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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第二章】 沈みゆく天道
18/92

17  『妹』




 “おにいちゃん”



 最後に妹にそう呼ばれたのは、いつだっただろう。


 僕は十五年と少し、現在進行形で彼女の兄だ。でも、「お兄ちゃん」でいた年月はとっくに過ぎ去っている。

 揃いの帽子も、枕を並べた夜も、手を繋いでいた日々も、遠い昔の話。



 いつから、いつからだ?



 妹が、僕に笑わなくなったのは。

 隣で眠らなくなったのは。

 違うものを選ぶようになったのは。

 手を伸ばさなくなったのは。

 凍てつく眼差しを、向けるようになったのは。




「この出来損ないが。」




 力で、(ぼく)を捻じ伏せるようになったのは。



 壁に追いやられ崩れる僕に、靴の底が無慈悲に乗る────











 なんだってんだよ……

 ひのでの突然の暴力に手も足も出ず、目で訴えるしかできなかった。痛みと困惑、そして理不尽。何から問うべきかさえ、考える余裕も無い。悶える僕を容赦無く絞めるひのでからは、とめどない殺意が溢れていた。


「モモカに、何をしたって聞いてんだよ、」

 力を込めたまま、ひのではもう一度すごんだ。


「なにを……って、」


 僕が百香に? 何を?

 心当たりは容易に浮かんだ。今日の放課後の件……か?

 だけど、こんなにも咎められる意味がわからない。こちとら面倒事を避けただけだ。悪態も吐いてないし、手も出してない。何をしたというより、むしろ何もしていない。


 ここ最近で百香との関係に変化があったこと、距離ができたのは確かだ。でも、それに関してひのでにここまで激昂される筋合いもない。


「離……せよ、」

 僕にも徐々に、反抗の念が点ってきた。

「離さないと……っ」

 力を振り絞ってひのでの手を掴む。


「離さないと何だよ。おまえごときが、」


 言い返されたと同時に、ひのでの膝が僕のみぞおちに食い込んだ。

 先ほどとは比べ物にならない激痛が全身を襲い、呼吸を忘れた身体が脆く崩れる。


「喧嘩の一つもまともにできねえくせに。」


 取り戻した息が荒い。動悸が止まらない。見上げた先では凍てついた眼差しが、威圧と共に刺し殺してくる。


「私に勝てると思ってんのかよ、この出来損ないが。」


 壁に追いやられ崩れる僕に、靴の底が無慈悲に乗る。



 ────……なんだってんだよ、これ。



 困惑を通り越して、僕は途方に暮れ始めていた。


 帰宅早々殴りかかってくる妹。訳も解らずやられっぱなしの自分。あらためて思い知らされる、力関係。口のなか、切れてるし、頭、踏まれてるし、ひのでは無傷だし。なんだってんだよ、本当に。


 出来損ない……か……


 今さら上等だよ。


「でき……そこない……相手に、ずいぶん、本気なんだな? つーか、パンツ、みえてるけど?」


 余裕なんて全然無いくせに挑発した。出来損ないなりの、しょぼいプライドを捨てきれなかった。


 格下に見られて、突然殴られ、蹴りを入れられ、雑魚同然に扱われる。ここまで落ちるところまで落ちたら、もう何も怖くない。むしろ、塵みたいなプライドくらいしか残っていない。


 おまえは所詮、こんな兄貴相手に全力じゃないか。くだらない。


 僕の挑発にひのでは顔色一つ変えず、それどころか足に力をこめてきた。僕の頭をじりじりと踏み躙り、屈みこむ。


「……なんでおまえなんだろうな、」

 長い茶髪が垂れて、ひのでの表情を曖昧にする。眼光だけが鮮明に睨んでいた。


「なに……が、」


「虫唾が走るんだよ、」


 明るく染めた長い髪。若さを謳歌した化粧、派手な爪。女を匂わす完成された体つきに、無慈悲な仕打ち。

 暴力的で幼稚。激情家で傲慢。


 ……これは本当に、僕の妹なのか。


 同じ材料で生成され、同じ環境で育った生き物なのだろうか。同じ血が、流れているのか。


 目の前の異端に息を凝らした。途方に暮れ、ある種の達観をしていた自分が薄れていく。

 入れ違いで、憶えの無い感情が芽生えた。殺意でも恐怖でも怒りでもない。(ひび)が入るような、吐き気を催すような胸騒ぎ。

 ……なんだ、これは。



「おまえなんかと、血も肉も骨も同じなんて。」



 ひのでは淡々と吐き捨てた。

 それはこっちの台詞だ。妹の靴底を額に乗せたまま、声にならない威嚇をした。


 最初に受けた一撃からか、口のなかが血なまぐさい。うまく言い返せないのもそのせいだ。結果的に無抵抗な僕は彼女の評価通り、喧嘩の一つもまともにできない、男の出来損ないだ。


「なんとか言えよ、クソが。」


 ひのでは足を退け、今度は僕の髪を鷲掴みにして無理やり顔をあげさせた。頭皮に爪が食い込み、容赦無い罵声に圧倒される。



 (ひび)が入る。

 吐き気がする。



 …………ああ、そうか。

 憶えが無いなんて嘘だ。僕はこの感情を知っている…………



 抜け殻同然の僕に、ひのでが拳を振りかぶった。




「────ひのでっ!!!」



 拳が落ちる寸前で、叫び声が妹を止めた。

 玄関で百香(ももか)が息を切らしている。


 百香は泣きそうな顔をしながら僕に駆け寄ってきて、同じ位置からひのでを見上げた。


「ひので……こんなの、絶対にだめ……!」

 声は震え、眸を潤ませながらも気丈に諭す。

 一瞬でひのでの表情が曇った。


「でも、モモカちゃん……」


「こんなことされても、百香は嬉しくないよ。」


 続けさまに諭され、ひのではうなだれた。

 攻撃の意思を消した彼女を確認してすぐ、百香は僕のほうを向いた。


「旭……大丈夫?」


 切なそうにみつめてくる百香は、やっぱり、幼い頃から何も変わってない。

 優しくてお節介なところも、自分を名前呼びするところも、すぐに僕の心配をするところも、ひのでを制止できる手腕も。



 いつもそうなんだ。僕らの諍いに割って入っては、僕を守って、ひのでを宥める。

 弱いのが僕で、強いのは、ひのでだから。



 ぼろぼろの僕に百香はハンカチを宛がおうとする。柔軟剤の香りが鼻をついて、避けるように腰をあげた。まだ頬も頭も身体も痛い。それでも無理して鞄を掴み、逃げるように家を出た。


 バイクに跨って躊躇い無くエンジンをかけた。


 僕は逃げた。弱いから逃げた。


 僕は、弱い。

 百香がひのでを足止めしてくれることも、百香が追ってこないことも解っていた。











 ────ひとは、いつから記憶を残すのだろう。


 いわゆる物心というか、自分の一番古い記憶。


 僕の場合は五歳だった。

 あの夜、父さんと母さんは言い争っていた。今でもよく夢に見る、あの喧嘩だ。

 喧嘩というより、母さんの、怒鳴り泣き叫ぶ声。



“どうして愛してくれなかったの?”



 あの叫びを、僕らは寝室で聞いていた。

 オレンジ色の常夜灯の下で、身をまるくして寄せ合っていた。


 ひのでの誕生日の前日だった。


 その日、母さんは僕を連れて、ひのでのプレゼント買いに行こうと街へ出た。普段あまり行かない街だった。

 買い物はすぐに済んで、母さんは近くにある屋内遊園地で遊ばせてくれた。そこで、友だちに会った。


 母さんも、友だちのお母さんと喋りこんでいて、僕は時間を忘れて遊んだ。帰るときが惜しいくらい、楽しい日だった。



 楽しい日だったんだ。

 友だちとも遊んだんだ。

 明日は、ひのでの誕生日だったんだ。


 それなのに、夜は怖かったんだ。




「どうして愛してくれなかったの? あなたの家族だったじゃない、」



 楽しい日だったのに、父さんと母さんは喧嘩をしたんだ。



「また捨てるのね……あたしも、旭も、ひのでも、────────」




 “………おにいちゃん”



 布団のなかで、ひのでが不安そうに呼んだ。



 ………だいじょうぶだよ



 僕は妹に嘘をついた。





 翌朝、母さんはいつもどおり台所に立っていた。

 テーブルにはサラダと牛乳、コップも用意してあって、母さんはパンにジャムを塗りながら、笑顔でおはようと言ってくれた。


「おかあさん、だいじょうぶ?」

 なんとなく僕は言った。



 母さんが止まった。止まって、今度は泣いた。

 泣き崩れて、僕を抱きしめた。



「……あさひ、」


 テーブルのコップは、三つだけだった。



「お母さんは、絶対、あなたを手放したりしないから。絶対……あなたを護るから。」


 世界で一番愛しているわ。

 縋って抱きしめる母さんと、抱きしめられたまま立ち尽くす僕を、妹がリビングの入り口で、隠れるように眺めていた。



 おかあさん


 ひので 四歳になったんだよ



 僕はそれが言えなかった。

 彼女の腕を振り解くことさえ、できなかった────

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― 新着の感想 ―
[良い点] いやいや……今日もぞくぞくしました。 彼らを取り巻く日常に何が起きているんだろう? という感じ。ホラージャンルに足を踏み入れているかのようなドキドキ感と、骨太な人物描写とねじれながら進むス…
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