02 『邂逅』
コンビニで買ったパンを学校の駐輪場で齧った。放課後とは一転、閑散としている。
下校時刻はとうに過ぎているし、自転車も点々としか残されていない(たぶん、残業中の教職員の物か、ずぼらな生徒の置物なのだろう)。
日が暮れるにつれて、灯かりを減らしてゆく校舎を眺めながら、時間が流れるのを待った。
……あの様子じゃ、ひのでも母さんも今日は部屋から出てこないだろう。顔を合わせる心配も無い。僕が家にいる必要も無い。まあ、いたところで何かできるわけじゃないけれど。
頭の片隅から消えてくれない家族のことを考えているうちに、手元のパンが無くなってしまった。
空もすっかり夜に変わり、月が目立ち始めている。円に成りきれていない丸だ。
そろそろ頃合だろうとエンジンをかけた。
先ほどまでは僅かに灯かりを残していた校舎も、いよいよ廃墟みたいで、
僕は油断していた。
「────………!!」
迂闊だった。
まさか校門から人が飛び出してくるなんて。
咄嗟にブレーキを踏み間一髪で接触は免れたけれど、飛び出してきた人影は腰を抜かし、周辺には鞄、教科書、文房具、プリントが散らばった。
ライトが、見覚えのある制服姿を照らす。同じ学校の女子生徒だ。
よく見れば顔にも見覚えがあった。
戸惑いながらもうらめしく睨みつけてくる彼女は、同じクラスの雨宮だ。
「ごめっ……大丈夫…?」
同じクラス、とはいえ、彼女と言葉を交わしたことは無い。状況も状況だし、なんとももどかしい距離感で声をかけた。
雨宮はこちらを睨みつけたまま、だんまりを決めこむ。
気まずい沈黙の中、せめて散らばってしまった教科書を拾おうと近づくと、雨宮は慌てて教科書やプリント掻き集め、無造作に鞄へ押し込んだ。
「……いっ、いいい粋がってんじゃないわよ、クソガキ!」
震えた声からの、しどろもどろな罵声。
唐突な威嚇に僕は茫然と立ち尽くすしかなくて、身を翻して逃げてゆく雨宮の背中を、追いかけることも呼び止めることもできなかった。
………よかった。怪我はさせていないみたいだ。
でも、なんだ今の?
怒ってたんだよな、きっと。まあ悪いのはこっちだし。しかし何なんだ今のは。ぶしつけ、とも違う。繰り返すが悪いのはこっちだ。でも一つ言わせてもらうなら、少なくとも粋がったつもりはない。しかもクソガキって。
轢いていたかもしれない恐怖心や、怪我を負わせていたかもしれない罪悪感よりも、もっと別の、疑問符で塗ったくられた謎の感覚が邪魔をする。
再度出発し、帰路をたどる間じゅう、僕は延々と、初めて言葉を交わしたばかりの『雨宮糸子』なるクラスメイトについて考え続けていた。
雨宮糸子は、成績優秀な女子生徒だ。
でも、それ以上は知らない。
『雨宮さんって静かなタイプだもんね。』
昼間、百香は雨宮についてこう評した。僕にはその表現が優しいと思えた。
『静か』なんて表現が褒め言葉になってしまうくらい、雨宮は浮いている。
もう一年以上も同じ教室で過ごしているというのに、僕を含め級友たちと親しくしている光景を目にしたことなんて、一度も無い。
無口で無愛想で孤立しているし、かといって進んで交流しようとする素振りも見せない。授業以外の時間は、小難しそうな本を読みふけているような生徒だ。
容姿もまた特徴的で、小奇麗にはしているがとにかく地味なのだ。長い髪は機能性重視の三つ編みだし、眼鏡も当世風な物とはほど遠い。
ただし成績は申し分なく、期末でも中間でも、むろん此度の学力診断でも、上位者の常連として名を馳せていた。
つまり、彼女を把握できる限りの情報を掻き集めるのなら、おちこぼれの僕とは別世界の存在なのである。
しかし……あれは少々意外な姿だったな。
僕は普段の雨宮から、彼女なら何事も無くすっと立ち上がって、無言のまま颯爽と闇夜に消える、みたいな人物像を描いていたのだけれど、現実は畏縮しながら柄にもない罵声を浴びせ、一目散に逃げてゆく少々哀れなさまだった。
雨宮をばかにするつもりはない。きっと僕が彼女の立場なら、もっと滑稽な姿を披露していただろうし。そもそも事故未遂は僕のせいだし。
ただ、意外過ぎる「優秀なやつ」の面影が、家につくまでずっと消えないままだった。
家に戻るころには二十二時を回っていた。
あとは風呂に入って、少しテレビでも点けて、寝る、それで本日は終了……のはずだったのに、出迎えた母さんの存在が、このまま予定通りに終わらせてくれないことを示唆させた。
「おかえり。どこ行ってたの、もうっ。」
母さんは夕方とは打って変わり、明るい声と笑顔を向けた。
「ごはんはどうする? 今日はハンバーグよ。明日のお弁当にも入れてあげるからね。」
あ然とする僕なんか無視して、いやに機嫌が良い。
「もう大丈夫なの?」
損ねないように聞くと、母さんは勿体ぶるように口角を上げ、目をほそめて、やがてぱっと顔を輝かせた。
「あのね、ひのでがね、謝ってくれたの。反省してるって。やっぱり間違ってなかったのよ、あたし。信じて良かったわ。あの子は本当はいい子なんだって。」
饒舌な所だけは、取り乱している時とおんなじだ。
本当にもう、このひとは。僕は呆れ半分安堵半分でおおよそを察し、二階へ向かった。
ひのでの部屋を静かに開けると、思ったとおり、百香がいた。
目が合うなり、しーっと人差し指を口元に立てる。ひのでは百香の膝枕で、すやすやと寝息をたてていた。
「にきびできてる、ここ、」
百香は撫でるようにひのでの前髪をかき上げて、小声でくすくすと笑った。続けて、新調したてのネイルを指して、器用だよね、なんて感心した。
「悪いな、」
隣に腰をおろして、僕も小声で言った。
なにが? 百香はきょとんと聞き返す。
「こいつのこと。丸く治めてくれたんだろ、」
「おばさんにきいたの?」
「いいや。おまえが来てることも知らされなかった。」
「あはは、百香ってば影うすーい。」
「自分だけでいっぱいなんだよ、あのひとは。」
息子ながら恥ずかしくなった。百香の手柄でしかないというのに、信じていただとか、本当はいい子だとか……まあ、そういう母親なんだってのは、とっくの昔から承知のうえだけど。
「でも珍しいじゃん、おまえが説教するとか。」
百香はひのでを撫でながら、お説教なんてしてないよ、と笑った。
「ほら、高校生になると風当たり厳しいし、一応ね。」
こういうところで、また僕は彼女の優しさを痛感してしまう。そこにはもちろん感謝もあるけれど、少々の煩わしさも、口にできない事実だったりする。
「こいつって、おまえの言うことだけはきくよな、」
いくつか会話を交わすうち、いつの間にか小声ではなくなっていた。それにも関わらず、ひのでは目を覚ましそうにない。
「そういう言い方、百香好きじゃないなー。」
百香の膝で眠っているのは、ただの大きな子どもだった。
無防備に安らいでいて、暴虐なんて微塵も見当たらない。女のにおいもしない。
「ひのでは話せばわかる子だもん。ちょっと賢すぎるだけ。」
装飾をちりばめた派手な爪が、どうにも浮いてみえた。