28 『侵蝕』
予定より三十分以上も晩く、母さんは帰ってきた。このくらいの時間帯になると「ただいま」は言わず、自分で鍵を開けて入ってくる。
「あら、起きてたの?」
まずはテーブルの僕に声を掛け、次にソファで眠るひのでをみつけて、「あらあら」と声をひそめた。静かに買い物袋を片付けようとする彼女に、爆睡してるから大丈夫だよ。と普通の声量で言った。
「お客さんから貰ったの。食べる?」
上着を脱ぎながら、テーブルに置いたばかりの箱を指す。開けてみると、ちょっと高級そうなプリンが並んでいた。
「貰おうかな。」
「じゃあお母さんも一緒に食べる。」
二人で箱を覗いてプリンを選んだ。味はプレーンと、苺と、抹茶の三種類。迷わず抹茶に手を伸ばすと、母さんは目をまるくした。
「旭は苺選ぶと思ったのに、」
意外、と言わんばかりの顔をする。大好物じゃない、いいの? 念を押すようにきいてきた。
「そうだけどさ。ひので、抹茶食べれないじゃん。黒蜜とか餡子とか、和菓子全般だめじゃん、こいつ。」
スプーンを咥えたまま指摘して、蓋をはずした。ひとくち食べると抹茶の味が広がった。正面では、母さんが目をぱちくりしている。僕は視線を逸らした。
「それに、ひのでも好物なんだよ、いちご。」
視線を合わせるのが怖くなった。プリンだけに集中していると、三口目あたりで底に沈んだ蜜に辿りついた。思ったとおり風味の強い黒蜜だ。選んで正解だったなと噛み締めていると、息を吐く音が聞こえた。
顔をあげると、母さんが笑いをこぼしている。
「なに笑ってんの、」
「だって……」
ひのでが寝てなければ爆笑していそうなくらい、堪えている。
「旭が、『お兄ちゃん』してるんだもの。」
口元に手を添えて母さんは言った。
「そうよね。なんだかんだ言っても、お兄ちゃんなのよね。成長、しちゃうのよね。」
ゆったりと、落ち着いた口調になってきた。
「あたりまえだろ。」
身体の力が勝手に抜けた。何年分と、ぜんぶ。
「そうよね。あたりまえよね。」
「さみしいんだ?」
「まあ、ちょっとはね。」
「でも、ちょっとはまだ子供だよ。」
「あら、ずっと子どもよ、お母さんには。だからずっと愛しちゃう。」
平然と恥ずかしいことを言うもんだな、母親って。
たじろぎそうな自分をごまかして、「ひのでも?」と訊ねた。
「あたりまえでしょ。」母さんは即答する。
「ひのでも、旭も、……子どもはみんな、よ。子どもはね、愛されていればいいの。愛されるべきなのよ、子どもは、みんな。」
「母さん、」
どういうわけか、僕は声をかぶせた。そしてまた、どういうわけか、聞く。
「ひのでの話を聞かせてよ。」
母さんがまた目をまるくした。
「ひのでの?」
「うん。ひのでの、ちっちゃい頃とか。」
「いきなりね。」
「聞いたことないからさ、聞きたい。」
そうねえ……。母さんは、ゆっくりと口に運ばれてゆく一すくいを、飲み込んでから語り始めた。
ひのではね、ちいさな赤ちゃんだったの。
予定日より一ヶ月も早く産まれて、二千グラムもなかったのよ。保育器に入れられて、一緒に退院、できなくて。あなたと違って、よく病気する子だったわ。肺炎にもなったし、大晦日に熱出したこともあったっけ。
「可愛かったんだな、」僕はちゃちゃを入れた。母さんが、眉を八の字にして笑う。
「手間が掛かったり掛からなかったり、極端でむずかしい子だったわ。」
夜泣きはしない。好き嫌いもない。外で駄々もこねないし、走り回りもしない。
でも人見知りが激しくて、幼稚園の先生にはまったく懐かない。予防接種はお父さんとならおとなしく行く。
それ以上に大変だったのが、思春期。小学校のトイレでピアスはあけるわ、受験の時期に髪は染めるわ、上級生だろうと他校生だろうと暴力沙汰は起こすわ。何度菓子折りを持って行ったことか……と、母さんはため息で締めくくった。
「たくさん泣かされたけど、仕方ないのよね。この子だって、母親を選べなかったんだから。」
スプーンを持つ手が完全に止まっている。
妹のほうに視線を流して、遠くを見た。
「あたしの子だもの。二度と手放すもんですか。」
……本当にもう、このひとは。
僕は空になったプリンの容器に、視線をおとした。
ことさらに整ってしまった世界は、居心地が良かった。
見るのはきれいな所だけでいい。汚い疵は塗り潰してしまえ。
目を閉じろ、背けろ。見極めて上手に生きるんだ。だから殴られない、縋られない、羨望も平和もぜんぶ手に入る。ゆとりだって、生まれる。
ここには嫌なものが、ひとつも無い。
なんて穏当なんだろう、ほんの少し、捨てただけなのに。
蝕まれてゆく。足元から胸のあたりまで走るきしみに、耳を塞いだ。




