13 『距離』
週が空けて、中間試験が近づいてきた。
特進は特進らしく、この時期はたかだか中間でも空気が変わる。殺気立つというほどではないが、クラス全体が試験に支配されるような雰囲気になる。
休み時間に予習復習をする生徒も珍しくないし、雑談の中に範囲や教師の出題傾向などを練り込むようになる。
昨年度までは僕もそんなふうに乗り越えていたが、この度からは、努力の方向性を変えてみようと試みた。
「数学、教えてくんない?」
結局は他人頼みだけど、雨宮に試験勉強の依頼をしてみたのだ。
会話に慣れてきた彼女も、久しぶりに顔をひきつらせた。
断られるならそれでよしとするつもりだ。単純に、昼休みは時間と空間を共有しているのだから、という浅い思いつきでしかない。
雨宮は学年二位だし、試験前なのに本しか読んでいないし、少なくとも彼女の勉強の邪魔にはならないだろうし。「どうせ」と「たまたま」の産物だ。
「………どこ、」
「え?」
思わず聞き返した。
「だから、どこがわかんないのよ、」
意外な返答だった。どうやら、ダメ元の依頼に応えてくれるらしい。
「どこがわからないのかも、わからない。」
「問題外じゃないの。大たわけが。」
最近の彼女は畏縮しなくなったぶん、以前に増して辛辣だ。
雨宮の教え方は特別上手くもなく、下手でもなかった。ただお互い遠慮が無いので、僕としては気が楽だった。解らなければ解るまできく。なかなか理解しない僕に、雨宮は容赦なく毒づく。その繰り返しだ。
「雨宮はさ、いつ勉強してんの?」
脱線も、たまにあった。
「は?」
「テスト勉強、してないみたいだから。」
休み時間も本読んでるし、なんて言ったら監視してると思われそうなので慎んだ。
「授業聞いてれば充分よ。」
さすが学年二位は言うことが違う。もっと必死になれば一位も狙えそうなのに。
…………。
学年一位。
ふと、仲村星史の存在が脳裏をよぎった。
ここで雨宮と時間を共有するようになってから、そこそこ経つ。距離も整い、関係も安定し、会話もそこそこになったけれど、未だ彼女に仲村の話を切り出せないでいる。
あえて触れないわけじゃない、と言ったら正直嘘になる。
たしかにこれ以上、仲村と関わりたくないし、切り出したところで雨宮はまともに取り合ってくれないだろうけど、実のところ、この現状を失うのが惜しかった。
「なんでさっきの公式忘れてんのよ。頭空っぽなんだから、覚える容量なんていくらでも余ってんでしょ。」
「あいにく残量不足なんだよ。別のことで頭使ってるもんで。」
「無能のくせに、大見栄張ってんじゃないわよ。どうせくっだらないカスしか溜めこんでないくせに。」
言葉を選んだり、雰囲気を守ったり、顔色を窺ったり……身を削らなくて済むこの掛け合いや、気まぐれにからかうと大真面目に反応する雨宮が、けっこう、面白かったから。
「おまえさ、さすがに俺だって傷つくよ? 病むよ? あー精神的苦痛だわー、これ。」
「は? あたしはあんたに轢き殺されかけてんのよ。訴えて勝つわよ。」
あー。あったなそんなこと。すっかり勉強の手を止めて、僕は笑った。
「あれ危なかったよなー。危うく免許取り消しだった。」
「頭沸いてんの? 取り消しどころか前科持ちよ。……あんな鉄屑乗り回してるだけあって、やっぱりネジ一本抜けてるわ。」
雨宮はまったく笑っていなかった。事故未遂の件を、そうとう根に持っているみたいだ。あれを忘れられそうにないのには、同意するけど。
「あの日さ、居残りでもしてたのか?」
初めて雨宮と口をきいた夜を思い出しながら、聞いた。
「……あんたこそ、なんであんな時間に、」
思ったより口が悪くて、余裕が無くて、滑稽だった彼女が、今は普通に言葉を交わしている。
「妹と喧嘩して逃げてきてた。」
「だっさ。」
口が悪いのは、相変わらずだけど。
残り時間も限られてきたので問題集に切り替えた。口酸っぱく教えられた公式に苦戦する傍ら、横目で雨宮を眺めた。
また文字ばかりの本を読んでいる。髪は小奇麗に結われていて、眼鏡はくもり無く磨かれている。背は低くはないけど全体的に華奢なせいか、か弱く見える。
特にほっそりと目立つ指と手首に、胸がざわついた。
僕の知らないところで、彼女はまた仲村と会っているのだろうか。
汚く罵られ、髪を乱され、踏みにじられ、この制服の下に、新しい痣を作っているのだろうか。
他人事といえど吐き気がする。
彼女はどうして従順なのか。助けを求めないのか。訴えないのか。弱みでも握られているのか。
……見えないところでぼろぼろになる必要なんて、ないのに。
まあ、僕も、ひとのことは言えないけれど。
「あのさ、
帰り、送っていこうか?」
気づいたら声をかけていた。
「……何の話よ、」
「鉄屑、乗ってみたくない?」
バイクの鍵を振ると、雨宮は目を丸くして瞬きをした。いつもより頻繁に、ぱちくりと繰り返す。
やがて首から上ごと視線を外して、わかりやすく慌てふためいた。
「じょ……冗談じゃないわ。あんたと心中なんて真っ平よ。」
なんで事故る前提なんだよ。指で鍵を回しながら笑い飛ばした。雨宮はへそを曲げたらしく、なかなか視線を戻してくれない。
昼休みも残り十分きったことだし、早々戻ることにした。
「先に戻るよ。」
支度にとりかかると、そっぽを向いていた雨宮が突然、問題集に手をかぶせてきた。蚊でも叩き潰すかのような大げさな勢いに、僕は思わず唖然としてしまう。
「な、なに?」
「…………あたし、」
俯き加減で何か言おうとしている。
「あ、……明日、休むから。……その、」
そこまで言ってまた声をつまらせた。
少し待ってはみたが、喋りだしそうな気配がないので、顔を覗き込む。
「雨宮?」
次の瞬間、雨宮は問題集にペンを走らせた。文章や空白を無視して、何か数字を書いている。
「……わからないところ、あれば、き、聞いてきなさい……よ。」
突き返された問題集に書かれていたのは、どうやら彼女の連絡先だった。蛍光色に図々しく並ぶ番号を眺めていると、雨宮はせわしく鞄を持ち、先に席を立った。
「く、くだらないことで掛けてきたら、……ひ、ひひひっぱたくから!」
映写室を出る直前に、忠告を残して走り去ってゆく。
僕は唖然ののち呆然と、そして呆然ののちに顔を覆い、肩を震わせた。
しばらく堪えてはいたけれど、問題集にでかでかと並ぶ番号を見てしまうと、もうだめだった。
にやけ顔から元に戻れない。
もう授業が始まるというのに、映写室から出られそうになかった。




