21 『寵愛』
夜明けまでまだ少し、といった頃合いで帰宅した。
期待していたわけじゃないけれど、やっぱり鍵はかかっていなかった。無用心だなと呆れつつ、有り難くあがる。
バイクの音に誘われたのか、気配を察したのか、百香が二階から降りてきた。
「………おかえり。」
躊躇いがちに迎え入れる。
一晩、留守をしてくれたのだろう。百香はすっぴんで、ひのでの部屋着を纏っていた。
「おなか、すいてない? 何か作ろっか? グラタン、百香が貰っちゃったからさ。」
あどけない笑い方も、どこかたどたどしい。目に見えて無理をしている。
「ひので、どうしてる?」
僕は無遠慮に尋ねた。
「よく寝てるよ。」
取り繕った笑顔が、声をひそめた。
「……ごめんね、旭……。喧嘩、させちゃって。怪我……させちゃって。」
躊躇いと、配慮と、優しさ。三つの交差上で、百香は慎重に言葉を選んでいた。
「もう、だいじょぶだよ。ひのでなら、わかってくれたし。」
彼女の「大丈夫」とは、丸く治めたという意味だ。
きっと夜が明けて、妹と顔を合わせても殴られることはない。これ以上、僕が被害を受けることはない。理不尽で一方的な兄妹喧嘩も、これにて収束だ。
「ごめんね、旭、……ごめん。ごめんね、」
喋るほどにうな垂れてゆく彼女の笑顔は、限界を迎えていた。
「百香、」
繰り返す謝罪を遮って名前を呼ぶと、泣き出しそうな顔がこちらを向く。
「いつも……ありがとな。俺こそごめん。いろいろ。」
僕の礼と労いと謝罪が、ぎりぎりまで保っていた彼女の線を、ぷつりと切る。とたんに、百香は破顔しながら大粒の涙を流した。笑みと号泣、相反する二つの感情を熾したのは、たぶん、安堵だと思う。
「よかったあ……。ももか、旭に……嫌われちゃったかと、おもって、」
手のひらでぐしゃぐしゃと涙をぬぐう。
「ほんとはね、ずっと、お話、したかったんだよ? でも、旭……つめたいし、最近、ぜんぜん、別人みたいで……ちょっと、こわかったし。クラス、誰とも、話さないし。なんか、近寄れなくて……。でも……雨宮さんとは、しゃべるし、」
泣きじゃくって声を詰まらせる百香は、感情のあまり言いたい事がまとめられずにいるようだった。ここ最近の僕との関係に悩んでいたことだけは、伝わった。
僕は泣きやまない百香の髪に、手を乗せた。
「きらってなんかいないから。」
百香はいよいよ嗚咽だけになって、僕の胸元にくっついた。二階で眠っているひのでを起こさないように、泣いている。
すがる彼女の後ろ頭を撫でながら、僕は、雨宮の体温を思い出していた。────────
勉強会が終わったのは深夜一時過ぎ。これ以上は運転にも支障をきたしそうだったので、切り上げることにした。さすがに、泊まるほどの度胸もなかったし。
雨宮は駐車場まで見送ってくれた。
「帰ったら殺されるんでしょ、」
僕が誇張した冗談について触れる。身を案じてくれているというより、興味本位のような聞き方だった。
「その点は平気。たぶん家に百香いるから。」
「桂木が?」
「妹さ、百香の言うことだけは聞くんだよ。そろそろ安全になってる頃合い。」
今更もう面倒になったので、雨宮の前でも「百香」と呼ぶことにした。こいつは僕らになんか興味無いだろうし。いい意味で。
ふいに、雨宮は何か考え込んだ。口元あたりに指をおいて暫し黙ったのち、口を開く。
「あんた、桂木は邪険にしないほうがいいわよ。」
だしぬけな発言に耳を疑った。忠告か助言か、どちらにしても雨宮らしくない。それ以前に百香に関しては、相手にするのが億劫なだけで、邪険にしたつもりもない。
「ああいう類いの女は、些細なことでも袖にされてるって感じるものよ。少し寵愛してやるくらいでもいいと思うわ。」
寵愛って……なんか卑猥な響きだな。それはともかく、なぜ急にそんなことを言い出すのかが気になった。
「一応言っておくけど、俺たち、一度もそういう関係になったこと無いからな?」
今も別に、痴情のもつれだの男女の諍いじゃなくて、こっちが気を遣うのをやめただけだから。あくまで今が自然なかたちなのだと、僕は主張した。
「少なくとも、桂木はそう思っていないでしょ。」
「まさか百香の肩持ってんの? 女目線で同情してるわけ?」
僕は引き気味に苦笑した。
「んなわけないでしょボンクラ。」
雨宮も気色悪そうに否定する。
「嘘でいいのよ。投資だと思いなさい。」
「とうし?」
寵愛が投資。雨宮は念を押した。
「不要な好意は、使えるわよ。」
今度は僕が考え込んだ。先ほどの雨宮を真似るように、口元に指をおく。
暫し黙ったのち、おもむろに雨宮を抱きしめた。
今度は衝動でも、せつな的でも、なくて。
雨宮の提案が非道だなんて、これっぽっちも思わなかった。むしろ、どうしてこの手を見逃していたのだろうと、悔やむくらいだ。おかげでなかなか寝付けない。白んできた窓を眺めながら、睡魔を待った。
僕は百香に、感謝と労いの言葉をかけ、謝罪をし、髪を撫で、抱きしめた。
そうすることで彼女は安堵し、涙し、これまでの苦悩や不安を打ち消した。
そこにある僕の心情がどんなものであろうと、いいんだ。結果的に、桂木百香という女を利用しようと。
百香は優しい女だ。
お節介なまでに尽くしてくれるし、何より、対ひのでの盾とするには打ってつけだ。
そんな彼女に、少し優しい声をかければ、たまに触れてやれば、寵愛を与えてやれば、その利便性は計り知れない。
さすが、賢い女は目の付け所が違うな。潜り込んだ毛布のなかで、緩んだ顔がなかなか元に戻りそうになかった。
二度目の抱擁にも、雨宮はまったく抵抗しなかった。
そっと解放してみたところ、愛想のない視線を向けてくるだけで、動揺さえしていない。下の名前で呼ばれたときは赤面したくせに、どうも羞恥の基準が判らない。
「今度は何よ、」
呆れるようなため息をつかれた。
「つまりこういうことだろ?」
僕は肩をすくめた。
「だからって、実演しなくてもいいわよ。」
「いやあ、何事も予習は必要だろ。」
真夜中の駐車場は声がよくとおる。反響する会話が、人気の無さを実感させた。
「テスト順位良かったらさ、続きさせてよ、」
「? つづき?」
安定して大真面目な彼女は、思うように察してくれない。自滅して変な空気になってしまいそうだったので、急いでヘルメットを被った。
「冗談。お礼にメシでも奢らせて。」
「結果、出してから言いなさいよ。クズ。」
エンジンをかけ、手のひらを向けてアクセルを踏む。
ミラー越しに映る雨宮は駐車場を出るまで、ちゃんと佇んでくれていた。