17 『妹』
“おにいちゃん”
最後に妹にそう呼ばれたのは、いつだっただろう。
僕は十五年と少し、現在進行形で彼女の兄だ。でも、「お兄ちゃん」でいた年月はとっくに過ぎ去っている。
揃いの帽子も、枕を並べた夜も、手を繋いでいた日々も、遠い昔の話。
いつから、いつからだ?
妹が、僕に笑わなくなったのは。
隣で眠らなくなったのは。
違うものを選ぶようになったのは。
手を伸ばさなくなったのは。
凍てつく眼差しを、向けるようになったのは。
「この出来損ないが。」
力で、兄を捻じ伏せるようになったのは。
壁に追いやられ崩れる僕に、靴の底が無慈悲に乗る────
なんだってんだよ……
ひのでの突然の暴力に手も足も出ず、目で訴えるしかできなかった。痛みと困惑、そして理不尽。何から問うべきかさえ、考える余裕も無い。悶える僕を容赦無く絞めるひのでからは、とめどない殺意が溢れていた。
「モモカに、何をしたって聞いてんだよ、」
力を込めたまま、ひのではもう一度すごんだ。
「なにを……って、」
僕が百香に? 何を?
心当たりは容易に浮かんだ。今日の放課後の件……か?
だけど、こんなにも咎められる意味がわからない。こちとら面倒事を避けただけだ。悪態も吐いてないし、手も出してない。何をしたというより、むしろ何もしていない。
ここ最近で百香との関係に変化があったこと、距離ができたのは確かだ。でも、それに関してひのでにここまで激昂される筋合いもない。
「離……せよ、」
僕にも徐々に、反抗の念が点ってきた。
「離さないと……っ」
力を振り絞ってひのでの手を掴む。
「離さないと何だよ。おまえごときが、」
言い返されたと同時に、ひのでの膝が僕のみぞおちに食い込んだ。
先ほどとは比べ物にならない激痛が全身を襲い、呼吸を忘れた身体が脆く崩れる。
「喧嘩の一つもまともにできねえくせに。」
取り戻した息が荒い。動悸が止まらない。見上げた先では凍てついた眼差しが、威圧と共に刺し殺してくる。
「私に勝てると思ってんのかよ、この出来損ないが。」
壁に追いやられ崩れる僕に、靴の底が無慈悲に乗る。
────……なんだってんだよ、これ。
困惑を通り越して、僕は途方に暮れ始めていた。
帰宅早々殴りかかってくる妹。訳も解らずやられっぱなしの自分。あらためて思い知らされる、力関係。口のなか、切れてるし、頭、踏まれてるし、ひのでは無傷だし。なんだってんだよ、本当に。
出来損ない……か……
今さら上等だよ。
「でき……そこない……相手に、ずいぶん、本気なんだな? つーか、パンツ、みえてるけど?」
余裕なんて全然無いくせに挑発した。出来損ないなりの、しょぼいプライドを捨てきれなかった。
格下に見られて、突然殴られ、蹴りを入れられ、雑魚同然に扱われる。ここまで落ちるところまで落ちたら、もう何も怖くない。むしろ、塵みたいなプライドくらいしか残っていない。
おまえは所詮、こんな兄貴相手に全力じゃないか。くだらない。
僕の挑発にひのでは顔色一つ変えず、それどころか足に力をこめてきた。僕の頭をじりじりと踏み躙り、屈みこむ。
「……なんでおまえなんだろうな、」
長い茶髪が垂れて、ひのでの表情を曖昧にする。眼光だけが鮮明に睨んでいた。
「なに……が、」
「虫唾が走るんだよ、」
明るく染めた長い髪。若さを謳歌した化粧、派手な爪。女を匂わす完成された体つきに、無慈悲な仕打ち。
暴力的で幼稚。激情家で傲慢。
……これは本当に、僕の妹なのか。
同じ材料で生成され、同じ環境で育った生き物なのだろうか。同じ血が、流れているのか。
目の前の異端に息を凝らした。途方に暮れ、ある種の達観をしていた自分が薄れていく。
入れ違いで、憶えの無い感情が芽生えた。殺意でも恐怖でも怒りでもない。罅が入るような、吐き気を催すような胸騒ぎ。
……なんだ、これは。
「おまえなんかと、血も肉も骨も同じなんて。」
ひのでは淡々と吐き捨てた。
それはこっちの台詞だ。妹の靴底を額に乗せたまま、声にならない威嚇をした。
最初に受けた一撃からか、口のなかが血なまぐさい。うまく言い返せないのもそのせいだ。結果的に無抵抗な僕は彼女の評価通り、喧嘩の一つもまともにできない、男の出来損ないだ。
「なんとか言えよ、クソが。」
ひのでは足を退け、今度は僕の髪を鷲掴みにして無理やり顔をあげさせた。頭皮に爪が食い込み、容赦無い罵声に圧倒される。
罅が入る。
吐き気がする。
…………ああ、そうか。
憶えが無いなんて嘘だ。僕はこの感情を知っている…………
抜け殻同然の僕に、ひのでが拳を振りかぶった。
「────ひのでっ!!!」
拳が落ちる寸前で、叫び声が妹を止めた。
玄関で百香が息を切らしている。
百香は泣きそうな顔をしながら僕に駆け寄ってきて、同じ位置からひのでを見上げた。
「ひので……こんなの、絶対にだめ……!」
声は震え、眸を潤ませながらも気丈に諭す。
一瞬でひのでの表情が曇った。
「でも、モモカちゃん……」
「こんなことされても、百香は嬉しくないよ。」
続けさまに諭され、ひのではうなだれた。
攻撃の意思を消した彼女を確認してすぐ、百香は僕のほうを向いた。
「旭……大丈夫?」
切なそうにみつめてくる百香は、やっぱり、幼い頃から何も変わってない。
優しくてお節介なところも、自分を名前呼びするところも、すぐに僕の心配をするところも、ひのでを制止できる手腕も。
いつもそうなんだ。僕らの諍いに割って入っては、僕を守って、ひのでを宥める。
弱いのが僕で、強いのは、ひのでだから。
ぼろぼろの僕に百香はハンカチを宛がおうとする。柔軟剤の香りが鼻をついて、避けるように腰をあげた。まだ頬も頭も身体も痛い。それでも無理して鞄を掴み、逃げるように家を出た。
バイクに跨って躊躇い無くエンジンをかけた。
僕は逃げた。弱いから逃げた。
僕は、弱い。
百香がひのでを足止めしてくれることも、百香が追ってこないことも解っていた。
────ひとは、いつから記憶を残すのだろう。
いわゆる物心というか、自分の一番古い記憶。
僕の場合は五歳だった。
あの夜、父さんと母さんは言い争っていた。今でもよく夢に見る、あの喧嘩だ。
喧嘩というより、母さんの、怒鳴り泣き叫ぶ声。
“どうして愛してくれなかったの?”
あの叫びを、僕らは寝室で聞いていた。
オレンジ色の常夜灯の下で、身をまるくして寄せ合っていた。
ひのでの誕生日の前日だった。
その日、母さんは僕を連れて、ひのでのプレゼント買いに行こうと街へ出た。普段あまり行かない街だった。
買い物はすぐに済んで、母さんは近くにある屋内遊園地で遊ばせてくれた。そこで、友だちに会った。
母さんも、友だちのお母さんと喋りこんでいて、僕は時間を忘れて遊んだ。帰るときが惜しいくらい、楽しい日だった。
楽しい日だったんだ。
友だちとも遊んだんだ。
明日は、ひのでの誕生日だったんだ。
それなのに、夜は怖かったんだ。
「どうして愛してくれなかったの? あなたの家族だったじゃない、」
楽しい日だったのに、父さんと母さんは喧嘩をしたんだ。
「また捨てるのね……あたしも、旭も、ひのでも、────────」
“………おにいちゃん”
布団のなかで、ひのでが不安そうに呼んだ。
………だいじょうぶだよ
僕は妹に嘘をついた。
翌朝、母さんはいつもどおり台所に立っていた。
テーブルにはサラダと牛乳、コップも用意してあって、母さんはパンにジャムを塗りながら、笑顔でおはようと言ってくれた。
「おかあさん、だいじょうぶ?」
なんとなく僕は言った。
母さんが止まった。止まって、今度は泣いた。
泣き崩れて、僕を抱きしめた。
「……あさひ、」
テーブルのコップは、三つだけだった。
「お母さんは、絶対、あなたを手放したりしないから。絶対……あなたを護るから。」
世界で一番愛しているわ。
縋って抱きしめる母さんと、抱きしめられたまま立ち尽くす僕を、妹がリビングの入り口で、隠れるように眺めていた。
おかあさん
ひので 四歳になったんだよ
僕はそれが言えなかった。
彼女の腕を振り解くことさえ、できなかった────