36 『ひので』
何を期待していたんだ、この母親に。僕は写真をかざして途方に暮れた。
以前思わぬ形で手に入れた、両親の結婚式写真。新郎新婦の二人は親きょうだいに囲まれて、この上なく幸せそうに隣り合っている。
こんな現在が待っているなんて、想像もしなかっただろうに。若い両親を憐れんだ。
“夫婦って、当事者にしかわかんないもんだしね。”
……まあな。
仲村との会話を思い出して、心のなかで呟く。
夫婦はわからない。わかるのは難しいってこと。
一緒になるのも、離れるのも、辛いのも幸せなのも、いちいち全部、難しい。
でも、それでもうまくやってる夫婦のほうが多いわけだし、難しいからって、大変だからって子どもを巻き込むのは、筋じゃない。と言うのが僕の本音だ。自分の本音が見えてくると、しだいに、母さんに納得できなくなってくる。
先ほどの満ち足りた笑顔が浮かんで、写真の中の花嫁と重なる。両方嬉しそうだけど、まったく別もの。僕は花嫁の母さんから目を逸らした。
逸らして、父さんを見た。燕尾服の父さん。今より痩せていて髪は黒々している。来週、からかってやろう。なんならこの写真、持って行ってやろう。どんな顔するかな。
「……何ニヤニヤしてんだよ、きもい。」
顔をあげると、ひのでが冷めた目つきで見ていた。プリクラと鋏を手にして、絨毯であぐらをかいている。
そういえば同じ空間に居たんだった。つい無防備ににやけてしまったな。だってこいつときたら、プリクラを切り分けるのに集中していたみたいだったし。
「これさ、父さんと母さんの結婚式の写真。」
にやけ面をごまかして、写真をひらひら振った。
「ひずるさんと、陽の?」
ひのではすぐさま興味を示した。近づくなり有無を言わせず取り上げて、じっとみつめる。
「ひずるさん、若い。」
やがて真顔で呟いた。うん、なんたって二十年くらい前のだし。僕も真顔で答えた。写真をみつめるひのでの睫毛が、ぱちりと動く。まばたき一回分なのに、化粧のせいかやたら目立った。
「陽、きれい。」
ひのではもう一度、真顔で呟いた。綺麗か? 僕は鼻をふんと鳴らした。
「ドレス、いいな。」
耳を疑った。なに、女みたいなこと言ってんだこいつ。思わず妹を凝視する。
どう見ても、純白のウェディングドレスに「いいな」なんて言う柄じゃない。露出過度だし、目の周りは濃いし、爪はごてごてしてるし……ある意味、女を全面に出してはいるけれど。品性の問題だよな。そういう、乙女的な志向は程遠いよ、おまえには。山ほどの内心を飲み込んでこらえた。
容易く口にできるほど、僕らの距離はまだ近くない。
「このひと、だれ?」
何事も無かったように、ひのでは尋ねてきた。両親を囲む親族の一人を指している。
「『つきのさん』だってさ。」
妹の指先にいる、やたらきれいで若い女のひとについて、僕は簡潔に答えた。
「誰だよ、つきのって。」
当然、ひのでは聞き返してきた。
「知らね。母さんがそう呼んでた。」
「陽の友だちかな。」
「どうだろ。これ、親族写真っぽいけどな。」
「陽か、ひずるさんの、姉妹、とか。」
「二人とも男兄弟しかいないだろ。結婚してんのは瀬田の伯父さんだけだし。ほら、奥さんはこっちの人だろ。」
「瀬田家、なつかしい。」
「俺は去年法事で会ったけど。」
「私、受験だったし。」
「あー、そー。」
脱線しつつも会話は続いた。僕らにしては、かなり平和的なやりとりだ。
殴る蹴るの喧嘩(正確には『殴られる蹴られる』だけど。)をしていたときと比べれば、兄妹仲はかなり進歩していると思う。自然と同じ空間にいるようになったくらいだし。だからこそ今の距離は、もどかしい。別に仲良くしたいわけじゃないけれど。
ひのでは飽きずに写真をみつめている。
そんな妹を、僕はまた凝視してみる。
派手で、女くさくて、若さを謳歌した、十五歳。肉親でもなければ関わることのない人種だ。肉親だからといって、特別仲良くもないけれど。仲良くしたいわけじゃないけれど。それはひのでも、同じだろうけど。
もどかしいな。夫婦が難しい以上に家族はもどかしい。この妹は、とくに。
「父さんと暮らすって決めたの、母さんが原因?」
僕は少々やけくそにきいた。ひのでの睫毛がぱちりと動いて視線を向ける。
「聞いてるんだろ、離婚の件。それが原因なのかなって思ってさ。」
会話の延長みたいな調子で続けると、ひのでも同じ声調で、「半分。」と答えた。半分ってなんだよ。さすがに頭をかいた。
「じゃあ、もう半分は?」
懲りずに会話を続けてみると、ひのでまでなんだかやけくそに、
「おまえ。」と言い返してきた。
はあ? 僕は思い切り聞き返す。
「おまえが、一位になったから。」
一位って、期末? 確認すると、ひのでは長い睫毛を伏せて、頷いたのか無視なのか曖昧なしぐさを見せると、何事もなかったかのように写真を置いて絨毯へ戻った。プリクラの切り分け作業を再開する。丁寧に鋏を入れるプリクラには、ひのでと百香が写っているのが遠目にもわかった。
「私がこの家出れば、モモカが住めるだろ、」
鋏を動かしつつ、ひのではさらりと言った。
百香? 住む?
「部屋空くし。」
さっきから何を言ってるんだ、こいつは。話の流れに頭が追いつかない。妹の発言一つ一つに僕は眉をひそめ、首をかしげた。
「結婚するだろ、来年。」
はあ? 今日一番、変な顔になった。
「結婚て誰が?」
「おまえ。」
「……誰と?」
「モモカ。」
「は? いや、しないけど。」
「なんで?」
「なんでって……」
「来年で二人とも十八だろ。」
いや、そういう問題じゃなくて……。
話がてんでかみ合わない。混乱ばかりの僕にひのでは苛立ち始め、ついには手を止めた。
「昔、約束しただろ。私が小一で、おまえとモモカが小二のとき。夏休み。八月三日。」
ひのでは、『約束』とやらの詳細を一つずつ挙げながら、詰め寄ってくる。
「覚えてねーよ。そんな昔のこと、」
「でもした。」
「小学生のときの話だろ、」
「でも約束だ。」
かたくなに一歩も譲ろうとしない妹に、混乱を通り越して疲れてきた。
そりゃ、所々記憶の抜けた幼少時代、もしかしたら僕と百香の間に、幼子ならではの微笑ましい婚約があったのかもしれない(考えたくもないが)。そしてその婚約を、この、図体ばかりでかい子どもは、不憫にも長年本気にしてきたのかもしれない。
冗談じゃない、ばかばかしい。
疲れ果てて僕も苛立ち始めた。くだらない。兄より何倍も何十倍も何百倍も賢い妹が、そんなくだらないことでむきになるな。
「くだらねえ。」
呆れかえって吐き捨てた。
「くだらなくなんかない。」
すぐさま、ひのでは食ってかかる。
反射的に身構えた。すり込まれてしまった情けない条件反射。だけど、ひのでは殴りかかってこなかった。拳も握らず、鋏とプリクラを持ったまま腕を下げている。ただ、形相だけはおだやかじゃなかった。
「………旭は、ずるい。」
ブラウンに縁取られた大きな目が睨みつけてくる。長い睫毛が、音をたてるようなまばたきを二回繰り返して、俯いた。そのまま不気味に黙り込む。
「なに……そんな、まじにならなくても、」
僕は視線の合わなくなった妹を持て余した。この敵意は、今までのどの敵意よりも扱いに困る。殴られたり蹴られたり胸ぐら掴まれるほうが、ましだと思うなんて。
後ずさろうか、顔を覗き込もうか、悩んでいるうちに、ひのでは低く呟いた。
「なんでおまえなんだよ、」
声がいつもの威圧とまるで釣り合っていない。かぼそい恨み節を、僕はきちんと拾った。
妹は続けた。
私のほうが強い。頭もいい。足だって速いし、字も上手い。おまえなんかより、ずっと、なんだってぜんぶ。……なのに、ずるい。ずるい……ずるい、ずるいずるいずるいずるい!
連呼するほどに声を荒げる。だんだん幼くなってゆく。恨み節は、いつしか子供の駄々になっていた。
「妹になんて産まれたくなかった……!」
幼い罵倒の末で妹は叫んだ。
それはこっちの台詞だ。怒鳴ってしまいそうになって、唇をかみしめた。
「どうしたんだよ急に。落ち着けって、」
兄妹揃ってぶちまけてしまっては、おしまいだったから。僕は冷静に、警戒しながら妹をなだめた。
「俺も……さ、言い方悪かったし、まあ、結果的に、その、約束っての? 破ったわけだし、気に障っただろうけど、ほら現実的に、ありえないだろ? そういうの。」
ことば切れ切れのみじめな対処。でもたぶん、唯一の方法。なりふり構っていられなかった。妹とのこれまでを水の泡にしたくない。
「百香にだって迷惑だろ、結婚なんて。」
水の泡にしたくない。関係を、距離を、もうこじらせたくなんかなかったのに。
穏便を望む僕を、ひのでが許すはずなかった。
顔をあげて睨みつけ、鋏を握りなおす。
「……アメミヤイトコか、」
刃先を向けて、僕に問う。
「モモカちゃんよりあいつを選ぶのか、」
牙をむく妹を前に足が動かない。視線を外せない。これは恐怖ではなくて、諦めかもしれない。
もう無理なのかな。……無理なんだな。どっちにしろおしまいなんだな。頑張っては、みたけれど。僕なりに。
妹の腕が揺らぐ。
スローモーションのようにみえたのは、まやかしだ。
まばたきの合間で、鋏が目にも止まらぬ速さで僕をかすめた。
間一髪で避けたものの、妹の敵意はやまない。
モモカちゃんの物にならないおまえなんて いらない……!
妹が声を荒げる。体勢を直し、再び刃先を向けて僕を睨む。
許さない……おまえたち二人とも許さない……! いらない! いらない! いらないいらないいらないいらないいらない!!
敵意で固めた呪いを連ねる。
「おまえもアメミヤイトコも────ッ」
“消してやる”
妹は、きっとそう怒鳴っていた。
呪いの言葉の途中だった。
僕は彼女の声を遮って、突きたてられた刃を掴んでいた。
そして空いた方の手で、一瞬の隙をみせた妹の頬を、音をたてて引っ叩いていた。
妹がぐらりと崩れる。鋏が床に転がり落ちる。
ひのでは頬をおさえて呆然とした。
髪を乱した妹を前に、僕は我に返った。微かに痺れる左手と沈黙した妹を、何度も見返す。
「……ひ、ので、」
何も考えられずに名前を呼んだ。
乱れた茶髪が妹を隠す。表情を窺うより先に、ひのでは背を向けた。
「…………、」
気力の抜けた身体でしゃがみ込んで、鋏を拾う。
「ひので……?」
止まったまま動かない。拾った鋏を、ただただ眺め俯いている。
しばしの硬直ののち、妹はおもむろに髪を束ね、刃を入れた。
後ろ髪、右側、左側と、無造作に何度も束ねては、じゃきり、じゃきりと、躊躇いなく断髪してゆく。その様子を僕はあっけに取られて見ていた。
「………わたしが、」
足元に、切り捨てられた茶髪が散らかってゆく。
「────私がおまえだったらよかったのに、」
変わり果てた姿で、妹は振り向いた。




