01 『日常』
[科目別 数学 一位 皆口ひので]
[科目別 英語 一位 皆口ひので]
[科目別 化学 一位 皆口ひので]
[科目別 世界史 一位 皆口ひので]
[一学年総合成績 一位 皆口ひので]
掲示板上列に連続して並ぶ妹の名に、眉をひそめた。
新年度早々行われる学力診断テストは、成績には直接響かない。ましてやここは進学校でもないし、たとえ結果が芳しくなくても危惧する必要なんてない。
けれど、その中途半端に上等な偏差値と、『特進科』なんて設ける優秀ぶった校風が災いしてか、教師からの待遇や生徒自身の立場を決める材料には、なり得たりしていた。
去年、僕はこの高校のまさしく特進クラスに補欠合格で滑り込んだ。『特進』なんてたいそうだけど正直名ばかりのレベルで、身も蓋もない言い方をすれば、滑り止めの集まりみたいなクラスだ。
つまり僕は、そんな滑り止めに滑り込んだのだ。
そして今月、妹のひのでは入試成績首席の肩書きを堂々と掲げ、同じ特進の生徒として入学してきた。
冗談じゃない。風評被害だ。
「ひのでってば本っ当すごいよね。旭も負けてられないよー?」
穏やかでない胸のうちをえぐるように、百香は茶化してきた。
彼女の、無神経と紙一重な明るさにはいつもうんざりさせられる。特に今日は順位表の貼り出しもあったから逃げてきたというのに、校門あたりで捕まってからはご覧のありさまだ。
百香も妹とはまた別枠で、昔から厄介な女だ。いつだって僕と妹を同等に扱い、そのくせ比べたがる。しかも彼女自身は決して性悪な女ではないので、余計にたちが悪い。
「わざわざ下級生の結果まで見てきたのかよ、暇人。」
「旭だって見てたじゃん。百香、暇じゃないもん。」
最近では、無邪気な彼女に煩わしさを覚える度、自分は大人になれたのだなと、諦めがつくようになってきた。所詮相手は高二になっても自分を名前呼びするような女だ。
「その様子じゃ、二学年の結果なんて見てないんでしょ?」
空気も読まずあどけない表情を浮かべる百香相手に、まともな返事をするのが面倒になった。
「今回の一位、誰?」
話題の矛先を変えられそうな返事を選ぶ。
「いつもとおんなじ。仲村、雨宮のツートップ。っていうか仲村くんはともかく、雨宮さんは一緒のクラスじゃん。冷たいなあ。」
「だって喋ったことすら無いし。」
「んー。まあ、雨宮さんって静かなタイプだもんね。」
「静か」。百香のこの表現は、どちらかといえば優しい類いのほうだ。それは彼女にしては優しい、という意味合いではなくて、百香自身が優しいほうの人間である、という意味で。
度々うんざりはするけれど、やはり百香は性悪な女ではないと実感した。
「ねえ、アイス食べいこうよ。」
テストの話題をぶった切るように百香は提案してきた。女子のこういう、会話の方向転換が縦横無尽なところは、ある意味すごいと思う。
「嫌だ。」
「えー。奢ってあげようと思ったのにい、」
屈託のない笑顔がいたずらに阻んだ。
気分転換には甘いものが一番だよ? あどけなく鞄をくるくる回すしぐさが追い打ちとなり、不覚にも従う以外の選択肢を失ってしまった。
肩を並べて駐輪場までたどり着く……ここまではよかった。
懐でせわしく震える、スマホの画面を見るまでは……
着信 皆口陽
「…………。」
母さんからの通知画面に嫌な予感が走る。
数分後、それは的中した。
通話が終わるのを不安げに見守っていた百香に、僕は電話を切るなり開口一番、謝罪した。
「悪い百香、アイス中止。」
きっと同じ予感を察していたのだろう。彼女の、またたく間に曇ってゆく表情に、僕は先手を打った。
「ひのでが、やらかした。」
日が長くなったというのに玄関も廊下もどんよりと薄暗くて、今日がろくでもない一日で終わるのだと確信させた。
母さんは、これまたいっそう薄暗いリビングで、テーブルに顔を埋めるように伏せていた。
帰宅して間もなくひのでの一報を受け、各所飛び回ったのだろう。彼女の横には、まだ中身の詰まった買い物袋が無造作に横たわっていた。
「ただいま。」
静かに呼びかけると母さんは針でも刺されたかのように、びくっと顔をあげた。
「…………あさひぃ……」
情けない顔が救いを求めてくる。
「もう嫌ぁ……なんでなの……またこうなるの。あたしは、間違えてないのよ、絶対。だってあなたを……あなたは、育てたもの。育てられたもの。……ちゃんとしてくれれば、ちゃんとした子なのに……あの子は、いつもそうなの。何度も裏切るの、いつもよ。あなただけなのよ、あたしには、あなただけなの……」
母さんは震えながら饒舌に、支離滅裂な言葉を並べた。瞬きを忘れて目を見開きながら、頭を抱え髪をぐしゃぐしゃ掻く。
こうなってしまうと扱いづらいもので、下手にフォローをしたところで逆効果だ。
僕は母の背中を摩り、「俺もひのでと話すから、母さんは少し休みなよ、」と、自室へ促した。
「お疲れさま、大変だったよな。夕飯は適当にやるからさ。」
あえて軽薄に笑うと、母さんは「ありがと」と「ごめんね」を交互に繰り返し、洟を啜りながら退散した。母さんを部屋に閉じ込めてすぐ、ため息をひとつ落とす。
……さて、ここからだ。
覚悟を決めて、僕は階段を踏んだ。
結論から言うと、妹のひのでが暴力沙汰を起こした。
電話口で取り乱す母の説明だけでは事態が把握しきれなかったので、直接生徒指導室へ尋ねたところ、ようやく状況が飲み込めた。
ひのでと揉めたのは他校の男子生徒三名で、声をかけてきたのは彼らだが、先に手を出したのは、ひのでらしい。
声を掛けてきた要因も、手を出した原因も詳細は不明だが、ひのでが無傷なのに対して相手側がそれぞれ顔面とみぞおちを殴打されている様子から、非は彼女にあると判断された。
怪我の程度こそ大事には至らなかったものの、騒ぎの途中で警官が仲裁に入ったため、ひのでが起こしたのは暴力沙汰から警察沙汰へと発展してしまい、彼女は入学一ヶ月目での停学を余儀なくされた。……とのことである。
軽いノックを二回、反応は無かったが扉を開けた。香水とシンナーの混じったにおいが鼻をつく。妹の手にしているマニキュアからだ。
妹は一瞬だけ手を止めて僕に視線を走らせたが、すぐにまた爪をいじりだした。
「何してんだよ、」
「ネイル。殴ったとき割れた。」
清々しいくらいに反省の色が見受けられない。
その傲慢な態度と、彼女の若さを謳歌した風貌に、僕はいっそう深いため息をついた。
妹のひのでは、兄の僕から見ても目を惹く類いの女だ。
『女子高生』ではなく『女』のにおいを醸す女なので、たちが悪い。今回の件は「声を掛けてきた要因も手を出した原因も詳細は不明」らしいが、正直、真相はそれとなく推測できてしまう。
「やっちまったもんは仕方ないけど、母さんには謝っておけよ、」
無視。マニキュアをなぞる指だけが動く。
「母さんさ、おまえがちゃんと進学してくれて、本当喜んでたんだからさ、」
めげずに説教を付け足したところで指が止まった。代わりに大きな眸が鋭く動く。
睨みつけながらゆらりと立ち上がる彼女の威圧に、凍りついた。
「おめでたい奴だな、てめえは。」
「────ッ……!」
避ける間もなく胸ぐらを掴まれ、壁に叩きつけられた。気道が押し潰され声を失う。
「私に命令できる立場かよ。」
そこまで吐き捨てるとひのでは、僕を廊下に突き飛ばすかたちで解放し、またネイルのやり直しだと言わんばかりに舌打ちをして、扉を閉めた。
そう、妹はこういう女だ。
容姿だけは端麗、成績だけは優秀。そして暴虐的で幼稚、激情家で傲慢。
暴力が原因の騒動も、他人との諍いも今回が初めてじゃない。中学時代から度々あったのだ。
その存在感から上級生には目をつけられ、他校生に絡まれることも日常茶飯事で、それらすべてを返り討ちにしてまた別の騒動に発展させるまでが、恒例だった。
ちゃんとしてくれれば、ちゃんとした子なのに。
ひのでが問題を起こす度に母さんが吐く口癖だ。「ちゃんと」だなんて漠然としすぎているけれど、概ね同感できる。しかし、それを声にあげてひのでを諭せる資格なんて、僕には無い。
彼女の言うとおり、立場じゃないんだ。
僕が妹に勝る部分は一つとしてない。
頭脳、容姿、精神面・物理的な強さ、身長さえも負けている。きっと此度の停学も、彼女の学力をもってすれば、さほどわずらう事ではないのだろう。
反論できればどんなに楽だろう。反撃できればさぞかし痛快だろう。
しかし現実は負け戦だろうし、何より母さんの精神状態に影響しかねない。それに、将来確立されるのであろう社会的地位の優劣も、恥ずかしながら自覚している。
つまり結論として、事なかれ主義に徹するのが、僕にできる唯一の英断なのである。
……と、頭では納得しているものの、やはり腹が立つものは立つ。
妹との一悶着後、僕は思い立ったように家を出て、バイクに跨り行く先も決めず走った。去年免許を取って以来、妹関連でむしゃくしゃしたときは、こうやってバイクに乗るのが僕の日課だ。
原付二種というところがどうも恰好つかないし期間限定ではあるけれど、僕は今、十五歳の妹には出来ないことをやっている。そう思える瞬間だ。
こんなしょぼいプライドでも、消化できれば気が軽くなるものだった。
どうしようもないな、僕は。
兄としても、男としても、どうしようもなく出来損ないだ。
でも仕方がないのだと今一度諦める。走りながら自覚する。どうしようもなくても情けなくても、妹の言葉を借りるならおめでたい奴だとしても、せめて平穏に生きていたい。
多少の面倒に目を瞑れば、我慢すれば、母さんはそれなりに安定する。妹からの被害も最小限に抑えられる。僕の日常は少々ややこしいかもしれないけれど、なんとか保たれる。
出来損ないの僕でも生きてゆける。
家族への不満なんてあげればきりがない。どこの家庭だってそんなものだ。
家庭崩壊に臆するほど深刻じゃないし、必死になってまで改善するなんて割に合わないし、抗うほうがハイリスクだ。ほとぼりが冷めるまで安全地帯まで逃げる。
今はただ逃げよう。待とう。
僕にお似合いな中古の原付二種で、夜を走った。