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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第二章】 沈みゆく天道
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09  『爆発』




“あなたを愛しているわ、世界で一番。”



 注ぎこまれる声と感触の無い抱擁に、これも夢かと確信した。

 今日だけで()()()とは、記憶のなかの母さんは少々でしゃばりだ。



 まだ背丈の足りない僕を、母さんは膝立ちで正面から抱きしめている。

 隙間無く密着して、うわごとみたいに愛していると繰り返す。


 “あいしている” “あいしている” “あいしている” ……と、


 まるで呪いだ。




“おかあさん、ぼく、きこえてるよ、”



 やまない呪文に終止符をうちたかったのか、脆弱な彼女を支えたかったのか、あのときの僕のことは、正直、わからない。



“ええ。いいの。何度だって言うわ。”

“お母さん、あなたを愛してる。”

“あいしてる、あいしてる、世界で一番愛しているわ。”


“子どもはね、愛されていればいいの。愛されるべきなのよ、子どもは、みんな。”



 あいしている あいしている あいしている あいしている あいして いる


 呪いは続いた。それが呪いだと僕は理解していた。

 でも、呪われ続けた。最初は母さんのため。時々、自分のため。


 そして、いつの日かそれは…………




「愛されない子どもなんて……あんまりじゃない。」




 このひとは、何のために僕を愛したのだろう────────










 目が覚めたら、ひのでに見おろされていた。僕と天井の間を遮っている。


「……? どうした?」


 妹が僕の部屋を訪れるなんて珍しい。用件を尋ねながら瞼をこすると、目尻の端では涙が乾いてへばりついていた。


(あきら)が、晩くなるって。」

 どうやら、母さんから連絡が入ったのを伝えに来たらしい。


 ひのでは両親を名前で呼ぶ。母さんのことは呼び捨てで、父さんには「さん」付けで。母さんは、ひのでからの唯一の愛情表現だと好意的に受け止めているけれど、真意は正反対であるのを僕は黙っている。


 今夜も母さんが外出するのは聞いていた。

 帰りの時間が読めないので夕飯は用意しておく、目処(めど)がたち次第連絡する、と聞いていたわけだが、既に九時前。ここから晩くなるということは、日を跨ぐのかもしれない。


「私も、少し出る。」

 出る、と告げたひのでには化粧が施されていて、肩には鞄もぶらさがっていた。


「でるって、どこに、」

 僕は眉をひそめた。

 時間も時間だし、妹は相変わらず女くさい目を惹く身なりをしている。水商売の出勤前に見えなくもない。そもそもこいつはまだ停学中だ。


「復学前にみつかると面倒だぞ、」

 やんわりと忠告してはみたが、兄の言うことを素直に受け容れる妹でないのは百も承知だ。ひのでは鏡を覗いて前髪やまつげを軽くいじり、当然のように忠告を流した。


 そしておもむろに鞄から包みを取り出し、ぶっきらぼうに差し出してきた。


「なんだよこれ、」

 包みは手帳ほどの大きさで、ひのでには似つかわしくないファンシーな絵柄をしている。

「もうすぐモモカがくるから、渡しておけ。」

 なんて横柄な依頼だ。依頼というより命令だ。


「自分で渡せばいいだろ、」

「うるさい。おまえが渡すんだ。おまえが買ったことにしろ。」


 さも当然に命令が増える。わけのわからない言動に呆れ果てていると、反応が気に入らないのか、ひのでは目を鋭くさせた。


「余計なこと言ったらぶん殴る。」


 妹の場合、これが脅しじゃないから困る。ひのでは包みを押し付けると、行き先も告げずに出ていった。

 抵抗させてくれない理不尽と、予定外に訪れた開放感と、少々の心配に、僕は複雑なため息をついた。




 ひのでがどうでもいいわけじゃない。

 此度の停学、妹の将来、時には身を案じることだってある。

 でも、今みたいに扱われては、好きか嫌いかの二択で妹を表す場合、どうしても好きを選べそうにない。そして、どうにもならない無駄なことばかり、考え始めてしまう。


 どうして僕はひのでの兄で、ひのでは僕の妹なんだろう、と。


 せめて男同士だったら。もしくは女同士だったら、

 もっと年齢が離れていたら。産まれた順番が逆だったら、

 僕らは別のかたちで、ちゃんと、きょうだいになれたんじゃないか、って。




「お互いが唯一のきょうだいっていうのも、難しいんだよね、きっと。」


 百香は思いついたように言った。

 コーヒーの湯気に息を吹きかけながら、その合間に、ぽつりと。


 ひのでが家を出てすぐ彼女はやってきた。手土産のドーナツを箱一杯に持ってきて、特に用件があるわけでもなく、あがりこんできた。

 僕もなんとなく彼女を迎え入れた。そしてなんとなく、ひのでのことを話した。詳細は伏せて、「妹が難しい」程度の話を。


 普段ならこんなこと、絶対口にするものか。ましてや百香なんかに。

 昨日までの僕ならそうだっただろう。だけど今はこうして彼女と向き合っている。これもきっと、放課後での一件が、良くも悪くももたらしたゆとりなのかもしれない。



「唯一のきょうだい?」

 僕は珍しく百香の話に耳を傾けていた。


「うん。きょうだいってさ、親が同じならほとんど同一人物じゃん。材料が同じなんだから。」


 百香はさらりと言ったけれど結構生々しい発言だ。それに極論過ぎる。僕が指摘すると、百香も「たしかにー、」と笑った。


「でも、割と的を射ていると思うよ。百香は一人っ子だから知らぬが仏だけど、同じ材料で生まれて、同じ環境で育った人間が客観的に見えちゃうって、人生においてちょっと目障りかも。」


 人生においてちょっと目障り。百香らしい言い回しに、不覚にも納得してしまった。


「ましてや、旭とひのでは二人兄妹でしょ? だから、お互い唯一のきょうだい。」

 なるほどな。僕は素直に頷いた。


「きょうだいがもう一人くらいいたら、もっと楽だったんだろうな。」

「んー。それ言われちゃうと、ちょっと悔しい。」

 悔しい? 僕が首を傾げると、百香はわざとらしく唇を尖らせて、すぐににこりとえくぼをみせた。


「だって百香、ひのでのお姉ちゃんのつもりだもん。」


 その笑顔が僕には理解できなかった。照れているような、慈しんでいるような、どことなく誇らしげな。

 やっぱり彼女は度々、僕を煩わせる。


 話を変えてしまおう。僕はここぞとばかりに、ひのでから依頼された包みを彼女に渡した。

 何が入っているかはわからないけど、余計なことも言えないので、とりあえず「これやる」と簡単な言葉を添えた。


「えっ、うそ!」


 包みを見るなり百香は歓声をあげた。袋の柄で中身が把握できたらしい。目を輝かせながら「開けていい?」なんて聞いてくるので頷いた。

 包みから現れたのは、ピンク色の兎が描かれたスマホケースだった。


「やだあ嬉しいっ、ありがとう!」

 百香はパッケージごと抱きしめながら大げさに喜ぶ。

「どこでみつけたの? 百香のために探してくれたの? 覚えててくれたの?」

 続く質問責めには返答のしようがなくて、あー、とか、んー、で対処した。それでも百香の喜び様は静まりそうにない。


「ほんっと嬉しいっ! 旭からのプレゼントなんていつぶりかなあ。」


 僕はコーヒーを啜りつつ、たまに横目で彼女を眺めながら落ちつくのを待った。



「……よかった。安心しちゃった。」

 感激の終わりあたりで、百香は呟く。



 安心? つい反応してしまった。


「旭、最近ちょっと違ってたから、」

「違ってた、って?」


 妙な言い方だな。


「うまく言えないけど、ぐーんと遠く行っちゃう感じ、みたいな。」

「いやわかんねーよ。」

「えへへ。でもよかった。…………百香ね、心配してたの。」


 百香はカップを置くと、急にしおらしい態度になり、指を合わせだした。もじもじと、何か言いたげなしぐさを見せる。



「あのさ、やっぱり、雨宮さんとは、仲、良いの?」



 やがて遠慮がちにきいてきた。合わせた指同士をいじり、視線を泳がせる。

 どうあがいても彼女は、僕を煩わせるみたいだ。


「べつに。」


 げんなりと返答すると、泳いでいた視線が上目づかいに定まった。


「じゃあ……さ。その……ああいうの、やめたほうが、いいかも。」


「ああいうの?」

「今日の、放課後、みたいなこと。」


 やっぱり行き着く場所はそこか。

 瞬時に、彼女の訪問目的が把握できた。放課後の僕の雨宮に対する行動について言及しに来たわけか。正直どこかで口を挟んでくるだろうと覚悟はしていたけれど、まさかこんなかたちでとは。


「怪我してたから手伝っただけだろ、」

「雨宮さんのあれ、怪我なんかじゃないよ、」


 百香は突然、声をかぶせてきた。


「前からよく巻いてるんだよ、包帯。男子はわからないかもしれないけど、女子の間では有名で……その、たぶん、リスカなんじゃないかって。雨宮さんってほら、静かなタイプだし……そういう噂、あるの。」


 『静かなタイプ』……以前は優しいと思えたその表現が、一気に悪意に染まる気がした。

 事情を知らない人間が憶測をたてるのは仕方がない。相手が雨宮なら尚のことだ。頭では充分理解しているのに、嫌悪感があふれてくる。



「……くだらないよな、女子のそういうところ。」



 悪意を悪意で返すなんて幼稚かもしれない。そもそも、百香の悪意こそ僕の憶測でしかない。どうやら僕はまだ、嫌悪を抑制できるほど、大人には成れていないらしい。


「も、百香もね、そういうの良くないって思うよ? でもほら、そういう人に関わると、旭も何言われるかわかんないし。放課後のことも、けっこう、目立ってたし……」

「いちいち予防線張ってる分、おまえのほうがたち悪いよ。」


 僕は歯止めが利かなくなっていた。

 百香がどんなに言葉を選んで説得しようと、あの日のぼろぼろになった雨宮が浮かんで、とても容赦できそうにない。


 『たぶん、リスカ』ってなんだよ。『そういう人』ってなんだよ。おまえに何がわかるんだよ。


「百香は、旭のこと心配してるの!」

 ついに百香は声をあげた。


「心配心配言うなら、おまえこそ周囲の目みろよ。外でも学校でも馴れ馴れしくしやがって。」


 吐き捨てるように僕は言い返した。今の嫌悪感と、今までの鬱憤も全部こめて。

 とたんに百香の表情が曇る。


「なんでそんなこというの……?」

 声は湿り気が帯びて、震えだした。


「百香は、こんなに、旭のこと考えてるのに。いつも、いつも心配してるんだよ? ……今日の課題だって、旭、きっと苦労してるだろうから、助けになれたらいいなって、頑張ってノートまとめて……ひのでにも手伝ってもらって、ちゃんと全部……」



 は?



 思わず反論を忘れた。涙を浮かべる百香も、どうでもよくなった。


 そんなことより聞き捨てならなかったのは、彼女の発言にだしぬけ登場した、妹の名前だ。


「なに? まさか、あのノート……ほとんどひのでが、」


 今になって、不自然に完璧だったノートを思い出す。

 嫌な推測がよぎり問い詰めると、さめざめ嘆いていた百香がきょとんとした。


「だって、ひので数学得意だし……旭、大変だろうからお願いって、百香、ひのでに頼ん────」



「ばかにしてんのかよ、」



 満ちた嫌悪が溢れかえって、憤慨へと変わった。

 厄介な女だ。彼女の善意はいつだって、僕を殺す。


 こいつは誰よりも僕に近づいて、誰よりも僕を否定していることに気づいていない。


 優しさの副作用みたいなものだと、言い聞かせてきた。

 どんなにうんざりさせられても、煩わしく思えても、感謝するたびに帳消しにしてきた。

 だけどそれも全部、どうやら(きず)を塗り潰していただけにすぎない。


「なんで? 旭……怒ってるの?」


 性悪でない分、(たち)が悪い。いつからこんなふうに思ってしまったんだろう。



「うっとうしいんだよ、おまえ。」



 積年の本音が声に出た。

 憤慨の理由を知る由もない百香は、戸惑いと驚愕の入り混じった顔をみせ、やがて唇を噛み締めて俯き、たった一言、「ごめん。」と謝罪を残し、出て行った。

 兎を包んでいた袋がテーブルに残されていて、僕は音をたてて握り潰し、くずかごへ投げた。

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