18 『庇護』
どんなに古い記憶を引っ張り出しても、最後の「おにいちゃん」がみつからない。
学校の駐輪場にバイクを停めて、物思いにふけた。逃げ場がここしかないのは情けないけれど、ここ以上に冷静になれる場所も、他にない。
おかげでずいぶん古い記憶まで辿れた。ひのでも可愛かったんだな……なんて思える余裕も出てきた。一向に、帰りたくはならないけれど。
テスト前だってのに、何をしてるんだ僕は。
冷静になればなるほど情けなくなってくる。痛みがどんなに鎮まっても、ミラーの中にはぼろぼろの自分が居る。帰りたくないくせに、行く当てもない。とりあえず留まっているのは、学校の駐輪場。恰好悪すぎる。
今夜のこと、母さんに知られたら面倒くさいな。グラタン、食べなかったし。またさめざめと滅入るんだろうな、あの人は。
百香がまた丸く治めてくれないかな……なんて、こんなときばかり頼るなんて虫がいいな。
ひのでに嫌われるわけだ、僕は。
ていうか、ひのでの奴、何をあんなに怒ってたんだよ。百香に何をしたって? あいつのことになると目の色変えやがって。だいたい、僕と百香が仲良くしないほうが、おまえにとっては好都合だろうが。
冷静になると、今度は不平不満も出てくる。頭のなかで独り言のように愚痴った。
愚痴れば次第に、どうでもいいことまで考えるようになる。
どうせ、ひのではまた学年トップなんだろうな。それに比べて、僕は不甲斐ない結果になりそうだ。勉強量が多いのも、真面目に生きているのも、僕のほうなのに、遺伝子だって同じはずなのに、平等じゃないな。
……いや、平等じゃないのは普通のことなんだ。僕たち兄妹の差は、なんら特別じゃない。もともと違うほうを選んでいるのだから。それなのに風評被害だ、遺伝子なんて。
ある程度歎いたところで、妹について考えるのをやめた。これ以上は本当につらくなりそうだったから。
二学年のトップは……また、仲村だろうな。
頭からひのでを消すと、自然と仲村星史の姿が浮かんできた。
人懐こい笑顔と、親しみやすい振る舞い。どんなに凝らしても見えてこない、透明感。
“つけあがるなよ、肥溜めが。”
優等生の陰に、潜んだ暴虐。
僕は瞼を閉じて、彼も消した。
“この出来損ないが。”
するとまた、ひのでが浮かんできた。
罅が入る。
吐き気がする。
どちらかが頭の片隅に残る限り、二人とも消えてくれない。
現れては消え、消えては現れるの繰り返しだ。あの暴虐な姿で。
……やっぱりそうだ。
きっと、見てしまったんだ。
「なにしてんのよ、あんた。」
ありえないはずの声に、呼ばれた。
幻聴、だと思った。
考えすぎて、願いすぎて、錯乱しているのだと。
でも、彼女はいた。薄闇に紛れて僕を呼ぶ。
「こんな時間に。」
雨宮糸子はまぼろしなんかじゃなかった。
呆然とする僕に歩み寄ってきた雨宮は、顔を確認するなり眉間に皺をよせた。
「どうしたのよ、顔。」
指摘されて、ひのでにやられた傷を思い出す。
「おまえこそ何やってんの、」
なんとなく笑い飛ばして、話を逸らした。
「あたしは…………、く、靴、取りに来たのよ。どっかのバカのせいで。」
「まじで? 超ご苦労。」
「どの口が言ってんのよ。ドクズ。」
ごまかしていたつもりが、いつの間にか本当に笑っていた。別れ際の件に尾を引かず、いつもどおりのやりとりが成立して、嬉しかった。雨宮は全然、笑ってなかったけど。
笑う僕を尻目に、雨宮は無言でポケットから何かを取り出した。使い捨ての洗浄綿だ。封を切って僕の口端に宛がう。以前同様、僕は噴き出した。
「また持ち歩いてんの、それ、」
「うるさいわね。」
湿った綿がひんやりとしみる。
「妹にさ、やられたんだ、これ。」
笑顔が解けないまま、僕は言った。
「そう。」
雨宮は素っ気なく返す。
「妹、めちゃくちゃ強いんだ。喧嘩。」
「そう。」
「俺、勝てなくてさ、いっつも。」
「そう。」
足もすげえ速くてさ、あいつ。小学生んとき運動会のリレーで、全校生徒の前で追い抜かれたんだよ。あと新学期の書初め、あいつばっか金賞取るんだ。中学の球技大会も、俺のクラス、あいつのクラスにボコボコにされてさ。ああ、そういえば展覧会の絵画も、賞取ってたなー。それにこないだの学力判断、学年一位取りやがってさ、あいつ。
「……そう。」
俺さー、補欠合格でぎりぎり入れたんだよ、特進。なのにあいつときたら、首席で簡単に入学りやがってさ。完全に嫌がらせだよ。大して仲良くないんだから、違う高校行けっつーの。レベルだって、もっと上げられたくせに。
僕はだらしない笑顔のまま、ひのでについて話し続けた。
雨宮は何に対しても「そう。」と素っ気なく返すだけだった。
「……なんにも勝てないんだ。昔から。」
「皆口、」
唐突に呼ばれて、息がとまった。
「もう喋らないで。傷、拭けないわ。」
眼鏡の奥からまっすぐ見据える黒い眸に、僕は順じた。
喋るのをやめて笑顔を消して、彼女に委ねる。切れた口端に、腫れた頬に、細い指と濡れた綿がつたう。やわらかな束縛に身を任せていると、彼女の手首が視界に入った。
赤紫のあざが、何重もの線となって皮膚と同化している。力で捻じ伏せられた跡だ。虫けらみたいに踏み躙られた痕だ。
とたんに吐き気がして、目を逸らす。
逃げた先のミラーには僕が居た。反射する僕と、正面にいる雨宮が並んだ。
目の前のすべてに罅が入って、確信した。
僕はこの感情を知っている。身体が憶えている。
「………何がおかしいのよ、」
彼女に指摘されて気づく。僕はまた、だらしなく笑っていた。
「名前、初めて呼ばれたなーって。」
「笑うほどじゃないでしょ。」
「笑えるよ。」
今一度誓おう。
あの夜、僕を突き動かしたのは、正義感なんかじゃない。
「変なやつ。」
「おまえもな。」
「めんどくさい男。」
「お互いさまだよ。」
きっと見てしまったんだ。
みえてしまったんだ。
仲村にひのでを、雨宮に、僕を。
“庇護欲は気持ちいいからね”
そりゃそうだよな。庇護欲なんて、ほとんど自己愛だ。
「ほんとう、めんどくさいやつ。」
僕はやっぱり、母さんの子どもなんだ。
いつ、手を伸ばしたのか。いつ、腕をまわしたのか。いつ、引き寄せたのか。全部憶えていない。衝動なんてそんなものだ。衝動のせいにしてしまえば、いい。
僕は雨宮糸子を抱きしめていた。
強く、強く、すがりついて、雨宮ごと自分を抱きしめていた。




