26 『お願い』
夏服が目に馴染まない。衣替えしたてはいつもそうだ。
朝一番に遭遇する制服姿がひのでなのも、きつい。腰に巻いたカーディガンより短いスカート、釦を外した胸元から覗くペンダント、シャツに透ける濃い色のブラジャー。冬服よりも割増な女くささに、目を背けたくなりながらも正面に座った。キッチンでは母さんが、鼻歌まじりで水仕事をしている。
「旭、」
トーストを半分くらい食べたところで、ひのでが声をかけてきた。
「アメミヤイトコってどんな女?」
齧ったまま少し止まった。
「え、なんで?」
冷静を装いつつ聞き返すと、ひのでは続けて「同じクラスだろ、」と聞いてきた。「まあ、そうだけど……」僕はそのまま答える。
「どんな女?」
「どんなって……まあ、頭が良い。」
「顔は?」
「へ?」
「可愛い?」
「いや、別に。」
「じゃあブス?」
「そうでもないけど……」
「どっちかって言ったら?」
「ど、どっちかって……」
質問どうこうより、珍しく口数の多い妹にたじろいだ。
「私とどっちが可愛い?」
しまいには、真剣にこんなことを聞いてくる。
何言ってんだこいつ。あ然と口を開けていると、母さんが近づいてきた。
「なになに? 朝から仲良しさんねえ。」
にこにこしながら弁当包みを二つ手にしている。黄色いほうを僕に、水色のほうをひのでに渡して、「何の話?」と輪に入ってきた。
「旭のクラスの女の話。」
ひのでが簡素すぎる説明をする。
「えっ、彼女できたの!?」
母さんはおおげさに両手を口元にあてる。違うよ。なんでそうなるかな。
「別に、たいして仲良くないし。」
話を切り上げて席を立つ。
「もういいの?」
「うん。今日と明日小テストだから、もう出る。」
「大変ね、頑張ってね。お母さん、応援しちゃうから。」
会話をしながら、母さんは玄関まで見送ってくれた。
母さんは最近、機嫌がいい。
理由は二つ。ひのでが弁当を頼むようになったことと、僕の中間試験の好結果の件。ついでに、僕とひのでがまあまあ喋るようになったのも、たぶん理由。
ひのでは最近、棘が無い。
殴りかかってこないし、他校生と諍いも起こさないし、少しばかりとっつき易くもなってきたし。きっと、僕と百香の関係が安定しているからだと思う。それはともかく、妹が問題を起こさないだけで我が家はこんなにも平和になるのか。想像以上だったひのでの存在を、痛感した。
「おっはよ、旭、」
校門をくぐったあたりで、百香が声をかけてきた。おう、と返してすぐ、別のクラスメイトも続けさまに、「皆口くんおはよー」と挨拶してくる。二人、三人、四人くらい「おはよう」を返し合った。
教室までの道のり。ここでまた挨拶が増える。廊下で待ち構えるのは、他クラスの生徒たちだ。目が合うなり、おはよう、おはよ、おっす、人それぞれな声を浴びせる。
「最近友達増えたよねー、」
感心しながら言う百香も教室に入るなり、目の合う女友達に片っ端から挨拶を返し合った。
そして最近は、決まって最後、彼女でしめる。
「おはよ、糸子ちゃん。」
席まで駆け寄ってきた百香に、彼女は口角をほんのり上げた。
「おはよ、桂木。」
とかれた長い黒髪。眼鏡を消した薄化粧。気さくな態度、艶やかな笑顔。目に馴染まないのは、夏服だけのせいじゃない。
百香と親しげに談笑する、雨宮糸子に近づけないまま、僕は自分の席で予習を始めた。
日常が、狂う。
ことさらに整ってしまった僕の世界は、罅じゃ済まされない域に陥っていた。
穏当な家族。申し分ない成績。消えてしまった孤立者の烙印。学友たちからの羨望、評価、友好。別人のように磨かれてゆく、もう一人の元・孤立者。
すべての根源は、彼だ。
「皆口くん、」
今日も仲村星史は特進クラスにやってくる。午前の授業が終わればすぐに、僕を昼へと誘う。僕は財布とスマホと弁当包み、お決まりの三つを持って席を立った。
売店寄っていい? 「いいよ。なに買うの、」飲み物忘れた。「俺、余分にあるよ。」いらねーよ。どうせカフェオレだろ。「ご名答。」あんなのでよくメシ食えるな。「余裕余裕。お寿司でも平気。」きもちわる。
馴れ合いの会話を繰り広げながら、教室を出た。
あの夜、
仲村の『お願い』は、人身売買だった。
人聞き悪いなあ。仲村ならきっとそう言うだろうけど、僕からすれば立派な人身売買だ。
「来月の第三金曜、俺んちに来てよ。」
提示された選択の末、『お願い』を選ぶと、彼はそう命じてきた。いちいち日取りを指定するあたり嫌な予感しかしない。訝しく頷いて了承した。
「やだなあ、警戒しないでよ。変なことはしないからさ。」
笑い飛ばす仲村を信用できるはずがない。でも、このときは雨宮の身には代えられないことが、優先していた。
「それと、もう一つ。」
仲村は澄まして、人差し指を唇におく。
「これまでのそいつとの時間を全部、俺にあててほしい。」
雨宮を指して、『お願い』を追加した。何を言っているのかすぐには理解できず、困惑したまま固まった。
「思った以上にクソブスが近づきやがって、ぶっちゃけ気に食わないんだよね。だから今度からは、俺と昼休みを過ごしてよ。誰よりもきみを優先しちゃうからさ。あはー。」
はにかんで頬をかく。そして僕の返答を聞くよりも先に、雨宮を睨みつけた。
「二度としゃしゃり出んなよ。」
辛辣に釘を刺され、雨宮はもう一度、額を床にこすりあてた。
跪いて従順に告げる。
「承知致しました。セージさま。」
僕なんか、いっさい見ちゃいなかった。




