているような、降参みたいな顔をしている。
「見つけたか。」
いいわけの一つもせず溜め息を落とす。僕はこの人のこういうところが、けっこう好きだ。時々、やりづらさもあるけれど。
「ひのでのは、どうしてもみつからなかった。」
「ああ。お父さんが持ってるからな。」
「父さんが?」
「ひのでの予防接種や健診は、お父さんの役割だったんだ。あいつ、お父さんじゃなきゃついてきてくれなくてな。」
「母さんからも聞いたかも、それ。」
「むずかしい子だったからな。」
淡々と話が進む。
「それで、この名塚って、苗字についてだけど、」
淡々に紛れて僕は尋ねた。
「母さんの旧姓は、瀬田だよね?」
不穏を避けて、動揺を見透かされないように、慎重に声を作る。
「名塚旭って、俺のこと、だよね?」
手帳をみつけた瞬間から、確信はあった。百香が顔色を変えたのも、たぶん、僕と同じ確信だ。
経緯も、事情も、真相も、何もかも不明瞭なのに確信だけはある。名塚旭は、皆口旭より古い、僕のなまえ。
僕の本当のなまえだ。
「…………三千、ろっぴゃく……四十二グラム、だってさ。」
名塚旭の手帳を広げて、僕は出生体重を読み上げた。
「ほんと、おっきく産まれたんだね。」
百香は、やわらかく返事をした。
皆口旭の出生体重は、空欄だった。
名塚旭って、俺のこと、だよね?
俺、知らなかったよ、こんな苗字。
ずっと、皆口のつもりだったから。
俺は、いつから皆口旭なの? ほんとうは、どっちなの?
どうして俺は、このなまえで産まれたの?
今日までに質問は絞ってきた。けどられまいと練習もしてきた。それなのに唇が震える。どうしても喉が渇く。質問の順序が、間の取り方が思うようにいかない。父さんを直視できない。答えを知るのが怖い。
僕はおおげさにコーヒーを飲み干した。
「これは、俺の、憶測で、聞くんだけど、」慎重に前置きする。
俺の父親は、ほんとうに父さんなの?
ひのでの母親は、ほんとうに母さんなの?
俺とひのでは、本当のきょうだいなの?
三つの質問を、区切って、ていねいに声にした。腹をくくって答えを待つ。
散々用心していたはずなのに、僕は不穏にどっぷり浸かりこんでいた。表情からしぐさ、声から吐く息まで、ぜんぶ。
並んだ二冊の母子手帳を両手にとって、父さんは静かに瞼を閉じた。
「……いっぱい、悩ませたみたいだな。」
ゆっくり瞼を開けて、落ち着き払ったまま、穏やかに目をほそめた。
「答えは全部イエスだ。安心してほしい。」
その一言で、初めて身体じゅうこわばっていることに気づいた。全身から力が抜けて、深呼吸みたいなため息をおとす。
父さんは人目もはばからず、僕の頭をわしわしと撫でた。やめてよ、と言ってみたものの、拒絶する力は残っていない。
「旭の父親は間違いなくお父さんで、ひのでの母親もお母さんだ。おまえとひのでは、二人とも、お父さんとお母さんの子どもだ。」
質問の答えについて、父さんも一つ一つ、ていねいに言い添えた。
さらに証明するように表紙を指差して、修正した形跡なんて無いだろう? と、おだやかに首を傾げた。二冊とも苗字は異なるものの、保護者の欄にはそれぞれ、父『ひずる』と母『陽』の名が、間違いなく記されている。僕はぼう然と、ただただ安堵した。その様子に、父さんも肩の力を抜いて椅子にもたれた。また、降参みたいな顔をする。
「簡単なことじゃないんだ、」
やがてこぼすように言った。
簡単なこと? 聞き返しても、父さんは降参の顔のまま、ぼんやりとしている。
「……父親が違う、母親が違う、血の繋がりが無い。そんな、簡単なことじゃ、」
声は呟いているようで、はっきりと僕に届く。こういうところがやりづらいんだよな、このひとは。
「じゃあ、教えてよ。」
僕はもう少し欲張ることにした。
「この、名塚については、まだ聞いてない。」
たまには、やりづらい息子になってやる。
「俺に隠していた十七年間を、教えて。」
限りなく透きとおったグラスのなかで、氷がかりんと崩れた。
昼時を迎えた店内が混み合い始めている。場所を変えよう。トレーをさげる父さんを待って一緒に外へ出ると、忘れていた日差しに目がくらんだ。




