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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第五章】 欠けた星のおちる場所
35/92

34  『彼』




 カップ入りのアイスを買って屋外(テラス)席に座った。夕方がまだ明るくて、近くの噴水では子供たちが遊んでいる。日の入りが涼しくならない季節になったな。

「うまいな、」

 冷たい甘さを堪能しながら感想をふった。雨宮はスプーンを加えたまま頷く。

「暑いもんな、」

 続けて感想をふっても、頷くだけで黙っている。


「その恰好さ、暑くないの、」

 今度は指摘してみた。

「恰好、って、」

「カーディガン。それに髪、暑っ苦しいだろ。長いし黒いし重いし。」

 無遠慮に述べる僕を、雨宮は「余計なお世話よ。」と一蹴する。


 前のほうが絶対いい。戻せよ。「あんたの意見なんて聞いてない。」意見じゃなくて好みだけど。「余計どうでもいいわよ。」ちなみにそのセンス、百香の影響? 「んなわけないでしょ。」あーイトコちゃん、色気づいてきたんだ? へぇ~? 「黙れ無能。」


 淡々と無遠慮をぶつけ合いながらアイスをつついた。相変わらず無視が下手な雨宮は、毒づきながらも律儀に返事をする。これが気まずくならないのだから、こいつとは面白い。



「周囲に馴染むためよ。そうすれば、あんたとありきたりな距離でいても不自然じゃないでしょ。セージさまは、それを望んでる。」



 とたんに水を差された。行き着く場所は結局そこかと、げんなり頬杖をつく。



 じゃあ何か? おまえは仲村のためだけに、暑っ苦しい髪型して、手間掛けて化粧して、わざわざコンタクトに代えて、しかたなく百香と仲良くして、クラスの連中にも愛想振りまいてるわけだ? それが全部、自分の意思だの欲望だの言うんだな? 僕は一息に、なげやりに言った。


「そうよ。」

 雨宮は即答する。


「あのひとのために動くのが、あたしのすべてだもの。」

 語調はいつもどおり素っ気なかった。


 啖呵を切っているのでもなく、誇らしげでもない。それはいつもの、僕と会話をする雨宮のままで、どうにも複雑だった。手元のアイスが順調に減っている。僕は大きな一すくいをほおばって、溶ける前に飲み込んだ。


「殴られたり、罵られたり、そんなのが意思なのかよ、」

 冷たさが体の中から拡がって、寒気がした。浮かんだ鳥肌をさする。


「理解できないでしょうね、」


 食べるのに集中していた雨宮が、急に顔をあげた。噴水のほうを見ている。

 つられて同じほうを向くと、噴水の淵でふざけていた子供がオモチャを落として泣いていた。別の子供が服のまま噴水内に侵入して、オモチャを手にずぶ濡れの姿で帰ってくる。泣きっぱなしの子供を宥めつつ、二人はその場から去っていった。



「あたしの盗み出した答案で、あのひとは優等生になれるわ。」


 一連を傍観した終わりに、雨宮は静かに言った。僅かに残っていたアイスが、ほとんど液状になっている。口に運ばず、カップのなかをスプーンでかき回した。


「あたしを汚く罵れば、あのひとは誰の前でも笑える。不満も、嫌悪も、苛立ちも、あたしを踏んで、ぜんぶリセットできるの。」


 混ぜるほどにアイスは原形を失ってゆく。白とピンクが溶け合って、カップの内側を汚した。

 ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃと、手なぐさみでかき回す。



仲村(なかむら)星史(せいじ)は、ぐちょぐちょで汚いあたしが、仕立てているのよ。」



 そこで手を止めた。

 内側がやたら汚い、空のカップを持ったまま、ぼんやり黙り込む。目を開けたまま眠っているような彼女を、僕もおとなしくみつめた。頬杖をついてため息をおとす。


「……あれだけ邪険にされて、一途なもんだな。」

 感心と小ばかの間くらいで呟いた。


「当然でしょ。あたしはあのひとの、不要な好意だもの。」

 自負するように雨宮は言う。


 すっと立ち上がって、スカートを軽くはたいた。短い裾がきわどく揺れる。

 長居しすぎたわね。そう言われて、空の色が変わり始めていることに気づいた。送ってくよ。電車、混んでるだろうし。鍵を振りながら提案する。

「当然でしょ。」

 ふんぞり返って雨宮は言った。





 久しく彼女を乗せて走った。いつかと同じく胴にしっかり抱きついて、太腿も胸も密着させているのに、申し訳ないくらい性的な気持ちが沸かない。どんなに着飾っても、色気ってのは無い奴には無いんだな。笑いを口のなかで留めて、貴重な今を噛み締めた。

 家がもっと遠ければいいのに。

 気付かれない程度に速度を落としてみたけれど、流れる景色はあんまり変わらない。遠回りしたらばれるかな。どうしようもない思惑を胸に、帰路を走った。


 走っているうちに、ひのでのことを思い出した。


 雨宮がブスだと、むかつくと、嫉妬していたひので。それでも、百香が喜ぶのならと、拗ねていた妹。残念ながら似たようなもんだな、おまえと。



「……雨宮(あめみや)、」



 走りながら彼女を呼んだ。風に遮られて声が届かない。景色が、彼女の家へと近づいてゆく。空の色が濃くなってゆく。薄く浮いていただけの月が、光を放ち始めた。

 信号が、ささやかにやさしく赤を点す。

 授かった時間のなかで僕はハンドルから左手を離し、彼女の手に乗せた。一瞬の身じろぎに気付かないふりをして、少し、握った。



「俺は、おまえのなかにいたのかな、」



 声が届くはずなんて、ない。




 ………どうしよう

 やっぱり、手放したくないなあ




 信号が無情に青を点す。

 ハンドルを握りなおしてアクセルを踏んだ。外灯が両横に流れてゆく。

 月だけが、同じ位置で止まっていた。











 ────真夜中だと思った。


 続けて、眠っていたんだと気付いた。ここが、彼の部屋だと思い出した。

 覚めきらない目で見渡すと、布団から仲村の姿が消えている。時刻は午前三時前。灯かりを落としてから一時間も経っていない。僕はベッドから降りて、廊下へと出た。



 仲村の家に泊まるのも今夜で何度目になるだろう。今日も学校から直接、泊まりにきた。母さんへの説明もずいぶん円滑に済むようになったし(というより僕自身、変な抵抗感がなくなった)、訪問は以前より気軽になってきた。


 イヨさんも僕を「皆口くん」と呼ぶようになったし、ここの飼い犬の名が「文遠(ぶんえん)」だとも知った。イヨさんは、来るといつも見事な夕飯をふるまってくれて、水仕事が済むなり帰る。文遠は、十一時を回るころにはゲージの中で眠りにつく。


 その後、僕たちはたいてい夜更かしをする。

 ゲームをしたり、テレビを観ながら喋ったり、たまにはバイクを走らせたり、特に会話もなく漫画を読んでごろごろしたり。その日によって過ごし方は違うけれど、僕らなりに有意義な時間を満喫していた。


 今夜もそうだった。きまぐれに好きなことをして、遊んで、きまぐれに眠りについた。




 違ったのは、今だ。


 僕は目を覚ました。仲村の姿が無かった。




 廊下に出ると家じゅう暗いままで、どの部屋にも灯かりは点っていない。手探りでリビングまで辿り着くと、ここだけは薄明るかった。窓から月あかりが溢れていて、部屋全体を青白く照らしている。


 窓際で、シルエットになった仲村が、無気力に座っていた。

 ゆっくりと振り向いて、僕に気付く。


「起きてたの?」


 人懐こい笑顔に僕は頷いた。頷いて、同じように座った。

 仲村が窓の外へ視線を戻したので、同じように外を見た。


「なんだか眠くないんだよね。」仲村が言う。

「俺はけっこう眠い。」僕が言うと、寝てればいいじゃん、と笑った。



「きのう、雨宮から預かったから、答案。」



 前置き無く、僕は言った。


「そっか。」

 窓の外を見上げたまま、仲村は答える。束の間の沈黙のあと、膝を抱えて落ち着き払ったようすで、薄く笑った。



「おれさ、もう、あいつがいなくても、平気。」



 平気、って?

「ん? いろいろ。」

 色々、か。

「うん。いろいろ。」

 たとえば?

「いっぱい、笑ってる。」

 いつもだろ。

「違うよ。平気に笑ってる。」

 そっか、平気にか。

「うん、平気に。」

 そっか。

「皆口くんがいるから。」

 そっか。



 曖昧に会話を繋げた。



 これは夢だろうか、つい、現実を疑ってしまう。そのくらい、見える世界が頼りない。

 でもきっと現実。夢なら夢で、別にかまわないけれど。



「……星史(セージ)、」



 僕は、彼を呼んだ。



「おまえの目的は何だ?」


 青白い光が彼を照らす。陰影が穏やかに動いた。


「数え切れないよ、そんなの。」

 膝を抱えなおして首をすくめる。瞼を閉じて、口元だけ笑ったまま、仲村は語り始めた。


 やりたいこと、たくさんあるよ。きみは今日まで、叶えてくれたじゃん。一緒に食卓囲んで、夜晩くまで遊んで、同じ部屋で、寝て。……だけど、まだまだあるんだ。足りないんだ。十七年分、だもん。


「それは、『お願い』だろ?」

 小突いて話を塞き止める。


「そっか。目的、かぁ。」


 彼は観念して、いたずらに笑ってすぐ、表情をおとした。




「おれを探してほしい。」




 さがす?



「おれがきみを、みつけたように。」



 言うなり、おもむろに棚のほうへと歩み寄った。数多く飾られた写真から一つを外して、額縁の裏から何かを取り出す。

 封筒みたいだ。手のひらより一回りほど大きい、わずかに厚みのある封筒。口には何重にもテープが巻かれていて、固く鎖されていた。


「……無理()いはしないよ。これは、『お願い』じゃないから、」

 中身のわからないそれを、差し出しながら告げた。


「もし、おれを探してくれるなら、そのときに開けてほしい。きみを不幸にしちゃうかも、しれないけれど。」


 僕は少し躊躇ってから封筒を受け取った。


「なんだよ、不吉だな。」

 からかうように言う。

「だから無理強いはしないんだよ。」


「一生開けないかもしれない。」

 これは真面目に言った。



「いいよ。それならそれで。」



 仲村はおだやかに目をほそめた。

 微笑んだまま、ゆっくり俯いてゆく。やがて顔が見えないまでにうな垂れて、まるで、乞うような姿勢になった。


「………ここからは、『お願い』、」


 いつの日からか潜めていた暴虐の影が、もう、どこにもない。

 蚊の鳴くような声だけが響く。記憶の片隅で滲んでいた光景が、目の前の彼と、重なる。


「……明日から、いつもの仲村(なかむら)星史(せいじ)に戻るよ。……いつもどおり、今のおれたちを、ちゃんと過ごす。これ以上、きみの毎日を……こわさない……から。…………だから、」



 ────────やっぱり、現実だったんだ。



「おれを、捨てないで……」


 青白く、か弱く、おぼろげな瞳に僕が映っている。彼のなかに、いる。





 なあ、雨宮、


 僕は、おまえのなかにいたのかな。

 僕がいたのは、おまえだったのかな。




 いつか、彼女にすがりついたように。

 彼女ごと、自分を愛したように。

 みえてしまった真実を握りつぶして、彼を抱きしめた。

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