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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第三章】 あかつき、のち雨
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19  『提案』




 身体の感触よりも髪のにおいよりも、体温の高さに気をとられた。冷血の二文字が似合う女なのに、意外とあたたかい。

 若い女は低体温だって聞いたんだけどなあ。夏の冷え性もあるっていうし。もしかして見かけによらず、健康体なのかな、こいつ。


 僕は雨宮にくっついたまま、思いのほか冷静に分析していた。

 正直いうと、ぜんぜん、冷静なんかじゃないけど。これはある種の現実逃避だと自覚していた。



(……………やっべえ……、)


 この状況、どうしたものか。



 本音はそれに尽きる。

 せつな的に抱きついてしまったのはこの際仕方ないとして、その結果、怒鳴られようと殴られようと逃げられようと、一通り覚悟していたというのに、雨宮はまったく抵抗してこない。僕の腕におとなしくおさまっている。完全に想定外だ。


 自分からやらかしてしまった手前、離れることもできず、半ば硬直状態の抱擁が続いた。



「訴えて勝つわよ。」



 やっと耳に入った脅し文句が天の救いに聞こえた。大げさに慌てて雨宮を解放すると、睨んでこそいたけれど、動揺はしていなかった。ちょっと前までは近づくだけでも警戒していたくせに、よくわからない神経をしている。


「なんだってのよ、もう。」


 まあ、それは雨宮からしても疑問なんだろうな。これもまたお互い様の一例かと納得した上で、引き続き、勢い任せの釈明をした。


「えっと、まあ、ノリ?」

 ついでに茶目っ気も付け加えておく。


「訴訟も辞さないわ。」


 おおむねさっきと同じ発言なのに、今度は目がマジだ。僕も今度は本気で慌てて、両手を向けながら謝罪した。「うそ」と「ごめん」を連呼したのち、「冗談だって」で締めくくる。


「な、なあ、夕飯食べた?」

 しまいには話題を捻じ曲げた。

「俺、まだだからさ、どっか行かない? おごるよ。」

 ご機嫌取りがてら気前よく誘えたのは、例の臨時収入と父さんのおかげだ。


 雨宮は少し悩んだ末、思いついたように、「アイス。」と発した。


「え?」

「夕飯済んでるの。だからアイス、奢らせてやるわよ。」


 ハーゲンダッツよ、イチゴ味。やや横柄に注文を足す。思いがけない展開に、自然と口元が緩んでしまった。

「はいはい、仰せのままに。」

 ふざけながらヘルメットを取り出して差し出すと、雨宮はきょとんとしてすぐ、眉をひそめた。


「なに、これ、」

「何ってメット。もも……桂木のだけど、我慢してくれよな。」


 抗議される前に先手をうった。

「荷物しまうから貸せよ。」「足置くのはそこだから。」拒否する隙も与えず同乗の段取りを仕切る。

 雨宮は躊躇っていたけれど、準備万端の僕に観念したのか、慣れない手つきでヘルメットを装着して、おそるおそる跨った。


「膝で俺挟んで。」

「はさむ?」

「そうすると怖くないから。たぶん。」

「手は……どこ、」

「腰あたり。あと、スピード落としてほしいときは、右腿叩いて。」


 仕方ないけれどなかなか出発できない。一通り指示してエンジンをかけると、腰を掴んでいた雨宮の手が腹の前で交差して、力強く密着してきた。思わずエンジンを切る。


「え……? な、なに、」

 背中越しに、雨宮は恐々聞いてきた。


「案外そそらないもんだな。」

 僕はまじまじと答える。


「早く走れクズ。」

 ふくらはぎを蹴られ、今度こそちゃんとエンジンをかけた。






 申し訳ないくらい、雨宮には色気が無かった。

 百香以外の女子を乗せるのは初めてなのに、なんら特別感も無い。両腕も、太腿も、胸も、ぴったりくっ付いているのに、性的なきもちが一切湧いてこない。以前仲村の命令で馬乗りにされたときは、随分と妖艶に見えたのに。


 代わりに、妙な安心感があった。


 運転している側がいうのも変な話だけど、全然緊張しない。

 かといって、荷物を運んでいるふうでもない。腕を絡めてしっかり抱きついているのは正真正銘、雨宮糸子という女子生徒だ。性的なにおいは、気の毒なくらいしないけれど。


 健全な男子高校生としての悦びを味わえないまま、あっという間にコンビニに着いてしまった。




 サンドイッチを一袋と、昆布のおにぎりを一つ、それと、新発売のロゴが張られたジュースと、雨宮注文のアイスを買って、店の前であけた。

 バイクの傍で立ったままパンを齧る。『お嬢さま』疑惑のある雨宮の反応が気になるところだったけれど、彼女は抵抗無くアイスの蓋をはずし、スプーンでつつきながらただ一言、「炭水化物ばかりじゃないの。」と呆れるように言った。


「外で差し支えないやつ選んだ結果だよ。」

「帰って食べればいいじゃない。」

「無理。今帰ったら殺される。」


 誇張して言い返すと、雨宮は見透かしたように、おおげさね、と言い捨てた。


「前も言っただろ。穏当じゃないんだよ、うち。」

「穏当の意味、わかってんの、」

「平和とかそんな感じだろ。」

「辞書引きなさいよ。たわけ。」


 雨宮はアイスの表面をまだつついている。買ったばかりのアイスは硬く、プラスチックのスプーンが扱いづらそうだ。

 やっとスプーンの先が沈んで、一口分を丁寧にすくった。一口分の薄ピンクが、これまた丁寧に雨宮の口へ運ばれる。狭く開いた唇は汚れることなく、静かにアイスをとかした。


 やっぱり品があるな。たかが買い食いなのに。変に感心していると観察がばれて、睨まれた。


「雨宮はさ、なんで特進入ったの?」

 目が合うと同時に話をふった。例によって雨宮は、瞬きを繰り返す。


「あたし、勉強しかできないもの。」

 やがて素っ気なく答えた。


「勉強しか……って。ぜいたくな動機だな。」

「贅沢なんかじゃないわ。」

 からかって笑うと、雨宮は珍しく唇をとがらせた。


「あたし、ブスだし、根暗だし、運動とかも死ぬほど嫌いだし、勉強くらいしか取り得ないけど、必死に受験とか、ばりばりの進学校ってのも性に合わないし、適当に入学(はい)れてそこそこ成績優遇だったのが、ここの特進だったのよね。」


 自虐と言い訳を織り交ぜた説明をして、なげやりに視線を逸らした。


「言うほど、ブスじゃないと思うけど?」


 逸らした視線が一瞬で帰ってくる。僕の評価に、雨宮は疑うようなしらけるような、形容しがたい妙な顔をしたので、「美人でもないけど。」と補足した。


「あれだ、下の上。」

 更に付け足したところで、アイスの蓋が飛んできた。


「……あんたこそ、なんで特進きたの、」

 仕切り直して今度は、雨宮が問う。

「俺の全力の結果。」

 僕は簡潔に答えた。雨宮が「はあ?」と首を傾げる。


「中三の俺が、全力で本気出して、死に物狂いで勉強した頂点にあったのが、今の特進。」


 誰かさんからすれば、適当だったみたいだけど。皮肉ではなくて僕も自虐気味に説明した。


 雨宮は黙って聞いていた。アイスはまだ半分以上残っている。

 ふざけて、「ひとくち、」と口を開けてみたら、雨宮はごく自然に、僕の唇にスプーンを乗せてきた。冷たさと驚きで、苺の味があまりわからない。



「やっぱり、意識したの?」

 冷たさが引くあたりで、雨宮はきいてきた。


「意識?」

「妹。」


 ペットボトルの蓋をひねると炭酸が音をたてた。『新発売』に期待して一口飲むと、忘れていた口端の傷に、ずきんとしみた。味は、良くも悪くも無難といったところだ。

 アイスのお返しとして雨宮に渡したら、やっぱり自然に受け取って飲んだ。うまいかまずいかの感想も無く返す。


「意識っていうか……うん、まあ意識したかな、一応。」

 ペットボトルを受け取りながら、僕は言った。




 ひのでは、中学入学当時から成績優秀な生徒だった。

 中間、期末、学力診断、時々実施される小テスト、全てにおいて常に上位で、普段の素行の悪さなんて霞んでしまう(やらしい話、帳消しにされてしまう)くらいだった。


 そんな彼女が中学二年の五月、初めての三者面談で、進学はしないつもりだと言い出した。



「母親がもう発狂しちゃってさ、せめて俺はそこそこの高校(ところ)行かないとなって、察しちゃったわけ。」


 三学年に上がったばかりの僕は、そこから猛勉強の毎日だった。

 本来なら身の丈に合った進学先を予定していたのに、番狂わせもいいところだった。もともと要領も、良いほうではなかったし。その年は夏休みもクリスマスもバレンタインも、記憶に無い。


 しかも番狂わせはこれで終わらない。

 僕の受験が終わり、補欠入学がまだ合格に確定していない物憂い時期に、ひのでが進学の意思を固めたのだ。




「そして一年後、入学生首席で壇上にのぼる妹の姿が、そこにありましたとさ。」


 芝居がかった口上で僕はふざけた。

 雨宮はやっぱり、黙って聞いていた。



「……炭酸強いな、これ。」

 『新発売』の感想をのべて、話を脱線させた。

「ええ。喉、熱くなるわね。」

 雨宮はこんなことにも真面目に答える。


「あ、強炭酸って書いてあった。」

「炭酸って、強弱あるの?」

「は? 微炭酸とかあるじゃん。」

「知らないわ。」

「まじで? 店員にオーダーすると選べるんだよ、コンビニやスーパーでも。」

「……初耳だわ。」

「嘘だけど。」


「くたばれ下賤豚。」

 新しい悪口だ、僕は腹をかかえた。雨宮はむっとしながら、空になったアイスをゴミ箱へ落とした。



「正直さ、妹が進学しないって聞いたとき、少し嬉しかったんだ。」


 彼女の視線が逸れた隙に、僕は話の続きをはじめた。


「だから、必死になれたっつーか。」

 話の続き、といっても、実のところこれで終わりだ。


 これ以上進展はないし、特に結末も無い。しいて言えば、その後の高校生活で仲村と雨宮(おまえ)に出逢ったことが、最大の転機で今も続行中だけど、とても口にする勇気は無かった。



「勝ちたい?」



 突然、雨宮が言った。なんのことか理解できなくて、へ? と聞き返す。


「一度くらい勝ちたい? 妹に。」


 まさかとは思ったけれど、本当にそういう意味だった。

 あまりにも真摯な面構えに、本音を言うべきか、ふざけるか悩む。


「そりゃ、できることなら。でも絶対無理だし。」

 間をとって、ふざけながら本音を言った。

「でも、差くらい埋めたいでしょ、」

 雨宮は更に真摯にきいてきた。まばたきの頻度が少ない。

 僕はけっこう圧倒されつつも、あたりまえだろ、と言い返した。



「じゃあ決まりね。」



 言うなり雨宮は、また慣れない手つきでヘルメットをかぶった。そして僕に「さっさと食べなさいよ。」と急かす。何がなんだかわからなかった。


「テスト勉強するわよ。」

 横柄な声がメット内で篭った。テスト勉強って、これから? パンを押し込んでジュースで流す。


「当然でしょ。月曜からなんだから。」

「いや、教科書とか家だし、」

「あたしのがうちにあるわ。」

「うち、って、」

「あたしの(うち)に決まってるでしょ、愚鈍。」


 さも当然のように言うので、思わずむせた。咳払いをしずめて、小刻みに首を振る。


「いやいやいやいや、まずいだろ。もう九時前だし。」

「あんた終電関係ないんだから、問題ないでしょ。」


 そういう問題じゃない。

 そうじゃなくて、その、常識的にっていうか、その、いくら勉強といっても、その、ほら、おまえの親とか。僕はしどろもどろに難を並べた。


「今夜は、うるさいほうの父が夜勤だから平気よ。」


 つまり母親のほうは寛容ってことか……。

 やらしいことに僕の常識は、あっけなく揺らいだ。



 正直、雨宮宅に関しては、日ごろから気にはなっている。

 もう夜晩いし、お互い未成年だし、しかも男女だし……色々思うことはあるけれどしょうがない。常識は、好奇心には勝てないみたいだ。


「勉強……うん。テスト勉強、しような。」

 ぶつぶつ言う僕に、雨宮は「だからそう言ってんでしょ。」と更に急かした。


「右折は右腿、左折は左腿叩くわ。スピード落としてほしいときは肩叩くから。」


 いつの間にかサインまで仕切られていて、二度目の同乗をした。

 雨宮の膝から太腿、両腕、胸がぴったりとくっつく。さすがに二度目だと抵抗も薄いなあ。恥じらいとかあっても歓迎なんだけど。そんなことを秘めながらエンジンをかけた。

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