22 『執心』
気づくと、白み始めていたはずの窓から陽が射している。いつの間にか眠っていたらしい。頭のなかを整理して、昨夜の出来事が夢であったか否かを確認した。
夢も現実も、両方正解だ。となれば……今日は平和な土曜日ということか。
時刻は正午過ぎ。だいぶ寝過ぎたな。
下階から聞こえる生活音に誘われて階段を下りると、キッチンでは百香が食器を洗っていた。隣ではひのでが、洗い終わった食器を布巾で拭いている。
「おはよ。」
目が合うなり、百香はにこやかに声をかけてきた。ひのでからは挨拶も笑顔も無かったけれど、睨んでこないし殴りかかってもこない。まあ、平常どおりである。昨夜の喧嘩は、すっかり無かったことになったらしい。
「ごはん、食べるでしょ? 何飲む?」
「牛乳。」
「目玉焼きとオムレツ、どっちがいい?」
「目玉焼き。」
寝起きで動きがにぶい僕に比べて、百香は手際よく食事の用意をしだした。たぶん百香は僕よりも、我が家の台所を熟知している。
あっという間に、遅い朝食が食卓に並んだ。トーストとベーコンエッグ。じゃがいものスープとサラダ。牛乳。全部、一人分だ。
「俺だけ?」
一人ぼっちの食卓についてたずねた。
「私たちはさっき済ませた。」
意外なことに返事をしたのはひのでだった。目を合わせず淡々と言う。
「百香たちも、寝坊しちゃったんだよねー。」
対照的ににこにこしながら、百香は僕の正面席に座った。ひのでは同席せず、テレビをつけてソファに座る。
「ポタージュおいしいでしょ。百香の自信作。」
「手間かけてるよな、これ。」
「そうでもないよ。これはねえ……」
食事を摂る僕相手に、百香は尽きることなく話を振った。
スープの作り方、月曜からの中間試験のこと、母さんの帰宅時間、最近話題になったニュース、夏休みへ向けてのダイエット……めまぐるしく変わる話題すべてに、僕は律儀に対応した。頷いたり、相槌を入れたり、時々質問や談笑を練りこんだり。
百香は気分良く喋り続けた。ここ数日のわだかまりを、清算するみたいに。もしくは、空いてしまった僕らの時間を、取り戻すように。
「モモカちゃん。テレビ始まるよ。」
ほどなくして、ひのでが呼びかけてきた。
百香は表情を輝かせると、そそくさとソファのほうへ移動する。騒がしくなった画面には、男性アイドルグループの姿があった。バラエティ番組のようだ。
「○○くんかっこいいなー。」
特定のアイドルを指して百香ははしゃいだ。
「ひのでは誰推し?」
女子特有の質問が始まった。つい聞き耳をたてる。
「私は………べつに。」
だろうな。
わかってはいたけれど、面白い返答は期待できなかった。
「えー。しいていえば? しいて、」
「……このなかには、いない、かな。」
「ひのでのタイプって、わかんないなー。」
百香はひのでの隣に座って、えいえいっと頬をつついた。彼女にしかできない芸当だ。
「このひと、微妙だよ。顔、良くないし。」
先ほど百香が「かっこいい」と賞した人物を指して、ひのでは目を据わらせた。
「顔っていうか、雰囲気が好きなんだよねー。イケメンじゃないのは認めるけど。」
否定されて怒るどころか、同意して百香は笑った。
やりとりの途中で、ひのではすすっと体勢を崩して、ごく自然と百香の脚を枕に寝そべった。
「趣味悪いよ、モモカちゃんは。」
「悪いかなあ。」
百香もごく自然に会話を続ける。
「悪いよ。男見る目、無い。」
「えー、ひどーい。」
百香はまた笑いながら、ひのでの頬をつついた。
妹に膝枕を許す幼馴染と、幼馴染に寄り添う妹を、横目で眺めた。
どう贔屓目に見ても異様なその光景は、甘ったるいくらいに和やかで、あくまでふつうに過ごす二人に、胸焼けを覚えた。幼いころはなんとも思わなかったのに。
「ごちそうさま。」食べる速度を上げて早々平らげた。
「今日はずっとテスト勉強?」
食器をさげる僕に百香が声をかける。
「じゃないと月曜やばいし。おまえは大丈夫なの?」
「ううん。超ピンチだよ。」
暢気に言うことじゃないだろ。指摘すると百香は、「だからこれ観終わったら、おいとまするつもり。」だと弁明した。
「帰っちゃうの?」
すかさずひのでが割って入る。
「うん。帰るよ。」
「なんで?」
「お勉強しないとだから。」
「私もする。うちで一緒にしよう。」
「でも百香、教科書とか持ってきてないし、」
「旭の借りればいい。」
ひのでは百香にくっついたまま引き止めた。
「だめだよ。旭だって勉強するんだから、」
「いいよ。俺の教科書使えよ。」
今度は僕が割って入った。
「使え、って、旭はテスト勉強どうすんの?」
「あー………問題集買ったんだ、昨日。あと、ノートとか、結構、まとめてたし。」
とっさに嘘をつく。ちょっと無理があったかもしれない。
「旭もこう言ってるし、一緒に勉強しようよ。ね、モモカちゃん、」
まさかひのでの駄々が助け舟になるとは思わなかった。便乗するように僕は、「時々、お茶とか淹れてくれると助かるんだけどな、」と、優しい語調で言った。
押しの一手にすっかり気を良くした百香は、じゃあいつでも声かけてね。と、顔をほころばせた。
……なるほど。ああいうのも寵愛なのか。
部屋に戻るなり、先ほどの行動を振り返った。
思ったほど難儀ではないな。もっとこう、身を売る覚悟をしていただけに、拍子抜けするような、肩の荷がおりるような……どうもすっきりしない。
おそらく、この正体不明な悶々の原因は百香じゃなくて、ひのでだ。
机に着き、僕は深いため息をついた。ぼんやりする頭のなか、今しがたの甘ったるい光景だけが、鮮明に浮ぶ。
ひのでの百香に対する慕い方は、盲目の域だ。
どうしても、昨夜の暴虐な彼女と、先ほどの甘ったれた妹が一致しない。
殺意も、女のにおいも無い、ただの大きいだけの子ども。
嫌悪でも恐怖でもなく、ただただ不思議だった。
幼いころからそうだった。
僕や母さんとは距離を置くくせに、百香にだけは執着する。彼女に対してだけは別人になる。一緒に出掛ければ、絶対手を繋いでいたし、別れの時間になれば駄々をこねていた。
常に触れていたいとか、片時も離れたくないとか、妹の幼馴染に対する想いは理解し難い、未知の領域だ。
なかなか勉強モードにならない頭を切り替えるために、雨宮から手渡されたプリントを広げた。彼女の作戦通り、ひたすらこれを暗記するわけだが、やはりどうみても、範囲と見合う量じゃない。
まるで、確実に出るであろう要点だけを厳選したような、まさにヤマを張る、といったまとめ方だ。
賭けてみるか。足掻いてみるか。今更疑うわけにもいかないし、疑ったところで他に手も無いし。
これで少しでもいい結果が出せれば、万々歳だ。
プリント左上から字列を追う。時々ペンを走らせ、時々文字を隠し、僕はひたすら暗記に没頭した。
少しでもいい結果に、近づけるように。




