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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第二章】 沈みゆく天道
19/92

18  『庇護』




 どんなに古い記憶を引っ張り出しても、最後の「おにいちゃん」がみつからない。


 学校の駐輪場にバイクを停めて、物思いにふけた。逃げ場がここしかないのは情けないけれど、ここ以上に冷静になれる場所も、他にない。

 おかげでずいぶん古い記憶まで辿れた。ひのでも可愛かったんだな……なんて思える余裕も出てきた。一向に、帰りたくはならないけれど。


 テスト前だってのに、何をしてるんだ僕は。


 冷静になればなるほど情けなくなってくる。痛みがどんなに鎮まっても、ミラーの中にはぼろぼろの自分が居る。帰りたくないくせに、行く当てもない。とりあえず留まっているのは、学校の駐輪場。恰好悪すぎる。


 今夜のこと、母さんに知られたら面倒くさいな。グラタン、食べなかったし。またさめざめと滅入るんだろうな、あの人は。

 百香がまた丸く治めてくれないかな……なんて、こんなときばかり頼るなんて虫がいいな。

 ひのでに嫌われるわけだ、僕は。


 ていうか、ひのでの奴、何をあんなに怒ってたんだよ。百香に何をしたって? あいつのことになると目の色変えやがって。だいたい、僕と百香が仲良くしないほうが、おまえにとっては好都合だろうが。


 冷静になると、今度は不平不満も出てくる。頭のなかで独り言のように愚痴った。

 愚痴れば次第に、どうでもいいことまで考えるようになる。


 どうせ、ひのではまた学年トップなんだろうな。それに比べて、僕は不甲斐ない結果になりそうだ。勉強量が多いのも、真面目に生きているのも、僕のほうなのに、遺伝子だって同じはずなのに、平等じゃないな。


 ……いや、平等じゃないのは普通のことなんだ。僕たち兄妹の差は、なんら特別じゃない。もともと違うほうを選んでいるのだから。それなのに風評被害だ、遺伝子なんて。


 ある程度(なげ)いたところで、妹について考えるのをやめた。これ以上は本当につらくなりそうだったから。



 二学年のトップは……また、仲村だろうな。



 頭からひのでを消すと、自然と仲村(なかむら)星史(せいじ)の姿が浮かんできた。


 人懐こい笑顔と、親しみやすい振る舞い。どんなに凝らしても見えてこない、透明感。




“つけあがるなよ、肥溜めが。”


 優等生の陰に、潜んだ暴虐。




 僕は瞼を閉じて、彼も消した。




“この出来損ないが。”


 するとまた、ひのでが浮かんできた。




 (ひび)が入る。

 吐き気がする。



 どちらかが頭の片隅に残る限り、二人とも消えてくれない。

 現れては消え、消えては現れるの繰り返しだ。あの暴虐な姿で。



 ……やっぱりそうだ。

 きっと、見てしまったんだ。











「なにしてんのよ、あんた。」




 ありえないはずの声に、呼ばれた。



 幻聴、だと思った。


 考えすぎて、願いすぎて、錯乱しているのだと。


 でも、彼女はいた。薄闇に紛れて僕を呼ぶ。



「こんな時間に。」


 雨宮(あめみや)糸子(いとこ)はまぼろしなんかじゃなかった。



 呆然とする僕に歩み寄ってきた雨宮は、顔を確認するなり眉間に皺をよせた。


「どうしたのよ、顔。」

 指摘されて、ひのでにやられた傷を思い出す。

「おまえこそ何やってんの、」

 なんとなく笑い飛ばして、話を逸らした。


「あたしは…………、く、靴、取りに来たのよ。どっかのバカのせいで。」

「まじで? 超ご苦労。」

「どの口が言ってんのよ。ドクズ。」


 ごまかしていたつもりが、いつの間にか本当に笑っていた。別れ際の件に尾を引かず、いつもどおりのやりとりが成立して、嬉しかった。雨宮は全然、笑ってなかったけど。


 笑う僕を尻目に、雨宮は無言でポケットから何かを取り出した。使い捨ての洗浄綿だ。封を切って僕の口端に宛がう。以前同様、僕は噴き出した。


「また持ち歩いてんの、それ、」

「うるさいわね。」


 湿った綿がひんやりとしみる。



「妹にさ、やられたんだ、これ。」


 笑顔が解けないまま、僕は言った。



「そう。」

 雨宮は素っ気なく返す。



「妹、めちゃくちゃ強いんだ。喧嘩。」

「そう。」

「俺、勝てなくてさ、いっつも。」

「そう。」


 足もすげえ速くてさ、あいつ。小学生んとき運動会のリレーで、全校生徒の前で追い抜かれたんだよ。あと新学期の書初め、あいつばっか金賞取るんだ。中学の球技大会も、俺のクラス、あいつのクラスにボコボコにされてさ。ああ、そういえば展覧会の絵画も、賞取ってたなー。それにこないだの学力判断、学年一位取りやがってさ、あいつ。


「……そう。」


 俺さー、補欠合格でぎりぎり入れたんだよ、特進。なのにあいつときたら、首席で簡単に入学(はい)りやがってさ。完全に嫌がらせだよ。大して仲良くないんだから、違う高校行けっつーの。レベルだって、もっと上げられたくせに。



 僕はだらしない笑顔のまま、ひのでについて話し続けた。

 雨宮は何に対しても「そう。」と素っ気なく返すだけだった。



「……なんにも勝てないんだ。昔から。」



皆口(みなぐち)、」



 唐突に呼ばれて、息がとまった。



「もう喋らないで。傷、拭けないわ。」



 眼鏡の奥からまっすぐ見据える黒い眸に、僕は順じた。


 喋るのをやめて笑顔を消して、彼女に委ねる。切れた口端に、腫れた頬に、細い指と濡れた綿がつたう。やわらかな束縛に身を任せていると、彼女の手首が視界に入った。


 赤紫のあざが、何重もの線となって皮膚と同化している。力で捻じ伏せられた(あと)だ。虫けらみたいに踏み躙られた(あと)だ。


 とたんに吐き気がして、目を逸らす。

 逃げた先のミラーには僕が居た。反射する僕と、正面にいる雨宮が並んだ。


 目の前のすべてに(ひび)が入って、確信した。



 僕はこの感情を知っている。身体が憶えている。




「………何がおかしいのよ、」


 彼女に指摘されて気づく。僕はまた、だらしなく笑っていた。


「名前、初めて呼ばれたなーって。」

「笑うほどじゃないでしょ。」

「笑えるよ。」



 今一度誓おう。

 あの夜、僕を突き動かしたのは、正義感なんかじゃない。



「変なやつ。」

「おまえもな。」

「めんどくさい男。」

「お互いさまだよ。」



 きっと見てしまったんだ。

 みえてしまったんだ。


 仲村にひのでを、雨宮に、僕を。




 “庇護欲は気持ちいいからね”




 そりゃそうだよな。庇護欲なんて、ほとんど自己愛だ。



「ほんとう、めんどくさいやつ。」


 僕はやっぱり、母さんの子どもなんだ。




 いつ、手を伸ばしたのか。いつ、腕をまわしたのか。いつ、引き寄せたのか。全部憶えていない。衝動なんてそんなものだ。衝動のせいにしてしまえば、いい。


 僕は雨宮糸子を抱きしめていた。



 強く、強く、すがりついて、雨宮ごと自分を抱きしめていた。

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