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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第六章】 ふたつのなまえ
36/92

35  『打明』




「ひずるさんと暮らそうと思う。」

 妹が突然切り出してきたのは、夏休みが始まったばかりの昼下がりだった。


 クーラーをきかせたリビングで、僕はしまりのない姿勢でテレビを観ていた。以前見逃したドラマの再放送にかじりついていたのに、間の悪い奴だ。

 唐突な父さんとの同居計画に、まず、「母さんには言ったのか?」と、「いつから?」のどちらから質問するべきか悩んだ。


「いつから?」

 後者を選びつつ、テレビの音量を下げる。

「夏休み明けか、卒業してから。」

 ひのでの返答に、計画が思いつき程度の段階なのだと察する。


 えらく漠然としてるな。まともに向き合おうとしたことがばからしく感じた反面、まだ詳細も決まっていない話を打ち明けてきた妹に、違和感を覚えた。


「俺に報せる必要、ある?」

 音量を元に戻しつつ聞くと、ひのでは不機嫌に、「ある」と唇を尖らせた。

 どうも気に障ったみたいだが、そこからはだんまりで、殴りかかってくる気配も無かったので、僕は無関心のふりをして再度ドラマに集中した。


「…………来週、」

 CMになったとたん、ひのではまた切り出した。今度は間が悪くない。


「ひずるさんのところ、おまえが行け。」

 月に一度の面会か。命令口調なのはさておき、断る理由もないので承諾した。


「すごく会いたがってた、ひずるさん。」

 まあ、最後に会ったの五月だしな。

(あきら)から久しぶりに、連絡あったんだって。」

 母さんから? 父さんに? 初耳だ。

「おまえが、最近すごいんだって、頑張ってるんだって聞いて、喜んでた。」

 ………。


「陽が自慢してたんだ。おまえが、期末、一位とったこと。」


 ………。



「そう。」


 僕は素っ気なく答えて、ひたすら無関心のふりを続けた。








 期末試験の結果が周囲を沸かせ、僕をもてはやしたのは、まだ記憶に新しい。


 中間試験ではガリ勉のまぐれ(良くて努力の新鋭)だった扱いも、今回ばかりは一変せざるを得なかった。順位表が貼り出された日から僕の地位は見事、成績上位者へと確立されたのである。


 夢のまた夢だった優等生は、案外きもちよくなかった。

 むしろ、わだかまった。疑惑の目を向けられない現状に、不安より不満が勝る。なぜ誰一人として僕の不正を疑わないのか。こないだまでのおちこぼれた生徒に、違和感すら懐かないのか。総合成績一位の威力とは、かくも偉大なものなのか。


 ……ちがう。これはすべて筋書き通りの結果だ。

 計画された、皆口旭の地位。仲村星史が望み、雨宮糸子の仕立てた、僕。


「付き合う相手で変わるものだよね、人間。」

 百香の見解は、珍しく的を射ていた。


「糸子ちゃんや、仲村くんと仲良くなってからだもん。旭がすごくなったの。」


 皮肉にも二人の存在は、僕の評価に拍車をかけていた。朱に交われば赤くなる。そんなふうに捉えるのは百香くらいだと思っていたが、彼女だけでなく、学級、学年、学校側、皆が皆、同じ見方をしていたのである。

 わだかまってしまう。なんとも手応えのない日常だ。




「せっかくなんだから威張っておけ。」

 電話口で父さんは笑った。


 面会日時について、いつもならメールでやりとりする連絡が、今回に限っては電話だった。理由はもちろん、期末試験効果だ。

 ひのでの話どおり、父さんは本当に嬉しそうに、すごいじゃないか、おめでとう、と声を弾ませた。

 ありがと。でも、なんか、実感無くて……。心情を濁す僕に対して、父さんは「威張っておけ」と明るく助言してきた。実状は、威張れることなんて何も無いのだけれど。


「俺も……さ、もっと、天狗になれると思ってたんだけど、意外と、そうでもなかった。」


 まさか父さんも、息子の不正なんて夢にも思わないだろう。しかしすみませんお父さん。息子は、ばれたら退学モンの不正行為にどっぷり手を染めています。胸の内で開き直っておいた。


「平穏平和の証拠だ。」

 父さんはのんきに、諭すように言う。

「退屈は何よりの贅沢だぞ。」

 ちょっと解るかも、それ。電話口の向こうへ愛想笑いをして、おいおい話を切り上げた。




 来週には顔を会わせるのに、長話がすぎたな。ドラマの再放送を思い出して足早にリビングへおりると、母さんが先にテレビを点けていた。チャンネルがドラマに合わせてある。


「予定、決まったの?」

 母さんは外行きの服装で椅子にかけていた。僕は頷いて正面に座るなり、母さんの恰好をさして、のんびりしてていいの? と尋ね返した。


「ええ。身支度、意外と早く済んじゃって。」

 時間に余裕があるというので、一緒に画面を眺めた。


 ドラマの展開がすでに中盤に差し掛かっている。……この回、見たことあるな。視聴し始めてすぐに気付いた。


「お母さんも、そんな気がする。」

「シーズン8だよね、これ。好きだからいいけどさ。」

「わかる。特にこの話、好き。」


 そういう割にそこから、二人して視聴が雑になった。各シーズンの良し悪しや出演者について語ったり、ドラマと無関係の談笑を挟んだり。いつもの、親子の団欒に花を咲かせた。



 目の前で笑う母さんが、以前より若々しく見えた。



 もともと、どこか年不相応なひとではあったけれど、ここ最近は無理がない。血色もいいし表情も明るいし、そうとう安定しているのだろう。

 息子(ぼく)のこと、(ひので)のこと、自分のこと。このひとなりに、消化しつつあるのかもしれない。そりゃ父さんに近況報告できるくらいにもなるか。実感できた贅沢を、僕は噛み締めた。


「旭、すこし、いい?」


 母さんが声色を変えたのは、そんな折だった。膝を揃えて背筋を伸ばし、薄っすら口角を上げて唇をとじる。妙に改まったようすに、僕は「なに、こわい。」とふざけた。


「怖くはないけど、大事な話。」

「だいじ、」


 そう、大事な話。あのね、ほんとうに、今さらなんだけど。母さんの睫毛が伏せてゆく。机の下で指を合わせているのが、なんとなくわかった。



「離婚しようと思うの。」



 だろうな。なんとなく、予測できていた。



 「いつごろ?」「本当、今さらだね。」「父さんも同意してるの?」「父さんは何も言ってなかったよ、さっき。」…………予測できていたはずなのに、返す言葉が選べない。それどころか、余計な感情がふつふつと湧いてくる。

 なんで今言うかな、そういうこと。

 大事な話って自覚してんなら、ちゃんと時間作れよ。こんな、テレビ見ながらとか、出掛ける直前にとか、どうなの、それ。頭のなかで、不服が贅沢を薄めてゆく。


「ひのでには話したの?」

 口にしてから我に返った。

 まさか最初にこんな言葉を選ぶなんて、僕もそれなりに、いちおう、動揺しているらしい。


「ええ。」

 まさかの返答に、動揺を通り越して瞼が固まった。


「ひのでは、お父さんが同意してるなら、(あたし)の好きにしていい、って。」

 このひとなら絶対、まずは僕に相談すると思っていたのに。

「お父さんも、子どもたちがいいって言うなら、いい、って。」

 僕に構わず母さんは続けた。

 今さらな遠慮をぶらさげて、手遅れな配慮をちらつかせる。


「だから、あとは…」

 とぎれとぎれの説明が、いっそう深くつまった。


 だから、あとは、(ぼく)だけってことか。


 目の前の母親が、以前より若々しい。血色がよくて表情が明るい。無理がない。

 安定している。心の底から、安定している。



「いいよ。母さんが選んで。」


 不服も贅沢もまるごとぜんぶ吹っ飛んで、笑うしかなかった。



 いつの間にかドラマが終わっていて、夕方のニュースが流れていた。画面の隅に表示された時刻を、母さんはちらりと見た。

「そろそろ出ないとやばいんじゃない?」

 僕はすっとぼけて言った。

「あら、本当だわ。」

 母さんもちゃんと、すっとぼけてのってくれた。鞄を肩にかけて、鏡を覗いて前髪をいじる。「夕ごはんはハヤシライス温めてね。あとサラダあるから。」てきぱきと指示を残してリビングを出る母さんを、玄関まで見送った。


「………あ、旭は、」

 家を出る直前で、母さんはまた声色を変えた。



「お母さんに、ついて来てくれるわよね?」



 半開きのドアから夕焼けが射す。逆光のなかで振り向く母さんに、僕は薄く笑った。


「そんなこと心配してるの?」


 いってらっしゃい。……いってきます。微笑み返す母さんが穏やかだった。穏やかで、嬉しそうで、満ち足りていて、心の底から諦めるしかなかった。

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