25 『選択』
おかえりなさい。
視聴覚室に飛び込むなり、仲村は笑顔で迎え入れた。
絶対、ここだと思った。現に二人は、いた。
仲村は椅子で脚を組んでいて、雨宮は少し距離をとった後方で構えるように佇んでいた。見たところ暴行された様子は無い。僕は息切れの合間に安堵の溜め息をつく。
なんだか、若頭とヒットマンみたいだな。そんなくだらない例えがよぎるくらいの余裕も出てきた。
「じゃあ、受け付けよっか。質問。」
手のひらをこちらに翻して、仲村は小首を傾げた。僕は呼吸を整えながら視線を外し、雨宮へと向けた。
「雨宮……おまえ、くれた……あの、プリント、って、」
まだうまく喋れない。息切れと疑惑が邪魔をする。
「話されているのはセージさまよ。」
雨宮は冷たく突き放した。
「うるせーよ、肥溜め。」
割って入るように、仲村が雨宮に罵声を浴びせる。それからすぐに僕のほう向くなり、にこやかな優等生の表情を戻した。
「ごめんね、気分悪くさせて。聞きたいことはわかってるよ。テストのことだよね?」
まばたきを挟んで、仲村は核心に触れた。
「こいつが作成したプリント。俺が渡したUSB。今回の試験問題。すべての内容が一致した件について、きみは困惑している。」
すいすいと言葉滑らかに見透かしてくる。身じろぎ一つできずに、僕は口を噤んだ。
「たぶんお察しの通りだよ。俺とこいつは、盗み出した試験問題を共有した。そしてきみも、その恩恵にあずかったってわけ。」
いとも容易く暴露された優等生たちの秘密に、頭が追いつかない。
盗んだ……? 学校から? ……どうやって? 今回だけ……か?
いやそんなはずはない。それならいつからだ? 常習犯?
僕も共犯になるのか? ばれたら、ばれたらどうなる? 学校に、家族に、世間に……
収拾がつかない思考なんて、正直どうでもいいことばかりだ。
でも、瞬時に閃いた推測だけは見過ごせなかった。彼らの主従関係の理由。きっと、ここにあるに違いない。
手に入れた試験問題を盾に、彼女を下僕にしているのか。僕は詰め寄った。
「勘違いしないで。セージさまに、そんな薄汚いことさせないわ。」
淡々と雨宮が口を挟む。
言葉を失う僕に更なる追い討ちをかけた。
「汚いことはあたしの仕事よ。」
あたしの仕事。主人の後方で腕を組んで誇る。
「こいつ、調達だけはお手の物なんだよ。教師たちもこいつなら警戒しないしさ。」
そこからも信じられないような、事実と認めるしかない追い討ちが続いた。
雨宮は俺たちの代の新入生首席。不正を疑う教師なんていない。素行に悪評も無く、成績以外目立つ部分も無く存在感も薄い。校内に晩くまで残っていようと、試験期間中教務室への出入りが頻繁になろうと、警戒されることもない。
その実、この女はけっこう手癖が悪い。
そのうえ記憶力は良い。
最近は試験問題をデータ管理する教師ばかりだ。調達なんて、さほど難儀なものではない。
以上の事を、仲村はかいつまんで説明した。
その内容と、これまで遭遇した雨宮との記憶が、一致してゆく。
初めて喋った夜更けの校門。
慌てて隠していた鞄の中身。
幻聴にも思えた二度目の夜更け。
当たりすぎるヤマ。
不自然が、音をたてて昇華してゆく。
「まあ、どうしてもガードが固い場合は俺も手助けしてやるんだけどさ、たいていは余裕で成功するよ。まさか学年ツートップがグルだなんて、誰も思わないでしょ。俺たち、普段は他人同然だし。」
痛み入ります、セージさま。雨宮が俯いて瞼をふせる。
「良かったね。こんなゴミクズ女とでも仲良くしていたお陰で、きみもおちこぼれから見事脱却だ。…………でも、残念だなあ、」
流暢な言葉が途切れる。とたんに目元から笑顔が消えた。
「こいつなんかより、俺を使ったほうがもっと良い結果出せたのに。俺のほうが、ぜったい、役に立ったのに……どうしてかな。おれのほうが、きみのこと、こいつなんかより、絶対……」
仲村は曇った声で、悔しそうに不平不満を並べた。
「ぜったい、ぜったい、おれのほうが、きみを……きみのことを────」
ぼそぼそと唱える独り言が、聞き取れなくなってゆく。
「────まったく使えねえなてめえはぁッッ!!!!」
次の瞬間彼は豹変した。
怒号を浴びせながら雨宮に歩み寄り床へと突き飛ばす。倒れ込んだ彼女の三つ編みを引っ張りあげると、吊り上げられた雨宮は無抵抗のまま表情を歪めた。
「なあんでてめえが二位に居座ってんだよブス。皆口くんに八位取らせるとか、ふざけてんの? この役立たずがさあッ」
三つ編みを離すと同時に足蹴にして突き飛ばす。倒れこんだ雨宮を前に、吐き気を催しながら僕は駆け寄った。
「やめろッ!!!」
頼りない壁になって仲村を睨む。
「八位以上の結果が出せなかったのは……俺の責任、だろ、」
庇って抱いた雨宮の身体はなんだか無機質で、いつもの体温が嘘みたいだった。怯える僕の腕から、作り物みたいな身体がするりと離れる。
「…………セージさま、」
茫然とする僕をよそに、雨宮は額を床にあてて跪いた。
「はばかりながら、申し上げます。……やはり、段階は踏むべきかと。」
雨宮は淡々と続けた。
「二位となれば、全教科の高得点が必須条件となり、それでは些か違和感が生じます。……まずは特定の教科で点数を稼ぎ、他の教科は赤点のまま留めておけば、『特定の教科だけ猛勉強した結果』として、周囲も教師も納得した状態で、自然と十位圏内に入り込むことができます。これにより皆口旭は、『努力が成果となる人間』として認知され、次回からはどんな結果を出そうと、疑惑の目を向けられることはありません。」
ひと息に、冷静な見解を示す。
あくまで従順な彼女を見おろしたまま、仲村は読めない表情をしばらく保った。
「んー……それもそっかー。」
やがて例の、わざとらしいしぐさで、人差し指を顎にあてた。
僕はかっとなって雨宮の肩を掴んだ。
「何考えてんだよ……? なんでこんな奴に従うんだよ!?」
起き上がらせて、向かい合わせても彼女は無機質なままで、電源が切れてしまったみたいに、ただただ揺さぶられた。
「おまえにこんなことさせてまで、俺は結果なんて出したくない! おちこぼれのままでいい……! もうこいつに関わるのなんてやめろ!!」
どんなに語りかけても視線さえ合わせてくれない。素っ気ない言い草も、豊富な悪口も、返ってこない。僕のぜんぶが彼女には届かないのだと、絶望した。
「俺……おまえを────」
「皆口くん、」
落胆する背中に仲村の声を浴びた。
「それ以上は言わないほうがいいよ。俺が我慢できなくなる。」
忠告か脅迫か、危険を察した体がこわばる。
雨宮……どうして。僕は情けなく呟いた。
「きみには解らないよ。」
わずかに仰いだ先で、仲村は頬杖をついていた。僕を、見おろしている。
「こいつのことも、俺たちのことも。知る必要なんて無いんだ。
とるに足らない興味でしかないんだよ。役に立たない好奇心なんて捨てなよ。損得を見極めてよ。上手に生きようよ。もう高二なんだからさ、俺たち。」
口元だけで仲村は笑う。
「きみには、おれだけを知ってほしい。きみを知るのも、おれだけでいい。」
隣から気配が忍び寄る。気づけば、硬直する僕の首筋で、雨宮が顔をうずめていた。
細い腕で絡みつき、かよわい力をこめて抱きついてくる。
「…………皆口、……おねがい、」
罅われた声が、耳もとで鳴いた。
「あんただけ……あんたじゃなきゃ、だめなの、」
懇願が、体温を連れだって身体へ浸透してゆく。
「このひとを……捨てないで。」
どうしよう。悔しいくらい身に覚えのある、雨宮糸子。
認めたくない体が抱擁を返せないまま、離れてゆくのを待つ。差して時間も経てずして雨宮は僕を解放し、無機質な塊に戻った。
「選択肢をあげるよ皆口くん。俺のお願いを叶えてくれるか、こいつの願いに唾を吐くか。さっそく見極めよっか? あはー。」
透きとおる声と共に差し伸べられた手は、薄暗い部屋に白く映えていた。