34 『彼』
カップ入りのアイスを買って屋外席に座った。夕方がまだ明るくて、近くの噴水では子供たちが遊んでいる。日の入りが涼しくならない季節になったな。
「うまいな、」
冷たい甘さを堪能しながら感想をふった。雨宮はスプーンを加えたまま頷く。
「暑いもんな、」
続けて感想をふっても、頷くだけで黙っている。
「その恰好さ、暑くないの、」
今度は指摘してみた。
「恰好、って、」
「カーディガン。それに髪、暑っ苦しいだろ。長いし黒いし重いし。」
無遠慮に述べる僕を、雨宮は「余計なお世話よ。」と一蹴する。
前のほうが絶対いい。戻せよ。「あんたの意見なんて聞いてない。」意見じゃなくて好みだけど。「余計どうでもいいわよ。」ちなみにそのセンス、百香の影響? 「んなわけないでしょ。」あーイトコちゃん、色気づいてきたんだ? へぇ~? 「黙れ無能。」
淡々と無遠慮をぶつけ合いながらアイスをつついた。相変わらず無視が下手な雨宮は、毒づきながらも律儀に返事をする。これが気まずくならないのだから、こいつとは面白い。
「周囲に馴染むためよ。そうすれば、あんたとありきたりな距離でいても不自然じゃないでしょ。セージさまは、それを望んでる。」
とたんに水を差された。行き着く場所は結局そこかと、げんなり頬杖をつく。
じゃあ何か? おまえは仲村のためだけに、暑っ苦しい髪型して、手間掛けて化粧して、わざわざコンタクトに代えて、しかたなく百香と仲良くして、クラスの連中にも愛想振りまいてるわけだ? それが全部、自分の意思だの欲望だの言うんだな? 僕は一息に、なげやりに言った。
「そうよ。」
雨宮は即答する。
「あのひとのために動くのが、あたしのすべてだもの。」
語調はいつもどおり素っ気なかった。
啖呵を切っているのでもなく、誇らしげでもない。それはいつもの、僕と会話をする雨宮のままで、どうにも複雑だった。手元のアイスが順調に減っている。僕は大きな一すくいをほおばって、溶ける前に飲み込んだ。
「殴られたり、罵られたり、そんなのが意思なのかよ、」
冷たさが体の中から拡がって、寒気がした。浮かんだ鳥肌をさする。
「理解できないでしょうね、」
食べるのに集中していた雨宮が、急に顔をあげた。噴水のほうを見ている。
つられて同じほうを向くと、噴水の淵でふざけていた子供がオモチャを落として泣いていた。別の子供が服のまま噴水内に侵入して、オモチャを手にずぶ濡れの姿で帰ってくる。泣きっぱなしの子供を宥めつつ、二人はその場から去っていった。
「あたしの盗み出した答案で、あのひとは優等生になれるわ。」
一連を傍観した終わりに、雨宮は静かに言った。僅かに残っていたアイスが、ほとんど液状になっている。口に運ばず、カップのなかをスプーンでかき回した。
「あたしを汚く罵れば、あのひとは誰の前でも笑える。不満も、嫌悪も、苛立ちも、あたしを踏んで、ぜんぶリセットできるの。」
混ぜるほどにアイスは原形を失ってゆく。白とピンクが溶け合って、カップの内側を汚した。
ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃと、手なぐさみでかき回す。
「仲村星史は、ぐちょぐちょで汚いあたしが、仕立てているのよ。」
そこで手を止めた。
内側がやたら汚い、空のカップを持ったまま、ぼんやり黙り込む。目を開けたまま眠っているような彼女を、僕もおとなしくみつめた。頬杖をついてため息をおとす。
「……あれだけ邪険にされて、一途なもんだな。」
感心と小ばかの間くらいで呟いた。
「当然でしょ。あたしはあのひとの、不要な好意だもの。」
自負するように雨宮は言う。
すっと立ち上がって、スカートを軽くはたいた。短い裾がきわどく揺れる。
長居しすぎたわね。そう言われて、空の色が変わり始めていることに気づいた。送ってくよ。電車、混んでるだろうし。鍵を振りながら提案する。
「当然でしょ。」
ふんぞり返って雨宮は言った。
久しく彼女を乗せて走った。いつかと同じく胴にしっかり抱きついて、太腿も胸も密着させているのに、申し訳ないくらい性的な気持ちが沸かない。どんなに着飾っても、色気ってのは無い奴には無いんだな。笑いを口のなかで留めて、貴重な今を噛み締めた。
家がもっと遠ければいいのに。
気付かれない程度に速度を落としてみたけれど、流れる景色はあんまり変わらない。遠回りしたらばれるかな。どうしようもない思惑を胸に、帰路を走った。
走っているうちに、ひのでのことを思い出した。
雨宮がブスだと、むかつくと、嫉妬していたひので。それでも、百香が喜ぶのならと、拗ねていた妹。残念ながら似たようなもんだな、おまえと。
「……雨宮、」
走りながら彼女を呼んだ。風に遮られて声が届かない。景色が、彼女の家へと近づいてゆく。空の色が濃くなってゆく。薄く浮いていただけの月が、光を放ち始めた。
信号が、ささやかにやさしく赤を点す。
授かった時間のなかで僕はハンドルから左手を離し、彼女の手に乗せた。一瞬の身じろぎに気付かないふりをして、少し、握った。
「俺は、おまえのなかにいたのかな、」
声が届くはずなんて、ない。
………どうしよう
やっぱり、手放したくないなあ
信号が無情に青を点す。
ハンドルを握りなおしてアクセルを踏んだ。外灯が両横に流れてゆく。
月だけが、同じ位置で止まっていた。
────真夜中だと思った。
続けて、眠っていたんだと気付いた。ここが、彼の部屋だと思い出した。
覚めきらない目で見渡すと、布団から仲村の姿が消えている。時刻は午前三時前。灯かりを落としてから一時間も経っていない。僕はベッドから降りて、廊下へと出た。
仲村の家に泊まるのも今夜で何度目になるだろう。今日も学校から直接、泊まりにきた。母さんへの説明もずいぶん円滑に済むようになったし(というより僕自身、変な抵抗感がなくなった)、訪問は以前より気軽になってきた。
イヨさんも僕を「皆口くん」と呼ぶようになったし、ここの飼い犬の名が「文遠」だとも知った。イヨさんは、来るといつも見事な夕飯をふるまってくれて、水仕事が済むなり帰る。文遠は、十一時を回るころにはゲージの中で眠りにつく。
その後、僕たちはたいてい夜更かしをする。
ゲームをしたり、テレビを観ながら喋ったり、たまにはバイクを走らせたり、特に会話もなく漫画を読んでごろごろしたり。その日によって過ごし方は違うけれど、僕らなりに有意義な時間を満喫していた。
今夜もそうだった。きまぐれに好きなことをして、遊んで、きまぐれに眠りについた。
違ったのは、今だ。
僕は目を覚ました。仲村の姿が無かった。
廊下に出ると家じゅう暗いままで、どの部屋にも灯かりは点っていない。手探りでリビングまで辿り着くと、ここだけは薄明るかった。窓から月あかりが溢れていて、部屋全体を青白く照らしている。
窓際で、シルエットになった仲村が、無気力に座っていた。
ゆっくりと振り向いて、僕に気付く。
「起きてたの?」
人懐こい笑顔に僕は頷いた。頷いて、同じように座った。
仲村が窓の外へ視線を戻したので、同じように外を見た。
「なんだか眠くないんだよね。」仲村が言う。
「俺はけっこう眠い。」僕が言うと、寝てればいいじゃん、と笑った。
「きのう、雨宮から預かったから、答案。」
前置き無く、僕は言った。
「そっか。」
窓の外を見上げたまま、仲村は答える。束の間の沈黙のあと、膝を抱えて落ち着き払ったようすで、薄く笑った。
「おれさ、もう、あいつがいなくても、平気。」
平気、って?
「ん? いろいろ。」
色々、か。
「うん。いろいろ。」
たとえば?
「いっぱい、笑ってる。」
いつもだろ。
「違うよ。平気に笑ってる。」
そっか、平気にか。
「うん、平気に。」
そっか。
「皆口くんがいるから。」
そっか。
曖昧に会話を繋げた。
これは夢だろうか、つい、現実を疑ってしまう。そのくらい、見える世界が頼りない。
でもきっと現実。夢なら夢で、別にかまわないけれど。
「……星史、」
僕は、彼を呼んだ。
「おまえの目的は何だ?」
青白い光が彼を照らす。陰影が穏やかに動いた。
「数え切れないよ、そんなの。」
膝を抱えなおして首をすくめる。瞼を閉じて、口元だけ笑ったまま、仲村は語り始めた。
やりたいこと、たくさんあるよ。きみは今日まで、叶えてくれたじゃん。一緒に食卓囲んで、夜晩くまで遊んで、同じ部屋で、寝て。……だけど、まだまだあるんだ。足りないんだ。十七年分、だもん。
「それは、『お願い』だろ?」
小突いて話を塞き止める。
「そっか。目的、かぁ。」
彼は観念して、いたずらに笑ってすぐ、表情をおとした。
「おれを探してほしい。」
さがす?
「おれがきみを、みつけたように。」
言うなり、おもむろに棚のほうへと歩み寄った。数多く飾られた写真から一つを外して、額縁の裏から何かを取り出す。
封筒みたいだ。手のひらより一回りほど大きい、わずかに厚みのある封筒。口には何重にもテープが巻かれていて、固く鎖されていた。
「……無理強いはしないよ。これは、『お願い』じゃないから、」
中身のわからないそれを、差し出しながら告げた。
「もし、おれを探してくれるなら、そのときに開けてほしい。きみを不幸にしちゃうかも、しれないけれど。」
僕は少し躊躇ってから封筒を受け取った。
「なんだよ、不吉だな。」
からかうように言う。
「だから無理強いはしないんだよ。」
「一生開けないかもしれない。」
これは真面目に言った。
「いいよ。それならそれで。」
仲村はおだやかに目をほそめた。
微笑んだまま、ゆっくり俯いてゆく。やがて顔が見えないまでにうな垂れて、まるで、乞うような姿勢になった。
「………ここからは、『お願い』、」
いつの日からか潜めていた暴虐の影が、もう、どこにもない。
蚊の鳴くような声だけが響く。記憶の片隅で滲んでいた光景が、目の前の彼と、重なる。
「……明日から、いつもの仲村星史に戻るよ。……いつもどおり、今のおれたちを、ちゃんと過ごす。これ以上、きみの毎日を……こわさない……から。…………だから、」
────────やっぱり、現実だったんだ。
「おれを、捨てないで……」
青白く、か弱く、おぼろげな瞳に僕が映っている。彼のなかに、いる。
なあ、雨宮、
僕は、おまえのなかにいたのかな。
僕がいたのは、おまえだったのかな。
いつか、彼女にすがりついたように。
彼女ごと、自分を愛したように。
みえてしまった真実を握りつぶして、彼を抱きしめた。




