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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第六章】 ふたつのなまえ
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37  『手帳』




 幼馴染に言わせれば、僕は『男女差をわきまえた』『こよなくめんどくさい男』のはずだった。そんな評価も今日までだったなと、頭をかかえる。


 左手から、妹の感触が消えない。


 平手のとき、頬の皮膚がやたら薄っぺらく感じた。

 衝撃で、ひのでがよろめいていたような気もする。

 妹の、女のかよわさを思い出すほどに、吐き気がした。

 殴ってしまった、人を。妹を、殴ってしまった。


 あれは防衛だったのか。それとも手段だったのか。後悔の間隙で考察しても、しっくりくる答えが出てこない。たとえどんな答えに辿り着こうと、僕が暴力を振るってしまった事実に変わりはない。

 僕ら兄妹が、今度こそ取り返しのつかない域に、達してしまったことも。



「もしかして、参ってる?」

 騒動からしばらくして案の定、百香が駆けつけた。

 とはいえ、駆けつけて来た時点では事の次第を把握していなかったらしく、まずは百香側に起きた異変から説明してくれた。


「こんな時間にひのでがやってきた。」「髪が短くなっててびっくりした。」「ほっぺが腫れてるし、様子もおかしい。」「とてもあれこれ聞ける雰囲気じゃない。」……以上の事柄から、真っ先に(ぼく)とのいざこざを察するあたり、相変わらず厄介な女である。


 僕は観念して、いざこざがあったことを認め、手をあげてしまった事実を告白した。さすがに騒動の発端までは口にできなかったけれど、百香はそこまで深く追及してこなかった。どうやら彼女の目には、僕がそうとうへこんでいるように映っていたらしい。


「けっこう、参ってる。」

 実際、僕はへこんでいた。

「うわ、素直。重症だねー。」

 咎めず、深刻にもならず、あえて茶化すようにふるまう厄介な優しさを、久しく痛感した。

「ひので……どうしてる?」

 その優しさに甘えて聞いた。

「あっちも重症。もう絶対帰らないって。」

 百香は包み隠さず笑ってすぐ、だいじょぶだよ、と付け加えた。

 だいじょぶって、何が大丈夫なんだよ。僕はますますへこみながら机に伏せた。


「こんなの、ただのきょうだい喧嘩だもん。」

 百香はあっけらかんと言った。


「ただのってなんだよ、」

「ただの立派なケンカ。」

 矛盾してないか? してないよ。百香、すっごいテキカクだもん。百香は得意気に言い切って、人差し指を立てた。


「言い合いになって、旭が叩いて、ひのでが拗ねて、旭はへこんでるんでしょ? ふたり揃って怒って、ふたりとも嫌な気持ちになってるなら、立派な喧嘩だよ。」


 なぜか嬉しそうに謎の理論まで唱える。


「ひのでは、旭を殴って意気消沈なんて無かったもん。一度も。」

 その情報はいらなかったな。……っていうかあいつ、今まで罪悪感無しかよ。フェアじゃねーな。眉間に皺を寄せると、百香はおかしそうに笑った。


「ほらね、だから、今までのは喧嘩じゃなかったんだよ? 成長したじゃん、お兄ちゃん。」

 笑いながら念を押す。

「暴力ふるって、褒められることなんてないだろ。」

「わあ、こよなくめんどくさーい。」


 話しているうちに、じゃっかん気が軽くなってきた。それが百香の手腕によるものと考えると、きまり悪くもなった。彼女は僕と妹の(いさか)いの原因を、知らない。


「へこむのはさ、ひのでが可愛いからだよ。」

 何も知らずにそんなことを言う。

 かわいくねーよ。僕は拗ねた。可愛いじゃん。百香は優しく反論する。賢いのに、ずっと子どもみたいで、手がかかって、可愛い。彼女の挙げる妹の「可愛い」ところは、どれも否定のしようがなくて、ますますきまり悪くなった。



 百香は、ひのでと僕との、『約束』とやらを覚えているのだろうか。覚えているとしたら、当時の僕と今の僕とを、どう捉えているのだろう。とても聞き出す勇気は無い。



「……なんで、あんなことしたんだろうな、髪。」

 雑に話を変えた。


「ね。ずいぶん思い切ったよね。」

 百香はすんなり話に乗って、明日にでも行きつけの美容院に連れて行くと、提案した。贔屓の美容師を紹介するので、出来上がりは保証するという。


「だいじょぶだよ。ひのでは可愛いもん。」


 だから何が大丈夫なんだよ。かわいくねーし、全然。僕はまた机に伏せた。


 百香がスマホをいじっている気配がする。たぶん、ひのでへの連絡だ。

 きっと彼女は、僕にも言った「だいじょぶ」を、ひのでにも送信しているのだろう。幼馴染ってだけでご苦労なこったな。きょうだいなのは、僕らなのに。



「…………あいつさ、未熟児だったんだって。」

 伏せたまま僕は言った。



「予定より、一ヶ月も早く産まれてさ、身体弱くて、よく病気したんだって。」

 語りながら顔をあげると、百香と目が合った。スマホを降ろして、まっすぐ僕の話を聞いている。僕は続けた。


「俺は、でかい赤ん坊で、病気どころか熱もほとんど出さなくて、手もかからなかったって、聞いたんだ。……その、母さんから。」


 どうしよう。話の切り上げ方がわからない。


「えっと……なんかさ、昔っから、正反対だったんだよな、俺たち。」

「写真とか無いの?」


 唐突に百香は口を挟んだ。にこにこと小首を傾げている。


「赤ちゃんの旭とひので、見てみたい。」

 席を立って無邪気に手を引く。つくづく、こいつには敵わないとなかば降参しながら、軽くなった腰を上げた。






 押入れの奥からアルバムを引っ張り出す。最初に開いた分厚い一冊目は、就学前くらいのアルバムだった。赤ん坊のころのは、もっと奥か。身を低くして手探りする僕を差し置いて、百香は写真を見ながらはしゃいだ。


「なっつかしー。これ動物園のじゃん。百香も映ってるー。」

「その頃のはたいていおまえも写ってるよ。うち、おまえんち以外付き合い無かったし。」


 次に取り出した二冊目は、小学生時代の物だった。これもハズレか。押入れの更に奥へ目を凝らすと、箱カバー付きの、それらしい一冊が見えた。ほこりを掃いながら手を伸ばす。


「旭とひので、分けてないんだね、アルバム。」

「年子だから面倒だったんだろ。……よいっしょっと、」


 やっとのことで引っ張り出した箱には、僕とひのでの生年月日が記されていた。これに違いない。箱をあけると、最初の分厚い二冊とは異なり、薄い冊子のアルバムが、何十冊と重なっていた。

「なんか、面白いまとめ方だね、」

 確かに。なんでこんな小分けにしてるんだ。


 冊子を開くと読み通り、乳飲み子の僕と妹が写っていた。百香が「かわいい」と声をあげる。何十冊とあるどれを開いても、もれなく赤子の僕らが、分けられることなく納まっていた。


 ひのでは、本当に小さな赤ん坊だった。

 赤ん坊なんて、たいして見る機会ないけれど、それでも標準より繊細なのが判るくらいに。比べて、僕はずいぶんしっかりした赤ん坊だった。重量感があって髪なんてふさふさだ。


「旭、まんまるだね。」

 百香も笑いながらそういった。

 二人で次から次へと、薄いアルバムを開いた。

「かわいいね、」んー。「これなんて、目、くりくり。」んー。「ほんとはけっこう似てるね、ふたり。」……んー。感想を言うのは百香だけで、僕はそれに対して相槌をうつのみだった。



「? ねえ、旭。これって……」


 百香が突然、感想以外の声をかけてきた。

 他の冊子とはつくりの違う二冊を手にしている。一番底にあったらしい。



「母子手帳……?」



 二冊を見比べるなり百香の顔色が変わった。

 驚くような、戸惑うような複雑な表情に、僕は首を傾げる。



「なんだよ、どうしたんだよ?」

 呼びかけに、百香は黙ったまま視線だけ向けてくる。表紙を僕から見えないようにしている。


「かせよ、」

 問答無用で僕は取り上げた。



 奪うなり、彼女の表情の意味がわかった。

 また厄介な優しさを痛感した。


 表紙の違う二冊の母子手帳。一冊は、僕の物だった。



   《東京都北区 母子健康手帳 皆口(みなぐち)(あさひ)



 間違いなく、『僕』の物だ。


 …………そしてもう一冊、



 それは、ひのでの物、ではなかった。





   《愛媛県今播市 母子健康手帳 名塚(なづか)(あさひ)

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― 新着の感想 ―
[良い点] あーーー 来ましたねこの大きな山場 あーーー ってなります、読んだ後に 何回読んでも あーーー ってなります(>_<)
[良い点] 最後のひきにぞくぞくしたー(๑˃̵ᴗ˂̵) こ、これは一体!?
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