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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第四章】 透明色と曇り空
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28  『侵蝕』




 予定より三十分以上も(おそ)く、母さんは帰ってきた。このくらいの時間帯になると「ただいま」は言わず、自分で鍵を開けて入ってくる。


「あら、起きてたの?」

 まずはテーブルの僕に声を掛け、次にソファで眠るひのでをみつけて、「あらあら」と声をひそめた。静かに買い物袋を片付けようとする彼女に、爆睡してるから大丈夫だよ。と普通の声量で言った。


「お客さんから貰ったの。食べる?」

 上着を脱ぎながら、テーブルに置いたばかりの箱を指す。開けてみると、ちょっと高級そうなプリンが並んでいた。


「貰おうかな。」

「じゃあお母さんも一緒に食べる。」


 二人で箱を覗いてプリンを選んだ。味はプレーンと、苺と、抹茶の三種類。迷わず抹茶に手を伸ばすと、母さんは目をまるくした。

「旭は苺選ぶと思ったのに、」

 意外、と言わんばかりの顔をする。大好物じゃない、いいの? 念を押すようにきいてきた。


「そうだけどさ。ひので(こいつ)、抹茶食べれないじゃん。黒蜜とか餡子とか、和菓子全般だめじゃん、こいつ。」

 スプーンを咥えたまま指摘して、蓋をはずした。ひとくち食べると抹茶の味が広がった。正面では、母さんが目をぱちくりしている。僕は視線を逸らした。


「それに、ひのでも好物なんだよ、いちご。」


 視線を合わせるのが怖くなった。プリンだけに集中していると、三口目あたりで底に沈んだ蜜に辿りついた。思ったとおり風味の強い黒蜜だ。選んで正解だったなと噛み締めていると、息を吐く音が聞こえた。

 顔をあげると、母さんが笑いをこぼしている。


「なに笑ってんの、」

「だって……」

 ひのでが寝てなければ爆笑していそうなくらい、堪えている。


「旭が、『お兄ちゃん』してるんだもの。」

 口元に手を添えて母さんは言った。


「そうよね。なんだかんだ言っても、お兄ちゃんなのよね。成長、しちゃうのよね。」

 ゆったりと、落ち着いた口調になってきた。


「あたりまえだろ。」

 身体の力が勝手に抜けた。何年分と、ぜんぶ。


「そうよね。あたりまえよね。」

「さみしいんだ?」

「まあ、ちょっとはね。」

「でも、ちょっとはまだ子供だよ。」

「あら、ずっと子どもよ、お母さんには。だからずっと愛しちゃう。」


 平然と恥ずかしいことを言うもんだな、母親って。


 たじろぎそうな自分をごまかして、「ひのでも?」と訊ねた。

「あたりまえでしょ。」母さんは即答する。


「ひのでも、旭も、……子どもはみんな、よ。子どもはね、愛されていればいいの。愛されるべきなのよ、子どもは、みんな。」


「母さん、」


 どういうわけか、僕は声をかぶせた。そしてまた、どういうわけか、聞く。


「ひのでの話を聞かせてよ。」

 母さんがまた目をまるくした。


「ひのでの?」

「うん。ひのでの、ちっちゃい頃とか。」

「いきなりね。」

「聞いたことないからさ、聞きたい。」


 そうねえ……。母さんは、ゆっくりと口に運ばれてゆく(ひと)すくいを、飲み込んでから語り始めた。




 ひのではね、ちいさな赤ちゃんだったの。

 予定日より一ヶ月も早く産まれて、二千グラムもなかったのよ。保育器に入れられて、一緒に退院、できなくて。あなたと違って、よく病気する子だったわ。肺炎にもなったし、大晦日に熱出したこともあったっけ。


「可愛かったんだな、」僕はちゃちゃを入れた。母さんが、眉を八の字にして笑う。

「手間が掛かったり掛からなかったり、極端でむずかしい子だったわ。」


 夜泣きはしない。好き嫌いもない。外で駄々もこねないし、走り回りもしない。

 でも人見知りが激しくて、幼稚園の先生にはまったく懐かない。予防接種はお父さんとならおとなしく行く。

 それ以上に大変だったのが、思春期。小学校のトイレでピアスはあけるわ、受験の時期に髪は染めるわ、上級生だろうと他校生だろうと暴力沙汰は起こすわ。何度菓子折りを持って行ったことか……と、母さんはため息で締めくくった。



「たくさん泣かされたけど、仕方ないのよね。この子だって、母親を選べなかったんだから。」


 スプーンを持つ手が完全に止まっている。

 妹のほうに視線を流して、遠くを見た。


「あたしの子だもの。二度と手放すもんですか。」


 ……本当にもう、このひとは。

 僕は空になったプリンの容器に、視線をおとした。







 ことさらに整ってしまった世界は、居心地が良かった。

 見るのはきれいな所だけでいい。汚い疵は塗り潰してしまえ。

 目を閉じろ、背けろ。見極めて上手に生きるんだ。だから殴られない、縋られない、羨望も平和もぜんぶ手に入る。ゆとりだって、生まれる。

 ここには嫌なものが、ひとつも無い。



 なんて穏当なんだろう、ほんの少し、捨てただけなのに。


 蝕まれてゆく。足元から胸のあたりまで走るきしみに、耳を塞いだ。

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