24 『執着』
手応えは確かにあった。
現に、赤文字の採点は何度も見直すほどに、出来すぎた数字だった。
だけど紙面上の結果は、あくまで僕だけが知る僕の成果だったわけで、大衆の目がつく掲示板にそれが貼り出されてしまうと、ましてや順位なんかつけられてしまうと、まるで、ファンタジーが現実になったような、信じ難い感覚に陥ってしまう。
ありえない。
[科目別 現代文 十位 皆口旭]
[科目別 英語 十位 皆口旭]
[科目別 物理 八位 皆口旭]
[科目別 化学 九位 皆口旭]
[科目別 世界史 五位 皆口旭]
[二学年総合成績 八位 皆口旭]
掲示板に記された自分の名が、違和感でしかない。
違和感どころか異物感だ。共に並ぶ成績上位者たちの名前は常連の顔ぶれなのに、『皆川旭』の三文字だけが完全に場違いだ。そのぐらいありえない。
「皆口旭って誰? 何組だっけ?」
……掲示板に群がる至る所から、声が聞こえた。
「ほら特進の。」「ああ、最近星史と仲良い。」
……これはたぶん、他クラスの生徒たちだ。
「皆口くん凄い。爆上げじゃん。」「最近ガリ勉だったもんな。」
……これは特進の生徒たち。
みんな信じられないとばかりに口々に言う。
ふざけんな。一番信じられないのは僕本人だ。嬉しさや優越感に浸る余裕なんて無い。むしろ居心地が悪いくらいで、一刻も早くこの場から消えてしまいたかった。
しかしどうにも、気まずい場面というのは立て続けに訪れる。
「皆口くーん! やったじゃん!」
後ろから飛びつかれるように肩を抱かれた。真横で、仲村星史の人懐こい笑顔が輝いている。
「一緒に頑張った甲斐があったねー。俺、まじで嬉しい。」
身に覚えのないことを口にしながら親しげにじゃれてくる。
何言ってんだこいつ。
仲村の登場により逃げる隙を失うばかりか、一瞬にして注目の的となった僕は、すっかり気が動顛してしまった。群衆の目が、妙に生暖かい納得の色に変わってゆく。
……事を荒立てたくはない。彼の腕をほどき、表情を露わにしないよう背を向けて歩き出した。
「なになになにー? あはー。恥ずかしがっちゃって~。」
うしろから、仲村の無邪気な声が同じ速度でついてくる。離れた群衆からも、くすくすと和む声が届いた。
無視を決め込んでもなお、仲村はいつまでもついてきた。
「ねえねえ、皆口くんってばー。」
校門からだいぶ離れた。もうすぐ駅も越える。バイクに着いてしまえばこっちのものだ。
背後に仲村の軽やかな足取りと気配を感じながら、僕は無言で歩き続けた。たぶん、あのむかつく顔も健在だ。絶対振り向くものか。
「けっこう役に立ったでしょ? あんなゴミクズ女でも。」
決心が一瞬で吹き飛んだ。後ろに目をやると、わざとらしい困り顔が拗ねている。
「あーあ、悔しいなあ。あーんな肥溜めブスなんかより俺を頼ってくれれば、鬼門の数学だって一位にしてあげられたのにさー。」
背筋を伸ばしながら仲村は言った。
勉強会のこと……筒抜けになっているのか。いや、かまをかけているだけかもしれない。
どちらにせよ、だからなんだってんだ。どうあっても、おまえになんか頼りたくない。
「おまえなんかに頼るかよ。」
突き放すように僕は言った。
「あは。その様子じゃ、やっぱり使ってくれなかったんだね、プレゼント。」
余裕たっぷりのまま仲村は小さくため息をついた。
不敵な笑みを浮かべて、一歩分距離を縮める。
「当たりすぎて怖くなかった? あいつのヤマ。」
僕は一歩分、後ずさった。
「だって、ヤマじゃないんだもん。」
仲村は容赦なく詰め寄る。僕は息を飲んで彼を睨みつけた。
「どういう意味だよ、」
精一杯の威嚇を、仲村は愉快そうにみつめていた。楽しくて、構いたくてしかたない、悪趣味な表情をしている。
「答え合わせは自分でしよーね。せっかく渡したんだからさあ。」
唐突な不穏が沸き起こる。いつかの、彼との出来事がフラッシュバックする。
僕は踵を返して逃げるように走り出した。
仲村の気配が遠ざかってゆく。もうついて来ていない。それでも走り続けた。バイクまで辿りつき、エンジンをかけてからも必死に逃げた。追ってこない影から、ひたすら逃げた。
帰路上の走行、信号待ち、右折、左折、自宅の開錠、靴を脱いだこと、階段を昇ったこと、ほとんど記憶に無い。
気づいたら自室に逃げ込んでいた。乱れた呼吸のまま、一心不乱に鞄を漁る。
どうして、どうして今になって思い出す。
どこだ。どこに入れた。あいつに渡された、あれは…………たしか、鞄の……そうだ、内ポケット。
あった。……USBメモリ、だ。
握ったまま呼吸を整える。息を飲む。そして迷いなくパソコンを起動させた。
背いていた心当たりが、正直あったんだ。
あまりにも出来すぎていると、不自然だと、考えたくなかったのに。仲村は引き金をひいた。
「……なんだよ、これ、」
予感は確証に変わる。
画面いっぱいに映し出されたのは、記憶に新しい中間試験のテスト用紙、そのものだった。
問題文もフォントも一字一句違わず、ご丁寧に回答まで記されている。震えながらスクロールすると、現代文、数学、英語、世界史、化学……全教科が揃っていた。
“当たるのよ、あたしのヤマ。”
“当たりすぎて怖くなかった? あいつのヤマ。”
“だって、ヤマじゃないんだもん。”
“けっこう役に立ったでしょ? あんなゴミクズ女でも。”
“……あんた、あのとき、みた?”
“ささやかなプレゼント。”
“雨宮、仕事だ。”
“はい。”
…………記憶も、場面も、時系列も、
ばらばらに散らばっていた不自然が、ひとつに纏まって戦慄へと変わる。
鳥肌だらけの腕を震わせながら、スマホの画面に触れた。画面内に眠る『雨宮糸子』の番号を、初めて押す。一分近いコールののち、やっと繋がった。
無言のまま通話時間がカウントを始める。
「雨宮?」
声をかけると、素っ気ない「なに、」が返ってきた。
「今、どこ?」
「……。」
返事は無い。
「あのさ、今から会えない?」
「……。」
また、無言。
「黙ってんなよブス。代われ。」
電話口から距離を置いて罵る声に、背筋が凍った。
「やっほー皆口くん。さっきぶりー。」
『雨宮糸子』の画面から届く、仲村の声。僕はたじろいで耳にあて直した。
「絶対連絡くれると思ったあ。ご用件はなーに?」
「……おまえに用なんてねえよ。」
強気な語調で対応した。こいつに、隙を見せてはいけない。
「またまたー。プレゼント見てくれたんでしょ? 聞きたいこと、あるんじゃないの?」
「雨宮に代われ。」
「えー。こんな根暗なんかより、俺とお話するほうが絶対楽しいよー?」
「代われ。」
動揺を、不安を悟られてはいけない。僕は気丈を振舞い続けた。
なんだよーつまんないなあ。仲村はわざとらしい口調で、子供のように拗ねる。
あーあ。俺だって皆口くんと仲良くしたいのになあ。ずるいなあ、こいつばっかり。妬けてきちゃうなあ。つまんない。つまんないよ、皆口くん。やだなー、こんな女なんて。ほんと、
「殺したくなる。」
通話はそこで切られた。
青ざめて血の気がひく。
ふざけんな。冗談じゃねえぞ。慌てて掛けなおすと三コールもせずに繋がって、仲村が「もーしもーし」とちゃらけた声で出た。
「何考えてんだてめえ、」
気丈になんていってられない。僕は声を荒げた。
「あはー。慌ててる慌ててる、こっわ。」
なおも愉しそうに仲村は笑った。こっちの激昂などお構いなしに一頻りけらけら笑った終わりで、少し声の色を変える。
「ねえ、皆口くん。きみに会いたいな、」
それは、いつかの耳打ちと同じ。艶やかで、粘り気のある声が耳にへばりつく。
「会いたいよ、いますぐ。怒ってるきみの顔が見たい。慌ててるきみの姿が見たい。困ってるきみを間近で見たいんだ。いろんなきみを全部、俺に見せてよ。今ね、学校にいるんだ。会いにきてよ。ゴミクズの奴もいるからさ。ねえ? 皆口くんに会えないと今度こそ俺、冗談とか、無理かも。────」
そこからは、より記憶が薄く断片的だ。
仲村に、すぐ向かう、変な気は起こすなと念を押した気がする。雨宮の名を何度も呼んだ覚えもある。気づけばまたバイクに乗っていた。見慣れた景色を横に飛ばしている。無我夢中で学校へと急いだ。
帰路を巻き戻す。
先程よりも死に物狂いで。
間に合え。間に合ってくれ。何もあってくれるな。
走りながら願うしかできなかった。




