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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第六章】 ふたつのなまえ
39/92

38  『追窮』




 どうして愛してくれなかったの?


 あたしたちが親になるべきだったのよ。子どもに、罪なんて無かったんだから。

 どうして捨てたの? 同じ血が流れているのに、どうして手放せたの? 

 旭やひのでと、何が違うっていうの?


 どうして愛してくれなかったの。あなたの家族だったじゃない、


 愛されない子どもなんて……あんまりじゃない。────────





 ────────


 ────────


 ────────









 待ち合わせの十五分前に、父さんは現れた。


「何分から来てたんだ?」

 薄まったアイスコーヒーを見るなり、眉を八の字にして聞く。

「十一時くらい。」

 僕は正直に答えた。それは待たせたな、悪い。父さんが無駄に謝罪する。続けて、それじゃあ昼食に行くか、と、席を立つよう促した。


「もう一杯、コーヒー頼めないかな、」

 首を振ってから、僕は言った。


「少し、話したいことがあるんだ。」


 それから、ちょっとだけ俯いた。

 しばらくして、二人分のアイスコーヒーをトレーに乗せて、父さんは戻ってきた。座るなりストローを吸うと、一気にグラスの半分くらいまで減った。






 母子手帳を前に、父さんは至って落ち着いていた。百香みたいに判りやすい動揺は無いけれど、しいていえば諦めているような、降参みたいな顔をしている。


「見つけたか。」

 いいわけの一つもせず溜め息を落とす。僕はこの人のこういうところが、けっこう好きだ。時々、やりづらさもあるけれど。


「ひのでのは、どうしてもみつからなかった。」

「ああ。お父さんが持ってるからな。」

「父さんが?」

「ひのでの予防接種や健診は、お父さんの役割だったんだ。あいつ、お父さんじゃなきゃついてきてくれなくてな。」

「母さんからも聞いたかも、それ。」

「むずかしい子だったからな。」


 淡々と話が進む。


「それで、この名塚(なづか)って、苗字(なまえ)についてだけど、」

 淡々に紛れて僕は尋ねた。

「母さんの旧姓は、瀬田(せた)だよね?」

 不穏を避けて、動揺を見透かされないように、慎重に声を作る。



名塚(なづか)(あさひ)って、俺のこと、だよね?」






 手帳をみつけた瞬間から、確信はあった。百香が顔色を変えたのも、たぶん、僕と同じ確信だ。

 経緯も、事情も、真相も、何もかも不明瞭なのに確信だけはある。名塚(なづか)(あさひ)は、皆口(みなぐち)(あさひ)より古い、僕のなまえ。


 僕の本当のなまえだ。



「…………三千、ろっぴゃく……四十二グラム、だってさ。」

 名塚旭の手帳を広げて、僕は出生体重を読み上げた。



「ほんと、おっきく産まれたんだね。」

 百香は、やわらかく返事をした。



 皆口旭の出生体重は、空欄だった。







 名塚旭って、俺のこと、だよね?

 俺、知らなかったよ、こんな苗字(なまえ)

 ずっと、皆口のつもりだったから。

 俺は、いつから皆口旭なの? ほんとうは、どっちなの?


 どうして俺は、このなまえで産まれたの?


 今日までに質問は絞ってきた。けどられまいと練習もしてきた。それなのに唇が震える。どうしても喉が渇く。質問の順序が、間の取り方が思うようにいかない。父さんを直視できない。答えを知るのが怖い。

 僕はおおげさにコーヒーを飲み干した。


「これは、俺の、憶測で、聞くんだけど、」慎重に前置きする。


 俺の父親は、ほんとうに父さんなの?

 ひのでの母親は、ほんとうに母さんなの?

 俺とひのでは、本当のきょうだいなの?

 三つの質問を、区切って、ていねいに声にした。腹をくくって答えを待つ。

 散々用心していたはずなのに、僕は不穏にどっぷり浸かりこんでいた。表情からしぐさ、声から吐く息まで、ぜんぶ。


 並んだ二冊の母子手帳を両手にとって、父さんは静かに瞼を閉じた。


「……いっぱい、悩ませたみたいだな。」


 ゆっくり瞼を開けて、落ち着き払ったまま、穏やかに目をほそめた。



「答えは全部イエスだ。安心してほしい。」



 その一言で、初めて身体じゅうこわばっていることに気づいた。全身から力が抜けて、深呼吸みたいなため息をおとす。

 父さんは人目もはばからず、僕の頭をわしわしと撫でた。やめてよ、と言ってみたものの、拒絶する力は残っていない。


「旭の父親は間違いなくお父さんで、ひのでの母親もお母さんだ。おまえとひのでは、二人とも、お父さんとお母さんの子どもだ。」


 質問の答えについて、父さんも一つ一つ、ていねいに言い添えた。

 さらに証明するように表紙を指差して、修正した形跡なんて無いだろう? と、おだやかに首を傾げた。二冊とも苗字は異なるものの、保護者の欄にはそれぞれ、父『ひずる』と母『(あきら)』の名が、間違いなく記されている。僕はぼう然と、ただただ安堵した。その様子に、父さんも肩の力を抜いて椅子にもたれた。また、降参みたいな顔をする。


「簡単なことじゃないんだ、」

 やがてこぼすように言った。

 簡単なこと? 聞き返しても、父さんは降参の顔のまま、ぼんやりとしている。


「……父親が違う、母親が違う、血の繋がりが無い。そんな、簡単なことじゃ、」

 声は呟いているようで、はっきりと僕に届く。こういうところがやりづらいんだよな、このひとは。


「じゃあ、教えてよ。」

 僕はもう少し欲張ることにした。


「この、名塚については、まだ聞いてない。」

 たまには、やりづらい息子になってやる。



「俺に隠していた十七年間を、教えて。」



 限りなく透きとおったグラスのなかで、氷がかりんと崩れた。

 昼時を迎えた店内が混み合い始めている。場所を変えよう。トレーをさげる父さんを待って一緒に外へ出ると、忘れていた日差しに目がくらんだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とうとう、核心へ。 目を背けては通れない、自分自身のルーツの話ですね。 ひずるさんの気持ちもわかるし、陽さんの気持ちもわかる…。フクザツ。
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