33 『再会』
本末転倒だ。件の思い出話がへばりついて、混乱させる。
暴力が嫌いだ。怪我をさせるのも怖い。こんな僕にした原因はひのでだと思っていたのに、僕自身、ひのでに怪我を負わせていたなんて。いったい何に怯えていたんだ、僕は。
期末が近づく数学の授業。内容がまったく入ってこない。重要な時期に、厄介な話を聞いてしまったものだ。
今、何ページだ? さっきのところ、もう黒板が消されている。まだ写してなかったのに。周囲を見渡すと、みんなノートじゃなくて問題集にペンを走らせている。そっか、こっちか。盗み見たページを捲ると、懐かしいものが目に飛び込んできた。
蛍光色に図々しく並ぶ数字。雨宮の電話番号だ。
割り込むようにあの日の記憶が蘇る。
詰まらせた声、虚勢を張った態度、慌しい退散。想定外に手に入れた連絡先。残された部屋で、なかなか元に戻らなかった、にやけ顔。
……ただでさえ混乱しているのに、出てきてくれるなよ。
真面目に授業を受ける彼女の背中に、訴えかけた。
小奇麗に結われた三つ編みを、長いこと見ていない気がする。遠い昔みたいだな。月日なんて、たいして経っていないのに。
問題集を捲っただけの状態で、終礼が鳴った。
期末を控えた放課後は、ひと気が引くのが早い。
閑散を待ちわびて、映写室へ足を運んだ。なんだか久しぶりだな。パイプ椅子に寄りかかって、部屋中を見渡す。
相変わらずいい隠れ家だ。空調は整っているし、外からの音は聞こえないし、この狭さもちょうどいい。一人だとちょっぴり広いけれど。
気が済むまで見渡して、目を閉じた。また、無駄に考える。
ここに彼女がいないのは、平穏を生きている証拠だ。
友人に恵まれ、地位を得て、容姿を着飾り、若さを謳歌している証拠。
そして、もう踏み躙られることもない、証拠。
僕に関わらなければ、暴虐と関わらなくていいんだ。最高の結果じゃないか。見ていたんだから、彼女を。
見ていたんだ。雨宮のなかに、僕を。
一方的に、虫けらみたいに、手も足も出なくて、身体じゅうに傷を作って。その姿が、ひのでに負かされる自分みたいで。だからだと思っていたのに。
何に怯えていたんだ。誰を満たしたかったんだ。真実がみえなくなってしまう。平穏が、こんなにも忌々しい。
僕は今、空っぽだ。殻みたいな身体は頼りなくて、すかすかする。
すかすかに、生きている。
「────────……っ…、」
甘いにおいに触れて瞼をあけた。妹と、同じにおい。
期待と疑いが誘う。
抗うな。きっと、来ている。いつもそうなんだ。願いすぎると来てくれるんだ、彼女は。
まぼろしみたいに。
「……雨宮、」
入り口で佇んでいる長い黒髪と薄化粧。短くなったスカートに、大きめのカーディガン。
懐かしい空間の、懐かしい再会に、新しい彼女が現れた。
何か声をかけないと……僕は言葉を捜した。頭ん中の、ありとあらゆる引き出しをひっくり返しても、気の利いたものが出てこない。
「丁度良かったわ。」
先手を打つように雨宮は口を開いた。身じろぐ僕の手を掴んで、何かを握らせる。
「これ、期末の答案。」
やっぱり今回も動いていたのか。渡された物が新しいUSBメモリだと確認すると、彼女の暗躍にため息が出た。
「仲村の命令か、」
聞くと、雨宮は首を振った。
「あたしの意思。」
「うそつけ。」
「本当よ。あたしの行動は、全部自分の意思。」
気丈に言い切る。空気が張り詰めた。
「もうあの変な喋り方、しねえの?」煽るようにくだけた。
「お望みならそうするけど?」雨宮は冷たく言い放つ。
「それも、おまえの意思?」
また張り詰めた。お互い、凍ったみたいに睨み合う。
何か言ってこいよ、いつもの豊富な悪口。心のなかで挑発した。
こっちだって、たまには言い返してやるから。おまえ、全然似合ってねーから、その髪型。化粧、下手だって、ブスだって言ってたからな、うちの妹。反撃の準備はいくらでもできていた。
次の瞬間、雨宮は逃げ出した。
驚いている間にも足音は遠ざかってゆく。
「────ッの野郎……!」
後を追って廊下へ飛び出した。だいぶ小さくなった背中めざして、全速力で走る。
距離はあっという間に縮まった。
「なんでついてくんのよっ、」
走りながら雨宮は叫ぶ。
「なんで逃げるんだよっ、」
僕はお構いなしで追った。
「あんたが追いかけてくるからでしょ!」
「おまえが逃げるからだろ!」
校舎内を慌しく駆け回る僕らは揃って滑稽で、まるで回し車で遊ぶハムスターだ。現に、僕はちょっと遊んでいた。雨宮の逃走なんてほとんど無駄な足掻きで、あと少し本気を出したら容易く追いつきそうだったから。限界寸前なのかもう息が切れている。必死で逃げる余裕のない彼女を、いくらでも眺めていられる気がした。
甘いにおいに鼻がなじんで、どうでもよくなってゆく。
教室を終着点に彼女の逃亡劇は幕を閉じた。座り込んでぜえぜえ言っている。体力もないくせに無茶するからだ。一足先に呼吸を整えて、隣に座った。
「似合ってねーぞ、髪型。」
からかってみる。
「う……うるさいわね。」
「化粧、下手だな。」
うるさいわね。まだ息を切らしている雨宮がとことん滑稽で、笑えた。
「スカート、短くね?」
意地の悪い僕が始まって、裾を摘んで捲る。即座に雨宮の手が制裁を加えてきた。
「訴えて勝つわよ。」
ひっぱたかれた部分をさすって、また笑った。けっこう大声で笑った。雨宮は目を据わらせて、変な顔で黙っていた。教室に僕だけの声が響いて、通りかかった教師に早く帰るよう、注意された。
「ご苦労なこった。」
USBを翳してあきれながら言った。雨宮はふんと鼻を鳴らす。さすがにもう走る気力も体力も残ってないのか、おとなしく歩いていた。
「おまえは何がしたいわけ? 結局。」
隣を向くと、雨宮が不機嫌に「は?」と眉をひそめた。
「だからさ、こんなリスク冒してまで俺の成績上げて、なんの意味あんの?」
続く質問に、更に機嫌を悪くする。
「つけあがるんじゃないわよ。あんたじゃなくて、セージさまのためよ。」
またそれか。僕は頭をかいた。
わかってはいたけれど、いや、わかっているからこそ、いつも話が進まない。この隷属性や心酔ぶりが、さも当然のように彼女は振舞うけれど、根本は未だ明らかにされていない。それさえ判明すれば、もしかしたら納得も協力もあるかもしれないのに。一度たりとも、何も説明してくれない。
「今、セージさまが一番喜ぶのは、あんたが順風満帆に過ごすことなのよ。」
雨宮は尚も、尽くすことだけを口にする。
「それのどこが自分の意思なんだよ、」
僕は先ほどの彼女を蒸し返した。
否定してたけど、結局命令こなしてるだけじゃん。要は言われるがまま動いてる、そんなの、意思じゃないだろ。きびしめに追及しても、雨宮は確固として態度を変えない。
「意思よ。あたしは自分の欲望をまっとうしているだけ。」
欲望、ねえ。苦笑まじりに呟いた。
似つかわしくない発言だな。物欲とか無縁そうなのに。まあ、最近はそれなりに女子高生のかたち、しているけれど。改めて観察していると、視線が合うなり素っ気ない表情が睨んできた。あ、やっぱり、こいつはこいつだ。
「アイスでも食って帰る?」
話を捻じ曲げた。
「………なんでよ、」
「暑いし。奢るからさ。な?」
「お断りよ。」
「あっそ。じゃあこれ捨てよっかなー?」
USBメモリを握ったまま歩道橋から腕をのばすと、雨宮はわかりやすく慌てふためいた。
「なっ、なに考えてんのよバカ!」
身を乗り出して阻止しようとするが、身長が足りなくて危なっかしい。
「今回そうとう自信無いからなー。三桁かも、順位。仲村失望するだろうなー。」
雨宮が落下しないように、支えつつ煽る。
「わ、わかったわよ! 奢られてやるわよ!」
観念してくれたところで、USBを胸ポケットにしまった。
「…………ハーゲンダッツよ、イチゴ味。」
ふて腐れながらも、ちゃっかり要求してくる。
「サーティワン近いからそっちにしてよ。」
「さあてぃ?」
「苺のもあるからさ。しかもチーズケーキ入り。」
「……なんだっていいわよ。」
そのわりには足早に、歩き始めた。




