20 『家庭』
雨宮に操縦されて辿りついたのは、赤煉瓦造りの、幅のある大きなマンションだった。
煉瓦といっても本物ではなくて、模したデザインをした外壁の鉄筋コンクリートだ。立地は以前雨宮を追ってきた駅の近く。
お嬢さまとまではいかないにしろ、やはり彼女は裕福な育ちらしい。
正面口を通り過ぎ、回り込んだ先の地下駐車場に誘導された。
「19番のところ、使って。」
指示通りの番号にバイクを停めた。大型のファミリーカーも納まりそうなスペースに、中古の原付二種がぽつんと置かれるさまは、どうにも滑稽だ。
地下駐車場から直結した裏口を抜けると、広いエントランスホールが広がっていた。外観よりずっと高級感がある反面、どこか懐古的なつくりだ。
「すごいところに住んでるんだな。やっぱお嬢さまじゃん。」
見渡しながら僕は言った。
「過大評価。築三十年越えの古物件よ。」
なるほど。だからレトロなにおいがするのか。
「父が独身時代、無理して買ったらしいの。」
説明しながら、雨宮はエレベーターの五階を押した。
「へえ、すごいじゃん。うちなんて、母方のじいちゃんが建てた家だよ。じいちゃんもう死んだし、ばあちゃんは伯父さんが面倒見てるから、母親と俺と妹で、ちゃっかり住みついてる。」
僕のほうの住宅事情を説明しているうちに、エレベーターは目的の階についた。
とたんに緊張が押し寄せた。
極力、意識しないつもりだったけれど、完全には無理だ。
エレベーターを降りてからの僕はすっかり無言で、玄関前に着くころには息も止めていた。そんな僕に配慮することなく、雨宮はインターホンを鳴らす。
スピーカーを通さず、すぐに住人がドアを開けた。
出てきたのは、若い男だった。
「おかえり。……あれ?」
すぐさま後方の僕に気づいて、顔をのぞく。
「ただいま。同級生よ。送ってくれたの。」
雨宮が簡単な紹介をしたので、心の準備もないまま「どうも、」と頭を下げた。
内心、なんだよ、母親だけじゃなかったのかよ、と毒づいていた。
「これから一緒にテスト勉強するから。」
雨宮はまた簡単に説明した。
おいおいそれだけかよ。僕は頭を中途半端に下げたまま、一人で気まずくなっていた。……っていうか誰だよそれ、兄貴? 明らかに歓迎されない流れだろ、これ。怖くて彼のほうを向けない。
「そっか。いらっしゃい。」
思いがけない返事に顔をあげると、男はスリッパを並べて、やわらかい表情で迎え入れてくれた。どぎまぎしながら、揃えられたスリッパを履く。
「お、おじゃまします、」
心もとないお邪魔しますを言いながら、もう一度、中途半端なお辞儀をする。
「リビング使う?」
「ううん。あたしの部屋でいいわ。」
「忘れ物、あったの?」
「うん。」
二人はごくまっとうな会話をした。そりゃ家族なんだから当然か。ただ、いつもよりあけすけに喋る雨宮が新鮮だった。彼らの短いやりとりを、僕は感づかれないように観察した。
彼ら、というより正確には、彼だ。
若そうだけどどこか落ち着いた彼は、雨宮と同じく華こそ無いものの、小奇麗な身なりをしている。外見はともかく、こんな時間に高校生、しかも異性の訪問に説教のひとつも垂れないなんて。
「こっち。」
雨宮に促されて、玄関から一番近い部屋に入った。
通されてすぐ、統一性の無い部屋だなと思った。
全体的には整理整頓されていて、机には教科書やノート類、本棚には活字の本が並んである。ベッド、絨毯、カーテンは彼女らしく機能性重視のシンプルなものなのに、ぽつぽつと場違いなぬいぐるみや、少女趣味なインテリアも置いてある。でも、においは悪くなかった。
「ネイルなんてしないよな、やっぱり。」
「ねいる?」
「マニキュアのこと。」
ひのでの部屋はいつも、シンナーと香水の混じったにおいで、あふれていたから。
「………しないけど。」
「香水もつけないよな、おまえって。」
「いいでしょ別に。ほら、始める。」
雨宮はテーブルを叩いて僕を座らせた。
「世界史と化学と物理、現文は漢字、英語は単語を中心に絞るわよ。」
てきぱきと教科書やノートを取り出して、ずらっと並べる。
「しぼるって?」
「暗記物だけで点稼ぐの。順位上げるには、一番手っ取り早いわ。」
そしてしれっと、「数学は捨てるから。」と宣言してきた。嬉しいような情けないような、つい苦笑してしまう。
「暗記だけって言っても、結構量あるぞ。たった三日じゃ自信ないんだけど、俺。」
正確には日程上、化学はあと四日、物理と英語は五日ある。そもそも威張れる立場ですらないけれど、一応意見した。
「とりあえずこれ使って。」
そう言いながら雨宮が手渡してきたのは、世界史の教科書だった。範囲内のページに、所々アンダーラインがひいてある。
「読むだけでもいいし、ノートにおこしてもいいわ。あんたのやり易い方法でとにかくラインの所だけ覚えなさい。」
アンダーラインはむやみやたらにひかれているのではなく、明らかに厳選されていた。僕が授業中、重要視していた部分も端折ってあるし、逆に、まったく気にも留めてなかった部分がひかれていたりした。
「少なすぎないか? これ。」
目を疑って尋ねた。雨宮はお構いなしにパソコンを広げる。
「当たるのよ、あたしのヤマ。」
起動させながら、素っ気なく言い切った。
ヤマ……ね。
何の根拠もない言い分にうなりつつも、彼女を信じることにした。どうせ元より捨て試合だ。
教科書を凝視したり、時々ノートに模写したり、文字を隠したりして暗記する。その間、雨宮はずっとパソコンをうっていた。
「他の教科は、要点をまとめてプリントにするわ。そのほうが嵩張らないでしょ。」
だから出来上がるまでは世界史に費やせ。それが彼女の効率を考えた作戦だった。
僕は言われるがまま、黙々と暗記した。
かたかたと、パソコンをうつ音だけが響く。
「糸子、」
部屋の外から声がした。
雨宮が「なに、」と返事をすると、扉の向こうから先ほどの男が姿を現した。木製のトレーを手にしている。僕らの傍に寄ってきて膝をつくと、トレーの上ではマグカップが二つ、湯気をたてていた。
「コーヒー、飲める?」
僕のほうを向いて小首を傾げる。思わず「は、はい。」と息を飲んだ。
さっき観察したつもりではいたが、改めて直視すると、独特な雰囲気のあるひとだ。美形……とは違うのだけど、えらく整っていて、まるで人形が動いているみたいだ。
「俺、パパに夕飯届けてくるから。」彼が雨宮につげた。
「ゆっくりしていってね。」これは、僕に向けて言った。
いってらっしゃい。雨宮だけが返事をする。彼が部屋を出て少し経つと、廊下を歩く音、靴を履く音、施錠する音が続けさまに聞こえた。またパソコンの音だけになる。
「兄ちゃん、感じいいな。おまえと違って。」
気配が消えた頃合いで、僕はからかった。そろそろ脱線したくなったところだ。
雨宮もいったん手を止めて、コーヒーにクリームを二つ入れた。スプーンでかき回して、息を吹きかける。
「父よ。」
一口飲んで、言った。
「え。」
思わず声に出す。
ちち、って父親? 「ええ。」 今の? 「ええ。」 今の人が? 「ええ。」
とても信じられなくて、しつこく聞く。雨宮は律儀に同じ返答をしてくれた。
「めちゃくちゃ若いな。」
驚きの末はほとんど感服だった。
「若くないわ。もう五十過ぎよ。」
まじで。再び驚きが舞い戻る。
肌、すごいきれいだったし、顔立ちとか髪質とか、いや、外見云々よりも、しぐさっていうか雰囲気っていうか振る舞いっていうか、全体的にとてもそんなには。
驚きすぎて、褒めているのか貶しているのか、判らなくなってきた。
「本人いわく、『お金かけてるから』ですって。ボトックスとかレーザーとか、メスも何度か入れてるみたいよ。」
雨宮はあけっぴろげに話す。あまりにも包み隠さない姿勢に、はあ、と口を開けるほかなかった。
「あれ? でもさっき、「パパに」って……」
矛盾に気づいて追究してしまった。
記憶が確かなら、先ほど彼は『パパに届ける』と言っていたはずだ。更によくよく思い起こせば、雨宮も『父は夜勤』と言っていた(やらしい話、それが決定打で訪問に至ったわけだし。)。
雨宮が、ずずずとコーヒーをすすった。両手でマグカップを支える。
「父が二人いるの。あたし。」
父が二人いる。
明らかに異端で、耳になじまない告白。なのに彼女の言葉つきには、憂いも嫌気も無かった。もちろん悩んでいる様子も。自慢しているふうでもない。
しいていえば、血液型はA型なの、くらいのニュアンスだ。
なぜか一転、僕は驚かなくなっていた。
驚き飽きたというか、処理しきれなくなったのかもしれない。むしろ、『年頃の娘が夜更けに男を連れてくる』という状況を、すんなり受け容れる妙な順応性の理由は、ここにあるのだと納得さえできた。
「母親は何人いんの?」
マグカップに手を伸ばす余裕も出てきた。コーヒーの表面がゆれている。
「いないわよ。父たちが二人で、あたしを育てたの。」
何も入れずに一口飲むと、酸味が少ない、僕好みの味をしていた。
「すごい家庭なんだな。」
こどもみたいな感想をのべた。
「そうかしら。ふつうよ。」
雨宮もいつもどおり答えた。
「少なくとも、あたしはそういうことにしてる。」
ふたり揃ってコーヒーをすすった。部屋中に香りが漂う。
「もう一人の父親って、どんなひと?」
おそらく過去雨宮の話に出てきた、食事作法にだけ厳しくて、基本的には甘くて、今夜は夜勤の『うるさいほうの父』とは、さっきの彼じゃない。
「どんなって言われても、まあ、実直なひとよ。」
「じっちょく。」
僕はさぐるようにおうむ返しした。
「あと、あたしを溺愛してる。」
「溺愛。」
これはすんなり返せた。
「じゃあさ、そっちのほうの父親いたら、俺、やばかったかな。」
冗談交じりに聞くと、雨宮はこれまた真面目に、「でしょうね。」なんて返すので、心の底から安堵した。
脱線はここまでにして、また室内がパソコンの音だけになった。僕も再び、教科書と睨めっこをする。しかし一度途切れた集中力を立て直すのは難儀なもので、彼女にばれないようにさぼった。
さぼって、色々考えたり、部屋を見渡したりした。
整理整頓された部屋。本棚に並ぶ活字だらけの本。
場違いなぬいぐるみと、少女趣味なインテリア。
そこに住むのは、最低限の作法と優秀な成績を身につけた、雨宮糸子という女子生徒……
僕はやっと、この統一性の無い空間の正体に気がついた。
ここにあるのは、彼女の二人の父による、子育ての賜物だ。
教養と、躾と、愛情、すべてが詰め込まれている。
「おかえり」、「ただいま」。「忘れ物、あったの?」、「うん」。「届けてくるから」、「いってらっしゃい」。……訪問してからいくつか耳にした親子のやりとりが、頭のなかでこだました。
「やっぱりすごいよ、おまえんち。」
僕はこぼした。雨宮が手を止めて、こっちを向く。
「ほら、うち、母子家庭だろ。」
なんとなく顔を合わせられなくて、視線を曖昧にした。
「テレビとかでよく言うじゃん。女手一つだの、シングルマザーって言葉。なんか引っ掛かるんだよな、あれ。一人での子育てが美談、みたいな風潮。死別はともかく、原因が離婚とかだとどうも納得できなくて。」
愚痴っぽくなってしまったが、要点はそこじゃない。話が長くなってしまいそうだったので、早々に結論を告げることにした。
「子供って、一人で育てるより二人で育てるほうが、よっぽどすごいだろ。」
血の繋がりもない、育った環境も違う他人同士が、一緒に人間を育てるんだから。それを放棄したのがうちの親なわけで。おまえんちは、男二人で、すごいじゃん。
結局長くなってしまったと我に返ると、雨宮はじっと見据えていた。
「変なこと言うのね。」
変? そうか? 再び脱線した僕らは、また揃ってマグカップに口をつけた。
「そういうのもぜんぶ含めて、ふつうなのよ、うちは。」
コーヒーはちょっとだけぬるくなっていた。香りはぬけてしまったけれど、味がわかり易くなっている。一気に半分以上飲み込んだ。
「あんた、やたら家族に自嘲的だけど、」
雨宮は猫舌なのかまだ息を吹きかけつつ、慎重に啜っていた。啜る合間に会話を挟む。
「あんたの家だって、あんたが普通ってことにすれば、ふつうよ。」
ずいぶん都合のいい考え方だな。僕は笑った。
「そんなもんでしょ、家族なんて。」雨宮は素っ気なく言う。
「普通じゃないって思えないなら、思わなきゃいいわ。切り捨てようが軽蔑しようが勝手。子供でいるうちは、家族なんて自分第一でいいの。子供は自分の家庭しか知らないんだから。価値観も基準も、自分が一番正しいのよ。」
小難しいこと言ってくれるな。
僕の理解が乏しいのか、雨宮が達観しすぎているのかは判らない。ただ、彼女の持論を受け容れるには、時間が必要だと察した。まったく理解できないわけじゃない。おぼろげながら納得はできるし、雨宮だからこその説得力もある。
二人の父に、一人の娘。母はいない。そんな家庭環境を、彼女は普通だと言い切る。
現実的にはそうとう希有な戸籍なのに、雨宮には、ふつう、なんだ。
僕も、あの、脆弱な母親と暴虐な妹を、ふつう、と言い切っていいのだろうか。
言い切れば、ふつうになれるのだろうか。
「もしかして、慰めてくれちゃってる?」
妙にこそばゆくなったので、茶化してみた。
「つけあがるんじゃないわよ、ド低脳。」
僕らのやりとりは、最早お約束になりつつある。
楽しいのは僕だけで、雨宮は辛辣だけど。一緒に笑うことなんてないけれど。
彼女の笑った顔すら、見たこと無いけど。
「イトコちゃん、やっさしー。」
懲りずにふざけた。雨宮は、面食らった表情をみるみる赤面させる。そして無言でぬいぐるみを投げつけてきた。
こういう反応を示してくれる彼女が、僕はけっこう好きだ。
学校のこと、家族のこと、自分のこと。少しのあいだだけ、どうでもよくしてくれる。
「ふざけてる暇あったら、単語の一つでも覚えなさいよ。あたしが直々にみてやってんだから、無様な結果出すんじゃないわよ。」
「はいはい、仰せのままに。」
今の毎日なんて、ふざけて笑っているだけでいいのにな。僕はまだ十七歳なんだから。
まあ、いろいろ考えるのも仕方ないのだろうけど。もう十七歳なんだから。
めんどうくさいな、高校生ってやつは。
やっと真面目に取り組み始めたところで、帰宅の音がした。ただいま、と、部屋の外から呼びかける声に、雨宮はおかえりなさいを返す。
ノックを鳴らして、雨宮の父は部屋を覗き込んだ。
「みてみて。まだ開いてた。」
嬉しそうにケーキの箱をみせてくる。
「頭を使うなら甘いものだよ。てきとうに休憩にしよう。」
やわらかく言う彼の、やっぱりどうも逸脱しているあたりが、心の底から羨ましくてしかたなかった。