15 『亀裂』
好意が日常において、必ずしも利になるとは限らない。それが僕の見解だ。
利どころか、害の割合が多い場合だって、よくある。
たとえば、百香はよく「旭のために」とか、「旭が心配」だなんて言うけれど、その実、煩わしいお節介がほとんどだ。仲村においては好意の名のもとに翻弄しかしてこない。
そして、なによりも母さんだ。母さんの愛のなかに詰め込まれている物は、ろくなもんじゃない。
孤独への恐怖。救済の渇望。父さんへの不満。理想の幸せ。幸せへの依存。すべてが呪いへと姿を変えて、僕に注がれる。
好きになるのが下手……か。仲村は存外的を射ている。
僕はどうも他人からの好意を、捻くれた観点で見てしまう節があるらしい。
全部が全部というわけではないけれど、明らかにあからさまなのは、見抜けるくらいに。
事態は、仲村訪問による余波から起きた。
彼が訪れた昼休み以降、僕へ対するクラスメイトの目が若干変わった。主には女子だ。単にクラスが同じだけのほぼ他人、よそよそしく接する程度だった女子たちが、妙に友好的になりだした。
朝の挨拶だったり、突然の雑談や質問だったり……最初は戸惑いもしたけれど、そのあまりにもあからさまで浅ましい魂胆に、早々愛想笑いすら出なくなった。
彼女たちの目的は、こぞって仲村星史だ。別学科に属する高嶺の花。かすりもしない接点を、僕で結ぼうとしている。そして不本意にも、僕に捺された孤立者の烙印は薄れつつなり始めた。
それでも僕は孤立者に徹した。
質問されても雑談を持ちかけられても、必要以上の返事はしない。最低限の会話で済ませる。昼休みは映写室へ足を運ぶ。
そしてこの空間でだけ、雨宮とだけ、あけすけに喋った。
「案外面倒くさいのね、あんた。」
ここ最近の僕について、雨宮は言及した。
「何がだよ、」
「意地張ってないで、素直に馴染み直せばいいじゃない。」
意地なんて張ってないけど。というのが僕の本音だったのだけど、雨宮が周囲を察知しているという事実のほうに気をとられた。
「おまえこそ、案外周り見てんのな。もっと無関心だと思ってた。」
「関心なんて無いわよ。嫌でも耳に入ってくるもの。」
じゃあ当然、仲村の名前も入ってきてるはずだよな。……とまでは聞けなかった。
素っ気ない会話の流れで、どさくさに紛れるいい機会だったのに、できなかった。
ただでさえ、今の僕は不安定な立ち位置にいる。孤立者の烙印が消え、少しでも雨宮の地雷に触れてしまえば、たちまち崩れてしまうほどに。
それだけは防ぎたかった。せっかく手に入れた日常を、整った今を壊したくなかった。
そのためにはただ、波がやむのを待つしかない。
口も耳も心も、できるだけ閉ざして、事を荒立てなければいい。相手にしなければいい。適当に流せばいい。
────それだけだったのに、
「ねえ、旭、」
やはり僕を煩わせるのは、この女だ。
「これからみんなで勉強会なんだけど……えっと、もし、暇だったら一緒にどう、かな?」
放課後、女子数名を引き連れて、百香は誘ってきた。
背後ではしゃぐ女子たちに比べ遠慮がちなところ、おそらく頼まれたのだろう。百香の性分上、嫌とは言えないのも知っている。そのくせ、僕との距離にも気を遣う。
わかっている。彼女はそういう人間だ。
昔から、幼い頃からそうだ。
僕のために絆創膏を持ち歩く。
ひのでが迷子にならないように手を繋ぐ。
僕らが喧嘩をすれば、弱いほうを守り、強いほうを宥め、最終的に仲裁だってする。
何かあれば声をかけてくれる。友人たちの輪に招待してくれる。誕生日にはケーキを焼いてくれる。
ひのでの心さえも、開いてしまう。
孤立者になった僕を、結局見捨てられない。
そういう人間だ。優しい女だ。
反吐が出る。
「雨宮、」
百香を素通りして、雨宮に歩み寄った。
「帰ろ。」
雨宮は座ったまま僕を見上げて、例によってぱちくりと瞬きをする。
「へ……!? は? な……なん────」
返事を聞くより先に彼女の手をとって、繋いだまま教室を出た。
廊下へ出る瞬間、百香と目が合いそうになって、すぐに視線を流した。
百香、
本当に反吐が出るよ。おまえの優しさには。
僕は雨宮の手を引いたまま、裏門から外へと走った。足取りが軽い。手の体温が無ければ二人で走っていることを忘れそうだ。
「ちょっ……ちょっと!」
校舎からだいぶ離れたあたりで、雨宮が声をあげた。
「ど、どこまで……、は、走る気よ、」
息があがっている。見かけどおり、体力は無いらしい。
「駅裏のスーパー。」
僕はすっとぼけるように答えた。
「は……はあ!?」
さすがに苛立ったのか雨宮は、立ち止まるなり振り切るように手を離し、怪訝な顔をみせた。
「バイク停めてるんだよ。あそこ、結構穴場でさ。」
僕は懲りずにすっとぼけて、飄々とふるまう。
「そ、そういう問題じゃないわよ。く、靴! 上履き!」
雨宮は更に苛立ちながら、地面に向けて指をさした。そこで初めて靴を履き替えてないと気づいた。
「あ……。」
思わず口を開けたけれど、不思議とこの状況に、笑いが込み上げてきた。
「まあ、いいだろ別に。」
「よくないわよ。土日、挟むじゃない、」
「月曜から中間じゃん。どこも出掛けないだろ、」
「そういう問題じゃないわよドクズ。」
僕は可笑しくなって、雨宮は不機嫌になる。だけど二人の間に、学校へ引き返すという選択肢は浮かばなかった。
立ち止まったら急に力が抜けて、そこからは歩いた。もちろん、手は繋がずに。
「……なんだったのよ、急に、」
歩き始めてすぐ、雨宮は問いただしてきた。
「ごめんな。面倒くさくてさ、ああいうの、」
気は引けたけど、正直に話すことにした。
「ああ、桂木百香ね。」
「なんだ、めざといな。」
「気づかないほうがどうかしてるわよ。……ったく冗談じゃないわ。あんたたちの痴話喧嘩に、巻き込まないで。」
歩き始めてからの雨宮の語調は、怒ったふうでも頭を抱える感じでなく、いつもどおり素っ気なくて、それ以上は咎めてこなかった。こっちとしては、謝罪も言い訳もある程度は用意していたのに、拍子抜けだ。
雨宮は僕よりも孤立者として歴が長い。今さら周囲の目なんて、気にも留めていないのかもしれない。だとしても派手に巻き込んでしまったな。
隣で歩く雨宮に目をやると、彼女はおもむろにペットボトルを取り出して一口飲んだ。ボトルの中では、人工的な緑色が泡をたてている。オモチャみたいなジュースが、地味な雨宮には不釣合いだった。
「………なによ、」
「いや、そういうの飲むんだなって思って。」
「悪い?」
「いや、悪いとかじゃないんだけど。」
僕はまだ、けっこう彼女を知らない。
嗜好も傾向も境遇も、真意も。
こんな些細なことで思い知らされる。僕はこんなにも雨宮糸子を知らないままだったなんて。
距離だけは近づいていると過信していたのに、重要な部分は全部後回しで空白のままなんだ。
思い知らされる。思い出してしまう。彼女から目が離せなくたった理由を。
ないがしろにしていた順序を悔やむなんて、遅すぎるだろうか。
今からでも、修正は効くのだろうか。
そして、真っ先に修正すべきはどこからなのか、今日までの僕らを振り返った。
どんなに記憶を辿っても、短い過去を遡っても、避けていた場所はいつも同じだ。空白のままにしていた理由も要因も、本当はわかっている。答えならとっくに持っていた。
ただ、触れるのを避けていただけだ────。
悶々としているうちに駅まで辿りついてしまった。雨宮は僕の隣を離れ、改札へ向かおうとする。
「乗ってかないのか? 送ってくけど。」
呼び止めると雨宮は振り向いて、じとっと睨んできた。
「心中なんて真っ平って言ったでしょ。」
そうだよな。あらためて納得した。
過信していた距離。
放置したままの空白。
驕っていた関係。
こんなもんなんだ、彼女にとっての僕は。
思い知らされる。思い出してしまう。
彼女から目が離せなくたった、理由を。
とけないままの、あの夜のことを。
「……なあ、雨宮。……おまえさ、」
順序を正すなら、きちんと修正するしかない。
「最近、仲村と会った?」
触れるべきはここしかない。
仲村の名を出しても、雨宮は特別な反応をみせなかった。
いつもなら、意地悪にからかえば大真面目に対応するし、気まぐれに接近すれば慌てふためいて動揺するのに、こんな時に限って、冷たく、無反応だ。
「俺たちのこと、ばれてるっぽくて、さ……」
いたたまれなくて付け足した。
「図々しいわね。何が『俺たち』よ。」
雨宮は淡々と返す。
「別にいいだろそこは。何か、難癖つけられたりしてない?」
殴られたり、蹴られたり、実害を受けているんじゃないのか。潜んでいるかもしれない理不尽を勘ぐって問いただすと、雨宮の目つきが鋭くなった。
「セージさまは、そんな人じゃないわ。」
冷たかっただけの反応に、敵意が混ざる。
まず耳を疑って、次にはつまらない冗談かと思った。
でも、突然棘をたてた雨宮の声も、目つきも、勿論反応も、正真正銘、ぜんぶ本気だった。
……なんだよ、せいじさま、って。
「おまえ、あいつに何されたか解ってんの?」
正気かこいつは。懸念から一転して、詰め寄った。
「あれは、誤解を生んだあたしが悪いのよ。」
雨宮は言い切る。
その態度には躊躇いも迷いも無くて、僕は、雨宮糸子という女に初めて落胆した。
今の今まで勘違いしていたんだ。彼女の従順や隷属の影にはきっと、狂気への恐怖や何らかの脅し、力で捻じ伏せられている背景があるとばかり思っていたのに。
まさか、正体が好意だったなんて。しかもずいぶんと、盲目に。
「め、めちゃくちゃ、好きなんだな、あいつのこと。」
彼女の心酔を逆撫でしないように、僕は精一杯の作り笑いをした。
初めて彼女に対して、言葉を選び、雰囲気を守り、顔色を窺った。
「すき?」
おうむ返しをしながら、雨宮は表情をひきつらせる。
「……あんたには解んないわよ、」
そして嫌悪感たっぷりに、僕を睨んだ。
これまでで一番冷たくて鋭い眼差しには、嫌悪だけじゃなくて、怒りにも蔑視にも似た負の感情が込められていて、聞き慣れたはずの悪態が、ずしんと響く。
「あのひとのことなんて、なにも。」
響くだけじゃない。そのまま身体を貫通して、風穴をあけられたみたいだ。
肉も骨も内臓も吹き飛ばされて痛みだけが残る。
「好きだなんて、軽薄なものじゃないわ。」
見限るように雨宮は僕から離れた。
改札を抜けて、真っ直ぐと遠ざかってゆく背中は、どんなに見つめ続けても、振り向いてくれなかった。




