23 『邪険』
少しでも、いい結果に。
淡い期待が衝撃に変わるなんて、夢にも思わなかった。
初日の世界史と現代文、二日目の化学、三日目の物理と英語。試験用紙が配られるなり、何度も見返し目を疑う。
ヤマが当たるなんてもんじゃない。
こんなの、まるで……
「おまえ、予知能力でもあんの?」
ストローを噛みながら僕は聞いた。
「んなわけないでしょ。」
雨宮も、ストローを咥えたまま不機嫌に答える。
「だって、ヤマ当たりすぎるからさ。俺至上一番出来たかも、今回。」
試験最終日の放課後、僕らはおよそ一週間ぶりに映写室に集まっていた。
今日に限っては昼休みではなく、弁当も持参していない。そもそも今は終礼後。あとは帰るだけなのに、なぜ集合しているかというと、その理由は雨宮の不機嫌の原因ともリンクする。
「そんなことより、あのバカ女なんとかしなさいよ、」
人差し指を向けて、雨宮は苦情を述べてきた。
話は二日前に遡る。
試験初日。つまり休み明けの月曜日、終礼が鳴るなり事は起きた。
「雨宮さん。このあと時間あるかな?」
百香が親しげに雨宮に声をかけてきたのだ。
「……え、……は…あ?」
「よかったら一緒にお勉強しない? 百香、明日の数学自信なくて……。迷惑じゃなかったら、教えてほしいんだ。」
あどけなく笑う百香に、雨宮は目をまるくするばかりだった。状況が把握できないのか、圧され気味に、半開きの口からは声が出ていない。
百香は構わず、ぐいぐい距離を縮めた。
「駅前のサイゼ行こうよ。百香、自転車だから二人乗できるし。勉強みてもらうお礼に、ドリンクバーごちそうさせて。」
僕は蚊帳の外に徹してはいたが、内心はらはらしていた。経験上、このままでは間違いなく雨宮の罵詈雑言が炸裂する。そろそろ見てられない。
百香か、雨宮か、どちらに声をかけるべきか悩んだそのときだった。
「……あ……ああああたし、きょ、今日は……い、いい急いでるから!」
視線を外して声を震わせながら言い切った雨宮は、鞄を掴んで一目散に教室から出て行った。
ぽかんと取り残された百香と一緒に、僕もぽかんとする。
そういう反応でくるか、と思う反面、そういえばああいう奴だったなと、懐かしくもなった。
試験二日目の終礼後も、百香はめげずに声をかけてきた。彼女なりに策を練ったのだろう。初日よりも更に馴れ馴れしく(きっと本人としては友好的に)腕に触れてきた。
「雨宮さん、一緒に帰ろ。」
両手で包むように、雨宮の肘あたりを掴む。女子同士なら寛容される程度の戯れではあったが、雨宮は「ひいっ、」と変な声をあげた。
「やだなあ、百香、チカンみたいじゃん。」
まったく動じない百香に比べ、雨宮は赤面しながら腕を振り払った。
「おっ……おお親がむむむ迎えにきてるからっ!」
そしてまた一目散に逃げてゆく。
二日連続で拒絶された百香は、「むう…」と唇を尖らせた。
「なに企んでるんだよ。」
下校する道すがら僕は聞いた。
百香はくるくると鞄を振った。
「人聞き悪いなあ。百香、雨宮さんと仲良くしたいだけだもん。」
「それ、女子の間でやばいんだろ?」
僕は意地悪くむしかえした。
「んー、そうかもだけど、旭のお友達なら、百香も友達になりたいし。」
なんだそれ。引き攣りそうになった表情を、なんとか保つ。
「それに百香ね、反省してるんだよ?」
「反省?」
「お説教してきたのは旭じゃん。うん。やっぱり百香も、ああいうの良くないって思う。」
両手で拳をぐっと握り、一人で納得するように大きく頷く。そんな百香の様子に僕は、はあ、と微妙な態度をとった。
「本音言うとね、最悪ハブられても、旭と雨宮さんがいればいいかなー、って感じなんだ。」
あけすけに笑う幼馴染からは、やはり厄介な女の烙印を消せそうにない。
確信を表情に出さぬよう、むしろ無理に笑って、平和的にその日を終えた。
そして試験最終日の今日。
この二日間を踏まえたのか、雨宮は終礼が鳴るなり教室から飛び出した。慌てて逃げるようにというより、極力目立たないように、こそこそと早足で出てゆく様子を、僕は目撃していた。
「ねえ旭、雨宮さん知らない?」
しばらくして百香が声をかけてきた。
「さっき帰ったみたいだけど。」
僕が言うと、百香は不思議そうに腕を組む。
「でも、靴がまだあるんだよね。ねえ、連絡とれないかな?」
連絡先知らないんだよ。即座に嘘をつくと、意外だと残念がられた。
「靴あるなら、まだ校内にいるだろ。玄関で待っててみろよ。」
話を逸らして提案すると、百香はそれだと賛同し、足早に教室から出て行った。
面倒なのに絡まれたな、あいつも。
同情と憐れみから、僕は自販機でパックのジュースを二つ買ってから、映写室へと向かった。
雨宮はやはり映写室に避難していた。
どうやらトイレに寄って帰ろうとした矢先、自分の下駄箱前で百香が待ち伏せていることに気づき、帰るに帰れなくなってしまったらしい。いつもは使っているパイプ椅子も広げず、床に座り込んで参っていた。
「まあ、あいつのことだから、一時間も待てないって。」
半分責任がある事実は伏せて、僕もこの籠城に付き合うことにした。
「案外、女子には弱腰なんだな、」
からかいながら、彼女と同じように床へ直に腰をおろす。いつもより景色が低い。
「女子というより……桂木百香は、調子狂うわ。」
「近寄んなメス豚! くらい期待してたんだけど、」
「どれだけあたしを俗悪だと思ってんのよ。」
まあまあ。宥めつつパックを手渡した。機材を背もたれに並んでジュースを飲み、テストの手応えを報告し、百香に関しての苦情を受け、そして今に至る。
合流してから二十分弱。僕らは隣り合ったまま、ぼんやりと座っていた。
中間試験が終わった開放感からか、退屈さえ心地良い。少なくとも僕は、の話だけれど。雨宮は違うのかもしれないな。
ちらりと様子を窺うと、雨宮は唇を鎖したまま無気力に座っていた。
ほんとう、華の無い女だな。置物みたいな彼女を、いくらでも見ていられる気がした。
「桂木って、」
みつめていると、珍しく雨宮のほうから口を開いた。なんだ、また百香の話になるのか。どうでもいいと言わんばかりに相槌をつく。
「少し、セージさまに似てるわ。」
適当に流すつもりだったのに、首が勢いよく雨宮方面に動いた。
彼女との間で、仲村の存在は禁句のままだったのに、こんなふうに登場するなんて。いや、それよりも似てるか? あの二人。僕は険しい顔をした。
「だから調子狂うのよ。」
雨宮は全然、僕のほうを向こうとしない。空になったパックを手にしたまま、視線を遠くに投げている。
「あたしのじゃないセージさまに、似てる。」
やがてぽつりと呟いた。
ほとんど独り言だった。置物の人形みたいにぼんやりと座ったまま、しずかな瞬きを数回繰り返す。
小奇麗に結わかれた三つ編みが胸の辺りまで垂れていて、やけに艶を帯びている。そこはかとなく儚い横顔は、どんなに眺めても振り向きそうにない。
無性につまらなくなった。腹立たしいくらい、面白くない。
僕は視線を彼女の下半身まで落とした。横座りしたスカートのプリーツが、脚に沿って形を乱している。
「雨宮、」
呼んで、おもむろに姿勢を崩した。
記憶に甘ったるく残る妹を模して、真似て、雨宮の脚に擦り寄る。
膝枕から見える、より低くなった景色で、彼女を仰いだ。
「俺は、狂う?」
寝そべって問う僕を、雨宮は見おろしていた。避けもせず、動揺も無く、顔色一つ変えず、首を傾げる。
「狂うって、」
「調子。」
「べつに。」
「つまんねーの。」
膝枕のまま会話を交わした。
「重いんだけど。」
やっと文句らしきことを言われる。
「え、それだけ?」
「それだけって何よ、」
「もっと無いの、他に。」
「だから重い。」
「困らない? こういうの。」
「尋常じゃないくらい迷惑だわ。」
「おまえ体温高いなー。」
「会話になってないわよクズ。」
「ははは。」
僕だけが笑った。雨宮は笑ってなかった。
いつもどおり、いつもどおりの僕ら。それなのに全然、面白くない。
なあ、雨宮、
「俺のこと、邪険にしないほうがいいよ。」
仰向けのまま手を伸ばした。指先が彼女の頬にふれ、ゆっくりと膚を滑る。
おもしろくない。つまんねーよ。
「皆口、」
見おろす雨宮が、僕の手を取る。
「体温低いわね、あんた。」
指先を握るなり真面目に言う。会話になってねーぞ。僕が笑う。
「お互いさまでしょ、」
握られた部分がじんわり温まってきた。
やばい、なんだか急にすごい眠い。試験期間だったし、無理もないか。
「一時間したら起こしてよ。」
仰向けの姿勢から横向きになって、身体じゅうの力を抜く。制服の生地を、頬がぎゅうと捺した。
プリーツんとこ、絶対寝跡つくわよ。雨宮の忠告が聞こえたけれど、睡魔に抗えそうにない。……今なら、なんとなくわかるな。ひのでのこと。
おちてゆく意識のなか、秒針が頭にこだました。




