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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第三章】 あかつき、のち雨
21/92

20  『家庭』




 雨宮に操縦されて辿りついたのは、赤煉瓦造りの、幅のある大きなマンションだった。

 煉瓦といっても本物ではなくて、模したデザインをした外壁の鉄筋コンクリートだ。立地は以前雨宮を追ってきた駅の近く。

 お嬢さまとまではいかないにしろ、やはり彼女は裕福な育ちらしい。


 正面口を通り過ぎ、回り込んだ先の地下駐車場に誘導された。

「19番のところ、使って。」

 指示通りの番号にバイクを停めた。大型のファミリーカーも納まりそうなスペースに、中古の原付二種がぽつんと置かれるさまは、どうにも滑稽だ。


 地下駐車場から直結した裏口を抜けると、広いエントランスホールが広がっていた。外観よりずっと高級感がある反面、どこか懐古的なつくりだ。


「すごいところに住んでるんだな。やっぱお嬢さまじゃん。」

 見渡しながら僕は言った。

「過大評価。築三十年越えの古物件よ。」

 なるほど。だからレトロなにおいがするのか。

「父が独身時代、無理して買ったらしいの。」

 説明しながら、雨宮はエレベーターの五階を押した。


「へえ、すごいじゃん。うちなんて、母方のじいちゃんが建てた家だよ。じいちゃんもう死んだし、ばあちゃんは伯父さんが面倒見てるから、母親と俺と妹で、ちゃっかり住みついてる。」


 僕のほうの住宅事情を説明しているうちに、エレベーターは目的の階についた。



 とたんに緊張が押し寄せた。



 極力、意識しないつもりだったけれど、完全には無理だ。

 エレベーターを降りてからの僕はすっかり無言で、玄関前に着くころには息も止めていた。そんな僕に配慮することなく、雨宮はインターホンを鳴らす。

 スピーカーを通さず、すぐに住人がドアを開けた。



 出てきたのは、若い男だった。



「おかえり。……あれ?」

 すぐさま後方の僕に気づいて、顔をのぞく。



「ただいま。同級生よ。送ってくれたの。」


 雨宮が簡単な紹介をしたので、心の準備もないまま「どうも、」と頭を下げた。

 内心、なんだよ、母親だけじゃなかったのかよ、と毒づいていた。


「これから一緒にテスト勉強するから。」

 雨宮はまた簡単に説明した。


 おいおいそれだけかよ。僕は頭を中途半端に下げたまま、一人で気まずくなっていた。……っていうか誰だよそれ、兄貴? 明らかに歓迎されない流れだろ、これ。怖くて彼のほうを向けない。



「そっか。いらっしゃい。」



 思いがけない返事に顔をあげると、男はスリッパを並べて、やわらかい表情で迎え入れてくれた。どぎまぎしながら、揃えられたスリッパを履く。

「お、おじゃまします、」

 心もとないお邪魔しますを言いながら、もう一度、中途半端なお辞儀をする。


「リビング使う?」

「ううん。あたしの部屋でいいわ。」

「忘れ物、あったの?」

「うん。」


 二人はごくまっとうな会話をした。そりゃ家族なんだから当然か。ただ、いつもよりあけすけに喋る雨宮が新鮮だった。彼らの短いやりとりを、僕は感づかれないように観察した。


 彼ら、というより正確には、彼だ。


 若そうだけどどこか落ち着いた彼は、雨宮と同じく華こそ無いものの、小奇麗な身なりをしている。外見はともかく、こんな時間に高校生、しかも異性の訪問に説教のひとつも垂れないなんて。


「こっち。」

 雨宮に促されて、玄関から一番近い部屋に入った。


 通されてすぐ、統一性の無い部屋だなと思った。


 全体的には整理整頓されていて、机には教科書やノート類、本棚には活字の本が並んである。ベッド、絨毯、カーテンは彼女らしく機能性重視のシンプルなものなのに、ぽつぽつと場違いなぬいぐるみや、少女趣味なインテリアも置いてある。でも、においは悪くなかった。


「ネイルなんてしないよな、やっぱり。」

「ねいる?」

「マニキュアのこと。」


 ひのでの部屋はいつも、シンナーと香水の混じったにおいで、あふれていたから。


「………しないけど。」

「香水もつけないよな、おまえって。」

「いいでしょ別に。ほら、始める。」

 雨宮はテーブルを叩いて僕を座らせた。


「世界史と化学と物理、現文は漢字、英語は単語を中心に絞るわよ。」

 てきぱきと教科書やノートを取り出して、ずらっと並べる。

「しぼるって?」

「暗記物だけで点稼ぐの。順位上げるには、一番手っ取り早いわ。」

 そしてしれっと、「数学は捨てるから。」と宣言してきた。嬉しいような情けないような、つい苦笑してしまう。


「暗記だけって言っても、結構量あるぞ。たった三日じゃ自信ないんだけど、俺。」

 正確には日程上、化学はあと四日、物理と英語は五日ある。そもそも威張れる立場ですらないけれど、一応意見した。


「とりあえずこれ使って。」

 そう言いながら雨宮が手渡してきたのは、世界史の教科書だった。範囲内のページに、所々アンダーラインがひいてある。


「読むだけでもいいし、ノートにおこしてもいいわ。あんたのやり易い方法でとにかくラインの所だけ覚えなさい。」


 アンダーラインはむやみやたらにひかれているのではなく、明らかに厳選されていた。僕が授業中、重要視していた部分も端折ってあるし、逆に、まったく気にも留めてなかった部分がひかれていたりした。


「少なすぎないか? これ。」

 目を疑って尋ねた。雨宮はお構いなしにパソコンを広げる。


「当たるのよ、あたしのヤマ。」


 起動させながら、素っ気なく言い切った。


 ヤマ……ね。

 何の根拠もない言い分にうなりつつも、彼女を信じることにした。どうせ元より捨て試合だ。



 教科書を凝視したり、時々ノートに模写したり、文字を隠したりして暗記する。その間、雨宮はずっとパソコンをうっていた。

「他の教科は、要点をまとめてプリントにするわ。そのほうが嵩張らないでしょ。」

 だから出来上がるまでは世界史に費やせ。それが彼女の効率を考えた作戦だった。

 僕は言われるがまま、黙々と暗記した。

 かたかたと、パソコンをうつ音だけが響く。



糸子(いとこ)、」



 部屋の外から声がした。

 雨宮が「なに、」と返事をすると、扉の向こうから先ほどの男が姿を現した。木製のトレーを手にしている。僕らの傍に寄ってきて膝をつくと、トレーの上ではマグカップが二つ、湯気をたてていた。


「コーヒー、飲める?」


 僕のほうを向いて小首を傾げる。思わず「は、はい。」と息を飲んだ。

 さっき観察したつもりではいたが、改めて直視すると、独特な雰囲気のあるひとだ。美形……とは違うのだけど、えらく整っていて、まるで人形が動いているみたいだ。


「俺、パパに夕飯届けてくるから。」彼が雨宮につげた。

「ゆっくりしていってね。」これは、僕に向けて言った。


 いってらっしゃい。雨宮だけが返事をする。彼が部屋を出て少し経つと、廊下を歩く音、靴を履く音、施錠する音が続けさまに聞こえた。またパソコンの音だけになる。


「兄ちゃん、感じいいな。おまえと違って。」

 気配が消えた頃合いで、僕はからかった。そろそろ脱線したくなったところだ。


 雨宮もいったん手を止めて、コーヒーにクリームを二つ入れた。スプーンでかき回して、息を吹きかける。



「父よ。」

 一口飲んで、言った。



「え。」

 思わず声に出す。



 ちち、って父親? 「ええ。」 今の? 「ええ。」 今の人が? 「ええ。」

 とても信じられなくて、しつこく聞く。雨宮は律儀に同じ返答をしてくれた。


「めちゃくちゃ若いな。」

 驚きの末はほとんど感服だった。


「若くないわ。もう五十過ぎよ。」

 まじで。再び驚きが舞い戻る。

 肌、すごいきれいだったし、顔立ちとか髪質とか、いや、外見云々よりも、しぐさっていうか雰囲気っていうか振る舞いっていうか、全体的にとてもそんなには。

 驚きすぎて、褒めているのか貶しているのか、判らなくなってきた。


「本人いわく、『お金かけてるから』ですって。ボトックスとかレーザーとか、メスも何度か入れてるみたいよ。」

 雨宮はあけっぴろげに話す。あまりにも包み隠さない姿勢に、はあ、と口を開けるほかなかった。


「あれ? でもさっき、「パパに」って……」


 矛盾に気づいて追究してしまった。

 記憶が確かなら、先ほど彼は『パパに届ける』と言っていたはずだ。更によくよく思い起こせば、雨宮も『父は夜勤』と言っていた(やらしい話、それが決定打で訪問に至ったわけだし。)。


 雨宮が、ずずずとコーヒーをすすった。両手でマグカップを支える。



「父が二人いるの。あたし。」



 ()()()()()()

 明らかに異端で、耳になじまない告白。なのに彼女の言葉つきには、憂いも嫌気も無かった。もちろん悩んでいる様子も。自慢しているふうでもない。

 しいていえば、血液型はA型なの、くらいのニュアンスだ。


 なぜか一転、僕は驚かなくなっていた。


 驚き飽きたというか、処理しきれなくなったのかもしれない。むしろ、『年頃の娘が夜更けに男を連れてくる』という状況を、すんなり受け容れる妙な順応性の理由は、ここにあるのだと納得さえできた。


「母親は何人いんの?」

 マグカップに手を伸ばす余裕も出てきた。コーヒーの表面がゆれている。


「いないわよ。父たちが二人で、あたしを育てたの。」

 何も入れずに一口飲むと、酸味が少ない、僕好みの味をしていた。

「すごい家庭なんだな。」

 こどもみたいな感想をのべた。

「そうかしら。ふつうよ。」

 雨宮もいつもどおり答えた。


「少なくとも、あたしはそういうことにしてる。」


 ふたり揃ってコーヒーをすすった。部屋中に香りが漂う。


「もう一人の父親って、どんなひと?」

 おそらく過去雨宮の話に出てきた、食事作法にだけ厳しくて、基本的には甘くて、今夜は夜勤の『うるさいほうの父』とは、さっきの彼じゃない。


「どんなって言われても、まあ、実直なひとよ。」

「じっちょく。」

 僕はさぐるようにおうむ返しした。


「あと、あたしを溺愛してる。」

「溺愛。」

 これはすんなり返せた。


「じゃあさ、そっちのほうの父親いたら、俺、やばかったかな。」

 冗談交じりに聞くと、雨宮はこれまた真面目に、「でしょうね。」なんて返すので、心の底から安堵した。



 脱線はここまでにして、また室内がパソコンの音だけになった。僕も再び、教科書と睨めっこをする。しかし一度途切れた集中力を立て直すのは難儀なもので、彼女にばれないようにさぼった。


 さぼって、色々考えたり、部屋を見渡したりした。


 整理整頓された部屋。本棚に並ぶ活字だらけの本。

 場違いなぬいぐるみと、少女趣味なインテリア。

 そこに住むのは、最低限の作法と優秀な成績を身につけた、雨宮(あめみや)糸子(いとこ)という女子生徒……


 僕はやっと、この統一性の無い空間の正体に気がついた。



 ここにあるのは、彼女の()()()()による、子育ての賜物だ。

 教養と、躾と、愛情、すべてが詰め込まれている。



 「おかえり」、「ただいま」。「忘れ物、あったの?」、「うん」。「届けてくるから」、「いってらっしゃい」。……訪問してからいくつか耳にした親子のやりとりが、頭のなかでこだました。



「やっぱりすごいよ、おまえんち。」


 僕はこぼした。雨宮が手を止めて、こっちを向く。


「ほら、うち、母子家庭だろ。」

 なんとなく顔を合わせられなくて、視線を曖昧にした。


「テレビとかでよく言うじゃん。女手一つだの、シングルマザーって言葉。なんか引っ掛かるんだよな、あれ。一人での子育てが美談、みたいな風潮。死別はともかく、原因が離婚とかだとどうも納得できなくて。」


 愚痴っぽくなってしまったが、要点はそこじゃない。話が長くなってしまいそうだったので、早々に結論を告げることにした。



「子供って、一人で育てるより二人で育てるほうが、よっぽどすごいだろ。」



 血の繋がりもない、育った環境も違う他人同士が、一緒に人間を育てるんだから。それを放棄したのがうちの親なわけで。おまえんちは、男二人で、すごいじゃん。


 結局長くなってしまったと我に返ると、雨宮はじっと見据えていた。


「変なこと言うのね。」

 変? そうか? 再び脱線した僕らは、また揃ってマグカップに口をつけた。


「そういうのもぜんぶ含めて、ふつうなのよ、うちは。」


 コーヒーはちょっとだけぬるくなっていた。香りはぬけてしまったけれど、味がわかり易くなっている。一気に半分以上飲み込んだ。


「あんた、やたら家族に自嘲的だけど、」

 雨宮は猫舌なのかまだ息を吹きかけつつ、慎重に啜っていた。啜る合間に会話を挟む。

「あんたの家だって、あんたが普通ってことにすれば、ふつうよ。」

 ずいぶん都合のいい考え方だな。僕は笑った。

「そんなもんでしょ、家族なんて。」雨宮は素っ気なく言う。


「普通じゃないって思えないなら、思わなきゃいいわ。切り捨てようが軽蔑しようが勝手。子供でいるうちは、家族なんて自分第一でいいの。子供は自分の家庭しか知らないんだから。価値観も基準も、自分が一番正しいのよ。」


 小難しいこと言ってくれるな。

 僕の理解が乏しいのか、雨宮が達観しすぎているのかは判らない。ただ、彼女の持論を受け容れるには、時間が必要だと察した。まったく理解できないわけじゃない。おぼろげながら納得はできるし、雨宮だからこその説得力もある。


 二人の父に、一人の娘。母はいない。そんな家庭環境を、彼女は普通だと言い切る。

 現実的にはそうとう希有な戸籍なのに、雨宮には、ふつう、なんだ。



 僕も、あの、脆弱な母親と暴虐な妹を、ふつう、と言い切っていいのだろうか。

 言い切れば、ふつうになれるのだろうか。



「もしかして、慰めてくれちゃってる?」

 妙にこそばゆくなったので、茶化してみた。

「つけあがるんじゃないわよ、ド低脳。」


 僕らのやりとりは、最早お約束になりつつある。


 楽しいのは僕だけで、雨宮は辛辣だけど。一緒に笑うことなんてないけれど。

 彼女の笑った顔すら、見たこと無いけど。


「イトコちゃん、やっさしー。」


 懲りずにふざけた。雨宮は、面食らった表情をみるみる赤面させる。そして無言でぬいぐるみを投げつけてきた。


 こういう反応を示してくれる彼女が、僕はけっこう好きだ。

 学校のこと、家族のこと、自分のこと。少しのあいだだけ、どうでもよくしてくれる。


「ふざけてる暇あったら、単語の一つでも覚えなさいよ。あたしが直々にみてやってんだから、無様な結果出すんじゃないわよ。」


「はいはい、仰せのままに。」


 今の毎日なんて、ふざけて笑っているだけでいいのにな。僕はまだ十七歳なんだから。

 まあ、いろいろ考えるのも仕方ないのだろうけど。もう十七歳なんだから。

 めんどうくさいな、高校生ってやつは。





 やっと真面目に取り組み始めたところで、帰宅の音がした。ただいま、と、部屋の外から呼びかける声に、雨宮はおかえりなさいを返す。

 ノックを鳴らして、雨宮の()は部屋を覗き込んだ。


「みてみて。まだ開いてた。」

 嬉しそうにケーキの箱をみせてくる。


「頭を使うなら甘いものだよ。てきとうに休憩にしよう。」


 やわらかく言う彼の、やっぱりどうも逸脱しているあたりが、心の底から羨ましくてしかたなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 子どもの普通って、選ぶことも他と比べることもなく、今の自分の状況を普通だと思い込むもの。箱の中の世界なんですけど。 雨宮さんは箱の外から「普通」だと判断しているんですね。 「うるさくない…
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